第4話
「……これで髪が短ければ」
夜中、家族が寝静まった頃。美鶴は貰ったズボンを身につけて、鏡台の中の自分を見つめていた。髪が短ければ違う自分になれるのだろうか。と、その時であった。
「なにをしているのです」
背後からした声に、美鶴は心臓がひゅっと縮まる思いがした。
「なんて格好をしているのですか」
「これは……貰ったんです……友達から、似合うからって」
「馬鹿馬鹿しい。脱ぎなさい」
「……はい」
美鶴がズボンを脱いで寝間着に着替え直すと、祖母は部屋から出て行った。
だが、ほっとしたのもつかの間、またふすまが開く。
「なんですか」
「それを寄越しなさい」
祖母の手には裁ちばさみが握られていた。
「その恥知らずなものを始末します」
「やめて!」
美鶴は思わずドン、と祖母を突き倒し、その鋏を奪い取った。その重さが手に伝わると、美鶴の心臓はドクドクと音を立てた。なんだか頭がぐるぐるする。
「そんなんだったら……そんなんだったら……」
ぐい、と美鶴はお下げに結った自分の髪をつかみ、その裁ちばさみで切り落とした。ぼとり、と椿の花のように毛束が床に落ちる。
「ひっ、なんてことを……」
その様子を見て、祖母は真っ青な顔をしていた。
美鶴は顔を上げた。妙に頭がすっきりとしているのは重い黒髪をなくしたせいなのか、それともなにもかも吹っ切った心持ちのせいなのか。
「……お祖母様、これから先は私は死んだと思ってください」
それから美鶴は断髪に男装で学校に通うようになった。それを見た級友たちは大騒ぎできゃあきゃあ声を出し、教師はさっそく職員室に美鶴を呼び出した。だけど美鶴は男装をやめなかった。
「やるじゃない、美鶴」
万喜はそう言って、翌日からセーラー服を着て登校するようになった。
そして美鶴の父親は――何も言わなかった。美鶴が金を無心してスーツを仕立ててきても何も言わなかった。
祖母は変な運動にかぶれているのではないかと、ブツブツと繰り返し小言を言っていたが、父が全く無関心な為、美鶴の服装を改めさせることはできなかった。
***
「おい、美鶴!」
急に背後からした大声に、美鶴はハッとした。なにやら長いこと考え事をしていたようだ。
「ここを開けるぞ」
「……どうぞ、兄さん」
すると乱暴にふすまが開かれ、怒った顔をした兄二人が部屋に入ってきた。
「これはお揃いで。
勇は長兄、正は次兄。同じ高等学校に通う二人は歳ひとつ違いの兄弟で、下の正と美鶴は二つ離れている。
「こちらの学校にまでお前の噂が聞こえてくる」
「どうしてそんな男の格好なんかしてるんだ。恥ずかしい」
吐き捨てるように勇が言い、正が追従するように美鶴を文句を言った。
「どうして……でしょうね。私は私のしたいようにしてるだけです。では、お風呂に入りますので」
何か説明したところで、この兄たちの理解や納得を得ることは出来ないだろう。ならばそれは無駄でしかない。
「美鶴、話を聞け」
「勇兄さん、風呂場までついてくるつもりですか?」
「ば、馬鹿を言うな! 行くぞ、正……」
苦虫を噛みつぶしたような顔をして二人は部屋を出て行った。
「私の……気持ちなんて……誰も分からないくせに……」
家族の誰もが、美鶴の男装をただの反抗と捉えて攻める。だが、美鶴の中では誰かを困らせようとかそう言うつもりはないのだ。
美鶴がズボンを穿く時、そこには自由があった。己の殻を破って、違う自分でいられる。女学校で級友に囲まれている間、美鶴は自分を好きでいられる。だから美鶴は男装をしているのだ。大人に、男に、なんと言われようとも。
「……ふっ」
美鶴はあることを思い出して笑った。そう言えば、美鶴の格好を見て嗤わなかった人が一人いる。
――琴子の兄だ。彼は美鶴のズボン姿を褒めてくれた。きっと琴子に対しても大らかで良き兄なのだろう。初見で変なものを見なかった、それが嬉しかった。
「本当に……うらやましい」
誰かに本当に理解されること。それは美鶴にとって遠く、手の届かないようなもののように思えた。
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