二章 美鶴
第1話
この東京市で娯楽の街と言えば浅草である。本日、三人娘はかねてより念願の浅草に来ていた。
加えて付き添いとして雄一が一緒に来ている。一応は雄一の友人も誘ったのだが、この三人に怖じ気づいたらしかった。
琴子は白地に明るい赤と青の太縞の銘仙を着て、万喜は水色の花柄のワンピース、美鶴はベージュのスーツ姿。衣替えしたてのそれぞれの装いである。
「わぁ、大変な人……!」
休日のこの日は、いかにおもしろく過ごそうかと、浅草は人でごった返していた。
浅草公園を目の前に、ひょうたん池の左手には浅草十二階こと凌雲閣、視線を右に移せば花やしき、さらに向こうに五重塔が見える。
「ねぇ、なに食べる? 寿司? 牛鍋? 鰻? それとも天ぷら?」
くるくる花びらのように回りながら琴子は食べ物のことばかり口にしている。
「琴子、昼食にはまだまだだよ。それよりほら、見てご覧」
美鶴は興奮しきりの琴子に向かって遠くを指さした。
その先の六区の通りには演目の大きなのぼりがこれでもか、と建ち並び、入り口には美男美女の役者の看板がこちらに微笑みかけている。
活動写真に、寄席だの、見世物小屋、それに新劇にオペラ。そのほかにも色々と、大衆娯楽のすべてがぎゅうと詰まっている。
「金鶏座、蜂川きよ子が主演の初作品……」
琴子が新作の活動写真大看板を読み上げた。
「へぇ、女優さんが女の人の役をやるのね」
「新劇の女優さんだね、琴子さん。今にこういうのは歌舞伎の女形でなくて、すっかり女優の仕事になるだろうね」
「物知りね、雄一さん」
そんな二人の会話を、万喜と美鶴は面はゆい気持ちで聞いている。とその時、迂闊な通行人が美鶴にぶつかった。
「あっ」
「なんだ馬鹿野郎!」
そのオヤジは自分からぶつかってきた癖に、いきなりそう怒鳴りつける。
「これは失敬」
だが美鶴は落ち着いてそう答えた。オヤジはじっと美鶴を見ると、吐き捨てるようにして言った。
「なんでぇ、この男女」
そしてそのまま去って行く。琴子はカーッとしてその背中に怒鳴り返した。
「なんですって! 自分がうっかりしていたのに!」
「琴子さん、どうどう」
雄一が猛犬を躾けるみたいにして、琴子を止めた。
「ふん、失礼な人ね」
「そうだね。でもやたらと騒動を起こすのも危ないからね。美鶴さんは我慢したろう」
男女というよりも兄妹のような会話であるが、琴子と雄一は仲がよさそうである。
それにつけても、と美鶴は心の中で呟く。女が女の役をして珍しがられ、自分が男の格好をして文句をつけられる。女というものは不自由なものだ、と。
「さて、お二人さん。劇場についたよ」
仲睦まじくおしゃべりを続ける二人を遮るのを申し訳なく思いながら、美鶴は目的地に到着したのを告げた。
「あっ……ごめんなさい」
そんな四人の前の劇場には『椿姫』という看板が立っている。
「これがオペラなのねぇ」
オペラの劇場の入り口には、若い客がどんどん吸い込まれるようにして入っていく。
「さ、始まってしまうよ。みんな」
雄一が手を叩くと、皆ハッとして慌てて劇場に飛び込んだ。
「ああ、私オペラはじめて!」
琴子は頬を紅潮させ、胸に手を当てて声を出した。
「あら琴子さん、そしたらね、このお話の筋書きはね……」
「いやよ、万喜さん。種あかしなんて意地悪だわ」
「そお? そしたら黙っておくわ」
やがて序曲が始まり、幕がするすると上がる。
――そうして舞台ははじまった……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます