第30話

 真正面からのロイの突撃を、ジャックは冷静に見据えていた。

 勝負は一瞬。ロイが拳に霊力を纏わせ、ジャックを殴打しようと腕を引いた、その時だった。


「はあっ!」


 ジャックは二本のナイフを勢いよく振り下ろした。

 

 麻琴には、それが早すぎるように見えた。ロイは接近しきっていないのだ。これでは振り下ろしたところで、致命的な隙を生みかねない。


 ロイは身体年齢からは想像できない、凶悪な笑みを浮かべる。自分の勝利を確実にしたと思ったのだろう。

 しかし、それはジャックにしても同じだった。


 そのジャックの笑みを麻琴が目にした時には、勝負は決していた。

 かつてロイが使っていた、霊力による真っ赤な斬撃。それを、ジャックは二本のナイフから放ってみせたのだ。


 ロイはぎょっとして目を見開いたが、最早回避は不可能だった。

 斬撃の波は、ロイの両腕を斬り払うように宙を駆けた。後方に吹っ飛ばされるロイ。

 だが、骨肉を絶つような生々しい音はしなかった。無音だ。


 そんな中、奇妙な現象が起こった。ロイの身体が二つになったのだ。

 斬られた? いや違う。ロイの肉体と霊体との間に乖離現象が起こり、それぞれが異なった方向に吹っ飛ばされた結果だ。


「神﨑!」

「分かってる!」


 ジャックに応じ、神﨑は駆け出した。腕を実体化させ、ロイの肉体――天海悠馬を抱き留める。


「エンジェ、天海の霊はまだこの近くを漂ってるはずだ。この肉体にまで導いてやってくれ」

「な、何をする気なの、ジャック?」

「天海にこの身体を返してやるんだ。彼だって、ロイが近くにいなければこんなことをやらかすはずはない。彼は少し、精神的に弱っていただけだ。助けてやってくれ。それからルシス!」

「へいへ~い」

「ロイの霊体の扱いを任せたい。頼めるか?」

「分かった。地獄の最下層にでも放り込んでおくさ」

「ああ。よろしく頼む」


 ひゅんひゅんとナイフを振り回し、鱗粉を振り払うジャック。それから彼は、二本のナイフを背負うようにして収納した。


「ジャック!」


 そう叫ぶ頃には、麻琴は駆け出していた。


「ジャック! 無事なの?」

「ああ、問題ない……と言いたいのは山々だがな」

「そうなの、大丈夫なのね! ――って、え?」


 ジャックは眉一つ動かさずに、淡々と語り出した。


「今の俺の状態、お前なら見れば分かるだろう? 麻琴」


 さっと両腕を肩の高さに上げて、コートを翻した。その端に黒っぽい染みがある。

 それが何なのか、麻琴には察せられてしまった。


「ジャック、これ……!」

「ああ。地獄のトラップさ。この染みは、だんだんと俺の身体を蝕んでいく。完全に黒く染まったら、俺は天国どころか、現世にも顔を出すことができなくなる。その代わり、少しは霊力の使い方が分かったようだ。さっきの斬撃は、俺が現世に戻る際に身に着けたものだ。お陰でロイを簡単に倒すことができた。悪いな、俺の道楽につき合わせてしまって」


 麻琴は言葉を発することも叶わず、ただただジャックの顔を見上げるばかり。

 自分はジャックを、心のどこかで英雄視していたのかもしれない。そして、彼と共に行動することで、自分が過去と決別できるのではないかと。


 だが、そんなことは起こらなかった。それどころか、ジャックという知人を持ってしまったがゆえに、彼と永久に会えなくなるという事実を突きつけられてしまった。


 心が崩れ去ろうとしている。麻琴はそう思った。

 どうして自分にとって大切な人が、こうもあっさりと手の届かない場所へ行って――逝ってしまうのか。

 ジャックの地獄逝きが決定した、という事実が、麻琴の心の核心部分を抉り取ろうとしている。心というものに形があるなら、それが真っ二つに引き裂かれる思いだ。


「ジャック……」

「泣くな、麻琴。お前は立派に戦ってみせた。きっとまた、大切だと思う人と出会えるさ」


 そっと麻琴の頭に手を載せるジャック。

 その時、横合いから誰かが飛び込んできた。


「うおっ!?」


 完全に不意を突かれた格好で、ジャックはよろめく。しかし、その人物に敵意がないことは麻琴にも感じられた。

 

 初めてその人物の名を呼んだのは、タックルされたジャックだった。


「充希……」

「ジャックさん、あなたは私を守るために、地獄に落とされたんですよね? こんな私なんかのために……」

「何を言ってるんだ、充希?」

「だ、だって、おかしいです! あなたは、何の取柄もない私を守ってくれるはずだった。それなのに、どうしてあなたが地獄に逝かなければならないんです? 私なんかのために!」

「……」

「どう考えても理不尽です! いっそ私が地獄に落ちて、あなたには生きていてもらった方が――」


 充希がそう言いかけた、まさにその時。

 ぱちん、といい音がドーム内に響き渡った。


「馬鹿を言うな!!」


 突然ジャックに怒声を浴びせられ、充希は、ひくっと喉を鳴らして泣き止んだ。


「これは俺自身が決めたことだ。年寄りの言うことは素直に聞くものだぞ、充希」


 しかし、充希も黙ってはいなかった。


「確かに私はあなたのことを何一つ知らない。本当に私のご先祖様なのか、確証はありません。でも、一つ確かなことがあります!」

「それは?」

「あなたは必死になって私のために戦ってくれた。私の未来を守るために力を尽くしてくれた。もしあなたが肉親でなかったら、初対面の子供相手にそんなことができますか?」


 これには、流石のジャックも言葉を失った。


「でも、だからこそあなたには現世にいてほしいんです! 私には家族もいないし、まして付き合ってる人なんているわけがない。こんな陰気で暗い女子高生を守るくらいなら、あなたには中途半端にされた自分の人生を送ってほしい。こんなことを言うのは変ですか? 奇妙ですか? おかしいですか?」


 そう喚きながら、充希はジャックに叩かれた左の頬を擦った。そしてその左手で拳を作り、ジャックの胸に叩きつける。


 その瞬間だった。

 ジャックの脳内に、充希の思考の波がどっと押し寄せてきた。これは充希が意識して行使した霊力ではあるまい。だが、ジャックに与えた衝撃は大きかった。

 ゆっくりと半歩、退き下がるジャック。ロイの相手をしていた時でさえ、一歩も退かなかったのに。


 ジャックが見ることになった、充希の思考。そこには、独りぼっちでいることの虚しさ、寂しさがこれでもかと詰め込まれていた。

 両親の死、友人との不仲、やがて何もできなくなっていく自分の無力さ。


「……苦労をさせたな、充希」


 そこに何かの特別な感情が含まれているのを、麻琴はひしひしと感じた。

 これが肉親のみがもたらすことのできる心の動き――愛情というものなのだろうか。

 幼くして両親を亡くした麻琴には、充希の姿が過去の自分と被って見えた。


 そしてジャックは、そっと充希を抱きしめた。

 幽霊相手に奇妙な言い回しだが、これでようやくジャックは憑き物から解放されたのだと麻琴は思った。


「じゃあな。達者で」


 そう言って、ジャックは軽く充希を押し返した。

 目線を合わせたまま、ゆっくりと背中から倒れ込む。そうして、ジャックは地獄へ通じる穴へと飛び込んでいった。


「さようなら、ジャックさん。私のために……」


 へたり込む充希の前で、ゆっくりと地獄への穴は閉じられていった。

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