第16話

 あっという間に外は暗くなり、魔法灯に光が入った。

 酒場の中央には一段だけ高い舞台があり、そこに白いワンピースを着た女性がピアノにあわせて歌い始めた。

 随分ずいぶんと若い歌い手だが、ウイスキーを味わい深くさせる。乱闘騒ぎで高ぶっていた飲んだくれ共も、ゆりかごに揺れてる赤ちゃんみたいに大人しくしてるじゃないか。


 彼女は古いナラティブを口ずさむ。もう昔の話だと思っていたのに、記憶にある、美しいものがありありと呼び起こされた。


 ――俺はマイロンと、楽団の演奏を鑑賞しに行った日のことを思い出した。

 絢爛けんらんな教会の壇上だんじょうで、輝く楽器を手にした奏者たちが一斉に音を響かせると、ぱっと空気が華やぐ。

 あの時のマイロンの美しさといったら、創造主でも言葉で表現するのに苦労するだろう。

 芸術に造詣ぞうけいの深いマイロンと会話ができるように、俺も勉強して詳しくなったものだ。

 しかし今となっては、そんな知識など一切必要としない世界で生きていて、なんだか落ちこぼれたような情けない気分になる。

『そろそろ前に進まなければ』

 ――歌い手の、そんな歌詞が胸にみ入った。



「ごめんなさい。待ったでしょ?」


 テーブルに白い指先が置かれた。

 顔を上げると、紫のドレスを着た女性が立っていた。

 柔らかそうな白い肌が、長い首と大胆に開いた胸元を強調している。 

 向かいの椅子に座ると、横髪の下でイヤリングが揺れ、口紅と一緒に雫のように輝いた。


 女は軽くあごに手を当てて頬杖をつくと、こちらをじっと見た。

 俺は苦し紛れにウイスキーのグラスを持ち上げたが、それは空だった。


「もう一杯どうかしら」


 女が手を上げると、さっきのボーイが魔法のように闇から姿を現して、ウイスキーのボトルを手渡す。

 女は椅子ごと移動すると、俺のグラスにウイスキーを注いだ。

 スモーキーなウイスキーの香りと、女の色香いろかが混ざり合い、まるでここだけが歌の物語に取り残されたように感じた。


 くり色のショートヘアに隠れた横顔を盗み見ると、白いうなじと緻密ちみつな肌が男の本能をくすぶる。強烈な魅力に俺の心臓が早鐘はやがねを鳴らす。

 ――やばい。すごい美人だ。俺に話? 絶対に危険な話だろう。逃げなくちゃ、逃げなくちゃ……。


「わたし、この酒場をやっているニーサ・セアって言うの。ご存じ?」


 宵闇よいやみ通りの女傑じょけつ

 話には聞いているが、これほど美しい女性だとは思っていなかった。

 身寄りのない女性や子どもを引き取って、家と食事をあてがい仕事を与えているらしい。

 ニーサは宵闇通りを中心にいくつかの店を経営していた。最近開店した生活雑貨店もニーサが資金を出しているはずだ。


「保安官にお願いがあって。ここ最近、ある噂が広がっていて困っているの」


 イヤリングがぶつかるぐらい、ニーサは顔を近づけた。


「その噂、とっても変な噂なのだけれど……宵闇通りでモンスターを見かけたって言うの」


 俺は口を曲げた。そんな怪しげな話が、ニーサ・セアの口から出てくるとは。


「不信感でいっぱいのようね。街の警備兵もそんな顔をしていたわ。でも、ここを拠点に働いている子は多いの。みんな不安がっているし、お客さんも最近はギルドの人ばかり。

 ……ハーズさん、ウエストリバーギルドで一番有能だって聞いてるわ」


 いまにもニーサの細い指先が、俺の手と心をからめ捕りそうになったので、腰を上げて金貨を一枚テーブルに置いた。


「……依頼はギルドメンバーに頼んでくれ」


 ニーサは残念そうに肩を落とすと、意味ありげに微笑した。誘惑の罠を見破られて取り繕ったのか、俺の臆病さを嘲笑したのかは分からなかった。


***


 次の日の夕暮れ時、少しだけ開けていた保安室の窓を閉め、今日の報告書を仕上げていると、階段を踏み鳴らす音が聞こえた。


 二人、いや三人か。

 同じ部屋にいたハネンが不穏な空気を感じて、俺と扉を交互に見る。


 扉はノックされず、藍色の制服を着た長身の男が入ってきた。

 特徴的な警備隊の紋章を、胸と帽子に付けている。


「ハーズ・ボトリックですか」


 感情のない棒読みの台詞を言うと、うなずいた俺に近寄った。


「ニーサ・セア殺害の容疑で守衛舎まで連行します」


 俺とハネンは固まった。

 エレナは何事かと、隣部屋から顔を出す。

 廊下から鼻の大きな男が入ってくると、俺の両腕を持ち上げた。

 後ろに控えている男を含め、三人とも警備隊の制服を着ていた。


「ニーサが死んだのか……⁉ まさか……」俺は冷淡な表情をしている男に問うが、返事さえしない。


 でかっ鼻は『禁術の縄』を俺の両腕に巻いた。魔法の一切が発せられなくなるマジックアイテムで、本来は囚人に使うものだ。


「ギルドに話は通しているのか? やりすぎなんじゃないか」俺は抵抗しようとしたが、廊下から三人目の男がギラリと目を光らせる。


「ハーズさん!」ハネンが我が子のように俺の腰に抱きついた。


「ちょっとした何かの間違いだろう。すぐに帰ってくるさ」


 エレナは「ギルドマスターを呼んでくる」と廊下を駆けたが、男たちは俺の両腕を引っ張って、半ば強引に牢馬車ろうばしゃへ閉じ込めた。

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