第2話

「う……ううっ、ぐすっ、ぐすっ」


 客席で、他の客が振り返るほど大泣きしているのは琴子だった。万喜は優しく琴子の背を撫でて慰めている。


「琴子さん、しっかりして」


「だって……だって……こんなに悲しいお話だと思わなかったのだもの」


 オペラが終わって、その結末を見届けた琴子は、報われぬ恋の行方とその終わりに、もう体中の水分がなくなるのではないかというくらい涙を流していた。


「あんなに思い合ってるのにあんまりだわ」


 そしてまた、わんわんと琴子は泣き始めた。そばにいる雄一は頭をかきながら、どうしたものかと口を開く。


「えーと、だからこそ、最後のシーンが映えるのだよね」


「む……そうね、美しかったわ」


 ようやく琴子の涙も引っ込んだようだ。万喜と美鶴は互いに顔を合わせて首をすくめた。




「琴子、それではお待ちかねの昼食としよう」


 美鶴のかけ声を受けて、昼食は手軽に天丼を食べることにした。出てきた丼は海老がはみ出すくらいに大きく、ごま油の香ばしい香りがして、甘ッ辛い味付けのつゆが天ぷらにもご飯にもたっぷり染みて、これがもうたまらない。


「おいしいね」


「はいっ」


 美鶴の声に応える琴子は口元に米粒をつけている。美鶴は先ほどまで大泣きしていたのにもうケロリとしてと思った。


「あらやだわ、琴子さん。おべんとついてる」


 それを見て万喜が吹き出すと、琴子は真っ赤になって慌てて米粒を取る。その素直な反応を、美鶴はうらやましいとすら思うのだった。


 食後のお茶も飲み終わって、一同ふう、と息を吐いたところに雄一が口を開く。


「さあて、皆さん。目的のオペラ見物は出来ましたが、まだ日もありますし……どうでしょう、十二階を見物するのは」


 その提案に、三人娘の顔がぱっと輝く。


「あら、素敵! 琴子さん、あなたのフィアンセは良いこと言うわ」


「てっぺんからの眺望は素晴らしいよ」


 万喜も美鶴の凌雲閣には行ったことがあるが、琴子にも是非あの風景を見て貰いたいと思った。


「そうよね、浅草に来たのなら行かなくちゃ!」


 琴子も乗り気になって、席から立ち上がった。


「あ、その前に浅草寺にお参りしましょ」


 そうして、四人は仲見世を通って浅草寺に向かう。通りはレンガ造りの店が並び、土産屋やら、お菓子やら、書店に唐物屋と様々な品が並んでいる。


「あっ、おこしよ」


「琴子さん、食べたばかりでしょ」


「やあね、万喜さん。お兄様とタマへのお土産よ。ちょっと待っててね」


 琴子はタタッと、店に駆けていく。


「……琴子は完全に舞い上がっているね、雄一さん」


 美鶴が雄一にそう話しかけると、雄一はくすっと笑いながら答えた。


「初めて療養先で会った時もあんなでした」


 おてんばな様子に困るどころか、彼は気に入ってすらいるようだった。きっと結婚して夫婦となっても、この二人は仲睦まじくやっていけるだろうな、と美鶴は勝手に思いを巡らせる。


「まあ! 琴子さん、何をもぐもぐしてるの」


 やっと帰ってきた琴子を見て、万喜は声を出した。琴子は何か食べている上に、もう片手に饅頭まで持っている。


「色々味見させてくれたのよ。いっとう気に入ったのを買えたわ。そしたらね、お饅頭も美味しそうで……」


「琴子、これじゃあ十二階に着く前に日が暮れるよ」


 呆れる万喜と美鶴をよそに、素知らぬ顔で琴子は饅頭にもかぶりついた。


 そんな琴子を引きずるようにして、鳩の豆売りのおばあさんたちの横を通り抜け、四人は浅草寺にお参りをした。


「みなさんと、ずっと仲良くいられますように……」


「あら、私もよ」


「私も」


「俺もだよ、琴子さん」


「うふふ、みんな一緒ね」


 四人でお参りを終えて凌雲閣に向かう。どんどん建物が近づいて来る度に、琴子の首の角度がのけぞっていく。


「わぁ、遠くで見たときも大きいと思ったけど、高いわねぇ」


「琴子さん、首が取れそう」


「さあ登るよ!」


 この凌雲閣、エレベーターはあるのだが、これは設置当初から故障続きで、禄に動かず閉鎖されたまま。そんな訳で、てっぺんの展望台まで、みんなで階段を歩いていく。


「ああ、しんどい……足が痛いわ」


 ぐるぐる階段を昇っていくうち、万喜がさっそく音を上げた。美鶴は万喜の足下を見て、それは仕方ないと思った。


「そんな高いカカトで来るからだよ」


「だってぇ、この靴が今日は履いてって言ったのよ」


「靴が喋るもんか」


 だが、そんな二人のやり取りの間に大変なことになっていたのは琴子だった。


「お腹痛い……」


「えっ」


 慌てて雄一が琴子の体を支えるようにする。さっきまで自分は健脚だから大丈夫と吹いていた琴子が額に汗をかいていた。


「もう! 食べ過ぎなのよ!」


 万喜が呆れた声を出す。


「琴子、もう少し上に休憩室があるからね。そこまでの辛抱だよ」


 そう言いながら美鶴は琴子の手を引いた。九階にある休憩室で、しばし座ると、琴子の顔色が戻ってきた。


「ごめんなさい!」


「いいって。せっかく晴れの天気なんだから……さぁ、日本一の眺望を拝もう」


 美鶴は琴子の手を引いて、階段を上がるのを手伝ってやった。そうして、ようやっと登り切った十二階の展望台は素晴らしい見晴らしだった。


「はぁあ……」


 琴子は息を飲んだ。東京の街が、いやその向こうの四方の山までも、遮る物なしにぐるりと見渡せる。だが額の髪を揺らす風に、同時にお腹の中がひゅっとするような、嫌な感覚もあった。


「ほら、琴子さん。もっと端っこに来なよ」


 雄一が手招くのを、琴子は首を振って拒否した。


「ええ……。だってその手すり、危なそうだもの」


「寄っかかったりしなけりゃいいさ。ほら、あれが富士山だよ」


 雄一の指さす方に目をやれば、一際高い山がそびえ立っているのが見える。


「本当だわ」


「こっちにおいでよ。望遠鏡があるよ。あっちが琴子さんの郷里だよ。お父様が見えるかも」


「まさかぁ」


 琴子は雄一の冗談に笑いながら、望遠鏡の方に向かう。美鶴は頬にかかる髪をのけながらその様子を眺めていた。


「やぁ、私たちのお姫様には喜んでいただけたようだね」


「そうね。琴子さんは本当にかわいいこと」


 美鶴と万喜は楽しげな琴子の様子を見て満足げに互いに頷いた。夕焼けのちょっと前、輝きを増した太陽に、白い雲がふんわりと明るく染まっていた。


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