第18話

 消毒液を浸したガーゼをあご下の傷に押し当てられると、でかっ鼻の電撃に近しい痛みに襲われる。


「じっとしていてください!」


「それ、本当に消毒液? 殴られた時より痛いなぁ」


 保安室でハネンが救急箱から、包帯を取り出した。


「大げさだな」俺は顔を引っ込めると、ハネンがほおを膨らませる。


「顎の骨が折れているかもしれません! ちょっと我慢するだけですよ!」


 そんな包帯を付けた風体で、ギルドメンバーにきついお仕置きなんかできない。ナメられて仕事が増えるだけだ。

 抵抗していると、エレナが事務局や保安局から情報を集めて帰ってきた。

 

「三人の身元だけど、他国で兵士をしていたり、冒険者からギルドメンバーになったり、昔からの傭兵だったり……バラバラね。

 でも一つだけ共通点があって『フェリガ』っていう宗教団体の信者らしいの。三人とも片翼の銀バッチを持っていたって」


 新聞に載っていた新興しんこう宗教の広告を思い出した。右の翼しかない奇妙な紋章が印象的だった。

 フェリガは他の町で多くの信者を獲得し、ウエストリバーでも急速に勢力を伸ばしている。


「ニーサ・セアは誰に殺されたか、分かっていないのか?」


「それが……殺されてなんかいないのよ。全部あの三人の嘘。ハーズさんを連れ出す口実だったわけね」


 連れ出す口実は、ニーサの殺害容疑以外でもよかったのかもしれない。要は生死の確認がとりにくい相手であればいい。

 ――しかし、妙に引っかかった。

 昨晩のニーサの奇妙な依頼といい……理論的に説明できないわだかまりが俺の中で残った。


「なぜ魔石の在処を聞き出そうとしたのか、その理由は分かったのか?」


「まったく不明。三人とも一切、口を開かないらしいのよ」


 包帯を諦めて、救急箱を片付けるハネンを呼び止める。


「ハネン、あの珍しい魔石覚えているか? あれは今、どこにあるんだ?」


 ハネンは急に魔石のことを聞かれ、目を丸くした。


「私の借り部屋にありますけど……?」


「エッ、持ってきているのか⁉」


「は、はい……。いずれ……その……あの魔石でマジックアイテムを作って売れば、資金になるかなって。もちろん、祖父には話をしています」


「なんだ、店を構えるつもりだったのか」俺はわざわざ自分の給料から、ハネンの生活費を捻出ねんしゅつしなくてもいいんじゃないかと思った。


「いえ、その……結婚資金にしようかなと、ハーズさんとの……」


 ハネンは顔を赤くすると声が小さくなった。

 はっきりと聞こえてしまったが、俺はそれにそっとふたをした。


「ハネン、その魔石を狙っている奴がいるらしい。危険だから、いったんギルドで預からせてくれないか?」


「わっ……分かりました!」


 狙われる理由が分からない間は、あの魔石から距離をとっておいたほうがいいだろう。単に金銭的な価値だけでは、凶行の説明がつかなかった。ギルド保安官を殺せば、すべての町のギルドからその身を追われるのだ。


 俺はコートをつかむと、保安室の扉に手をやった。


「ハーズさん! どこにいくんですか!?」


 救急箱を抱えたまま、ハネンが驚いた顔で尋ねる。


「ちょっと宵闇よいやみ通りの酒場に行ってくる」


「そんな! もう深夜ですよ? 怪我もしているんですから!」


 ハネンは今にも泣きついてきそうだ。


「大丈夫だ。心配しなくていい。エレナ、ハネンのことは頼んだぞ」


「あ、はいはい」


 俺は宵闇通りに向かった。


***


 宵闇通りはその名前以上に暗かった。

 街灯が消えて、飲んだくれがゴミ箱につまづきながら歩いている。

 レンガ造りの共同住宅から届く窓の光を頼りに、俺は酒場前に着いた。しかしすでに酒場の明かりは消えていた。


 ――首が痛い。少し横になりたいなぁ……。

 しかし、この事件は早く尻尾をつかまえないと、かすみのように手がかりも消えてしまうように思えた。

 俺の知らない何かが、偶然についてしまった傷を隠すように、漆黒しっこくの闇に逃げていく息づかいを感じていた。



 二階の居住スペースと思われる部屋も、カーテンが閉まっていて中の様子は分からない。酒場の裏手にまわると、さらに闇が深くなり左目でも見えづらかった。


 ふと、何かが白く反射した。

 水たまりかと思ったが、石畳と砂利のこすれる音がレンガの壁を反響した。

 じりじりと動く黒い塊が、俺にゆっくりと近寄ってきている。


 俺は火の魔法を指先から発すると、目の前によだれを垂らした黒い犬が鋭い牙を見せつけた。さらに牙の横から、もう一頭の同じ毛並みの犬がうなり声をあげ、下の方で三つ目の頭が狂ったように吠えた。

 三つの頭を持つ魔物、ケルベロスだった。

 

 身の危険を感じて、反射的に近くにある木製のほうきを手に取る。ケルベロスは地面を蹴り上げて、筋肉の塊をバウンドさせると俺に飛び掛かってきた。

 人の頭ほどある大きな犬が、ガードした箒を口にくわえると、体重を乗せて来たので、俺は後頭部からレンガの地面に叩きつけられた。


 鼻の先まで迫る三つの頭が、紙のようにひと噛みして箒を砕く。もうひと噛みする直前に手のひらから発火の魔法を発する。大きな火球と閃光が広がると、暗闇だったことが功を奏して、ケルベロスはしばらく何も見えなくなった。

 おびえるようにキュンキュンと鳴くケルベロスの下を、風の魔法で自分の体を浮かせて、足からスライディングするように潜り抜ける。と、同時に、いくつかの小石を拾った。


 ケルベロスから十分な距離をとって、上体を立ち上がらせ、手のひらの小石を差し出すように前に構える。

 俺はその小石に向かって、風の魔法を発した。

 ただの小石だが、一つ一つに圧縮した強烈な風流を使えば、レンガにめり込むほどの凶悪な石つぶてになる。


 バチバチバチ!

 住居の壁や、石畳に小石が突き刺さる。

 黒っぽい魔物の血が、影のように壁に描かれると、ケルベロスは力なく倒れた。

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