第26話 考える前に動け

 午前の英語の授業中、先ほどの心春の気丈な振る舞いが、無理しているような表情が、頭からどうしても離れなくなった。

 だが大抵のことなら自分自身で難なく解決しているところを見ていることもあり、自分から出しゃばっていくのはどうだろうとつい考えてしまう。


 片肘をついて、行われているサッカーの授業を横目に過るのは再会してからの彼女。


 まだ心春だと知らないときも先輩たちからの絡みをなんなく追い払っていたし、オタクの人達に文句を言われた時も、りよたんのことを語り、グッズを取り出した後はフレンドリーになっていた、引ったくり犯に至っては物怖じすることなく対峙していた。


 小城心春は自分の向かう道は自ら決断してそのレールをまい進することが出来る女の子だ。


 だからこそ余計なことはあんまりしたくない。


「でもなんでだろうな……? このままただ見てるのは後悔する、そんな予感がする」


 ぶつぶつとそんなことを呟いていると、


「じゃあこのact before you thinkを、そうだなあ、倉木、訳してみろ」

「……」

「おーい倉木、寝てるのか?」

「お、おい柚木、当てられてんぞ」


 前の席から悠斗の声がして我に返った。


「えっ……ってどこ?」

「ここだ、ここ訳せって」

「えっとこれは、これは……『考える前に動け!』」

「その通り、だけどちゃんと聞いておけよ」

「す、すいません……」


 柚木が綺麗に一礼すると、周りからくすくすと笑いが起こる。

 入学当初はあんまり馴染めなかった教室だが、大会が終わって心春が頻繁にやってくるようになって、その立ち位置もちょっとだけ変わった。

 いや、それよりも……。


『考える前に動け』


 それは小さいころ柚木が特に好きな言葉だったような気がする。

 なんで好きになったのかまでは思い出せない。


 そうこうしているうちに休み時間になった。

 居ても立っても居られなくなった柚木は、一目散に心春の教室へと向かう。

 しかし彼女の姿はなく、ネガティブな考えが脳裏をよぎり険しい顔をしていると、心春のクラスメイトから話しかけられた。


「1組の、たしか倉木君よね? どうしたの?」

「こは――小城さんは?」

「心春なら保健室に行ったよ」

「保健室!?」

「指を切っちゃったみたい」

「……そう、ありがとう」


 行き先を聞き、廊下に出て走り出そうとしたところではっと気づく。

 保健室、指を切る、そして今朝のこと。

 嫌な予感がする。何かが引っかかった。


 一転踵を返し、心春の机に向かい、手を突っ込む。


「ちょ、どうしたの倉木君?」

「……これ、は」

「っ!? なにそれ……」


 出てきたのは、ハートマークの付いた、べっとりで血でまみれた便箋。

 たちまちクラスメイトが集まり、口々に、


「それ、シャレになんなんじゃん!」

「今朝の黒板書いたのを同じ人がやったの……?」

「私、先生に言ってくる」


 この異常事態に声を上げる。


 考えうる中で最悪な状況ということもあり、柚木は一瞬呆然と立ち尽くしてしまった。


 胸のざわつきは大きくなるばかりで思考を停止したくなる。

 首を横に振り、廊下に出て階段を飛び降りるように降りていき、今度こそ保健室に向かう。


「失礼します!」


 声と同時に保健室の扉を開ける。


「っ! びっくりした。どうしたの、君も怪我?」

「い、いえ、ここに小城さん来ませんでした?」

「あー、彼女なら今しがた出て行ったよ」

「そうですか、どうもありがとうございました」


 白衣を着た常駐している先生らしき人がそう教えてくれる。

 もう治療は終え、どうやら行き違いになってしまったらしい。


「ああ、もう……」


 頭を無造作に掻いて、廊下を再び駆け出す。

 少し前にもこんなことがあった。

 ほんとに捜してるときは見つけられない。


 息を切らしてもう一度教室に戻ろうと階段を上りかけた時、すぐ上から彼女の声が聞こえて来た。


「心春ちゃん、やっぱり先生に言った方が……」

「だねっ。なんかすごい大事になってきちゃって、あはは、どうしよ……?」


 いつもの声の調子でなく、どこか不安を浴びたその声色に柚木は駆けあがる。


「心春!」

「柚木、切羽詰まった顔してどうしたの?」

「どうしたのじゃねえ、あんまりうろうろしてると……っ!?」

「えっ……?」


 階段の上から柚木を見下ろすように顔を出した心春。

 だが次の瞬間には、その体は投げ出されたように、無防備に、柚木にどんどん近づくように落ちて来る。


「「っ!?」」


 どこも怪我をさせない、そんなふうに思う余裕はなかった。

 大怪我を絶対にさせないように、頭を、顔を守れと柚木の体が無意識に動く。

 体全体でクッションになるように受け止める。


「心春ちゃん、倉木君!?」


 涼子の言葉が聞こえる、体を床に打ちつけたけど大きな傷にはなっていないようだ。

 心春の体温も感じる。みたところ外傷はなさそうだけど……。


「いてて、おい、大丈夫か?」

「……平気。咄嗟に凄いな柚木は。ありがとう。うわっ、細いのにやっぱり筋肉結構ついてるんだ。どう、どう、あたしの体? 柔らかい?」

「そ、そんなことよりも早くどいてくれ!」

「あはは、ごめんっ!!」


 体を起こした心春を改めて見れば、指先に絆創膏はしてあるけど他には目立った傷もなさそうだった。


「怪我がなくて何よりだけどよ、急に落ちてくんなよな……」

「……その、わざとじゃなくて、誰かに押された、的な……?」

「「っ!?」」


 上を見上げるが当たり前のようにそこに犯人の姿はなかった。


「あの、誰か今走って逃げて行った人、見ていませんか?」


 顔を出して覗き込んでいた生徒たちに涼子が尋ねるが皆いっせいに首を振る。

 誰も見てないのか……。人目に付かない隙を、その状況を選んだとしか思えない背後からのひと押し。


 なんて卑怯な手段を取るんだと思えば、また体に力が入り腸が煮えくりかえりそうだ。


「ねぇ、柚木は平気だった? その、怪我してない?」

「えっ、ああ、俺は何ともねーよ……」


 あくまで平静を装っている心春だけど、受け止めた瞬間から今もずっと体は震えていた。

 どこのどいつかもわからない。けど、起こる身の危険。それがどれだけ怖いかは本人でなくても痛いほどわかる。

 柚木はちらっと怪我をしている心春の左手を見つめた。


 こんな時どうしたら心にかかった靄を晴らしてあげられるか?


『考える前に動け!』


 考えようとしたのはほんの一瞬で、その答えを、小さいころのことを少し思い出していたこともあり、気づけば心春の手を握って、真正面からその目を見ていた。


「1人で全部対処するのはきついだろ。全部解決するまでの間、俺がお前を護衛する」


 目を見開いて固まる心春。

 その顔はどんどん赤く染まっていった。

 

「ゆ、柚木、それ、その台詞って蓮君だよね、蓮君じゃん! ちょ、録音したいからもう一回言って!」


 心春の言う通り、それは7話の絶体絶命を経て、蓮がりよたんに向けて言い放った台詞だ。

 今日一で興奮し顔を真っ赤にした心春の顔。不思議なことにその震えも止まっている。

 それは柚木の言葉が一瞬でも今の状況すらも忘れさせることに成功した瞬間だった。

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