第28話


         ※


 一瞬の浮遊感の後に襲ってきた、身体を縦に引き延ばされるような感覚。それを麻琴は、以前体感したものと同じだと自覚する。

 短距離走の選手がクラウチングスタートの準備をするのと同じ要領で、麻琴は両手を下に押しつけた。


 すると、再び訪れた浮遊感と共にふわり、と落下速度が減衰し、麻琴は両手と片膝を使って屈み込みながら床面に下り立った。

 本来なら、他の皆が大丈夫かどうか確認したいところ。だが、まずは敵襲に備えなければ。


 麻琴はリボルバーを抜きつつ、周囲の状況を把握した。

 確かにここは、以前ジャックが地獄に落とされた地下ドームの中、玉座の前だ。

 そこには今は何も仕掛けられてはおらず、動くものもなかった。

 玉座でふんぞり返った天海を除いて。


 自分の背後に柏田、そして充希を抱えた神﨑が着地するのを音だけで確認した麻琴は、手にしたリボルバーの照準を精確に天海の額へ。


「全員そこを動くな!」


 声を張り上げたのはいい。だが、今ここにはロイやルシスの姿はなかった。

 いるのは、やはり玉座に腰を下ろしたままの天海だけ。


「天海、仲間はどうした?」

「おやおや麻琴さん。そんなに怖い顔しないでよ。ちゃんと説明する」


 拳銃の射程外に天海がいること、そしてその境界線に自分が立っているということ。

 それらを確認した麻琴は、一旦立ち止まってリボルバーを握り直した。


「僕は君たちの知っている天海悠馬じゃない。正しくは、その身体を乗っ取ったロイ・バートンだ。まあまあ、疑問に思うのは当然だろうけど……。天海が僕の魂を地獄から引っ張り出してくれて助かった。お陰であの真っ暗な、冷たい空間から外に出ることができた。現世にね」

「目的は何?」


 糾弾するかのように鋭く切り返す麻琴。対する天海――ロイは、笑みを深くして言葉を続ける。


「一言で言えば不老不死、かな。そうすれば、どんな極悪人でも地獄に落ちずに済むからね。この身体なら、あと七十年は生き永らえる。そうしたら、また同じようにして新しい身体を手に入れる。まあ、そんな具合かな」


 ぎゅっと銃把を握り締める麻琴。その胸中を察したのか、ロイはさっと手を翳した。


「無駄なことはしない方がいい、麻琴さん。今の僕は、ロイの姿であった時の霊力と、元々天海の持っていた霊力の合計量をこの身に有している。そんなちゃちな銃、僕には通用しないよ」

「くっ……」


 麻琴は俯くふりをして、さっと左右に目を走らせた。

 ジャックが地獄に飛び降りたところには、まだ薄っすらと暗い煙が漂っている。


 なんとかそこまで神﨑と充希を誘導しなければ。そして一定時間守り通さなければ。ジャックが帰ってきてくれるまで。

 だが、自分以外に戦力となるのは柏田だけ。二人で時間稼ぎをしなければならない。

 柏田はそこそこ戦える様子で、礼装済みの自動小銃を構えている。


 どうしたものか――。

 麻琴が俯いていると、背後で、ひゅんっ、という音を立て何かが投擲された。同時に背中から思いっきり押し倒される。


「きゃっ! な、なん――」

「伏せて、麻琴さん!」


 声からして、自分を転ばせたのが柏田のようだ。同時に、煙幕が濛々と立ち込めるのを見て、柏田が煙幕手榴弾を放り投げたのだと悟った。もちろん、霊体化した幽霊にも通用するものだ。


「麻琴さん、これを!」

「んっ!」


 柏田から何かを手渡された。赤外線スコープだ。結局は文明の利器に頼るのが、生身であれ幽霊であれ、人間の性であるらしい。


 急いでスコープを装備する麻琴。だが、その視線の先にロイの姿はない。

 玉座の裏にでも滑り込んだのか。


 麻琴は大きく回り込み、玉座の背もたれへと回り込んだ。しかしそこにも、ロイの姿はない。代わりに、煙が奇妙な流れを見せている。


「上だ、麻琴ちゃん!」


 神﨑の声が響く。

 反射的にバックステップする麻琴。すると、麻琴の頭部があったところに拳骨が振り下ろされた。両手を組み合わせて振り下ろしている。


 ゴウッ、と空を斬った拳は、勢いそのままに床にクレーターを生じさせた。そのひび割れは麻琴の足元にまで及んでいる。凄まじい殺傷力だ。

 すかさず麻琴は銃撃を始める。ダンダンダン、と三連射。


「ぐっ!」


 短い呻き声を上げるロイ。だが、致命傷には程遠い。床を思いっきり蹴って、麻琴に猛進する。


 まさか、礼装弾がこの程度しか通用しないとは。

 麻琴は動揺しつつも、横っ飛びしてロイを回避する。だが、回避しきることはできなかった。


 ロイの広げた拳の先端が力――いわば衝撃波――を生じ、その先端が麻琴の頬を掠めたのだ。


「ッ!」


 突然の流血に、麻琴は一瞬我を忘れそうになった。動きが鈍る。振り返ったロイが再度攻撃を仕掛けてくる。それを妨げたのは、柏田の手にした自動小銃だった。


 冷徹さを纏い、柏田は弾倉一つ分の弾丸をロイに叩き込んだ。

 

「麻琴さん、離れて!」


 ぶんぶん腕を振り回しながら、ロイに駆け寄る柏田。

 麻琴はようやく柏田の意図に気づいた。彼女の背後では、神﨑と充希が地獄に通じる穴を展開していたのだ。


 もしロイが万全の状態だったら、間違いなく気づかれていただろう。

 だが、柏田が相手だったのが運のツキだ。

 予想を遥かに上回る運動性能を発揮した柏田は、二つ目の煙幕弾のピンを抜きながらロイに突進。一方のロイは、自動小銃で被った自身の身体を治癒させるのに必死で反応が遅れた。


「くたばれえええええええ!」


 柏田はロイに抱き着くようなタックルを見舞い、同時に煙幕弾をロイの口に突っ込もうと試みる。

 しかしロイはすぐさま柏田を蹴り飛ばし、玉座の陰に身を引いた。


「柏田さん!」

「麻琴さん、あなたも伏せて!」


 柏田が叫ぶと同時に煙幕弾が炸裂。麻琴は慌てて目をぎゅっと閉じ、耳に手を当ててその場にうずくまった。


 麻琴は口と鼻に手を当てながら、ゴーグル越しに周囲を見回す。一時的に耳目の機能を奪い去る煙幕弾。その効果域からなんとか転がり出た麻琴は、しかし絶望的な光景を目の当たりにする。


「その程度の礼装兵器、通用しないって言っただろう?」

「ぐっ! くっ……」

「充希さん!」


 まさに瞬間移動かと見紛う速度で、ロイは充希の背後に回っていた。

 霊力で実体化させた、薄紫色の短刀を彼女の首に突きつけながら。


「まあ、君たちはよくやった方だよ。あともう少しで、ジャックを現世に引き戻せるところだったんだから。神﨑さん、この前は殺してしまってすまなかったね。もう一度行動不能にして、僕が自分の手で君を地獄に落としてあげよう」


 自動小銃を構える神﨑を一瞥し、ロイがそう語った。


「それに麻琴さん、もうあなたのリボルバーは弾切れのはずだ。もう素直に武器を捨てて、立ち去った方がいい。神﨑さんが開いた地獄への通路は、僕がちゃんと封じておくから」


 とてつもない怒りに見舞われているはずなのに、自分の無力さばかりが悔やまれる。

 感情の荒波に呑まれ、麻琴は気を失いかけていた。

 こんな悪霊を駆逐するために、両親は命を落としたのか。自分には何もできないのか。


 弾切れのリボルバーを放り投げそうになった、その時だった。

 不思議なものが目に入った。それは糸だ。ロイに捕まった充希の手先から、一筋の金色に光る糸が伸びている。

 その先にあるのは、地獄への通路。こんな危機的状況に陥りながらも、充希は自分の為すべきこと、すなわち地獄におけるジャックの捜索任務を達成しようとしていたのだ。


 それにロイが気づいていないのは、やはり短刀を形成するのに霊力を割いているからか。

 だが、きっと勘づかれるのは時間の問題だ。それまでの時間稼ぎをするにはどうしたらいい? ほぼ丸腰の自分に何ができる?


 新たな緊張感に見舞われる麻琴。そんな彼女に向かい、するり、とロイが距離を詰めてきた。音も気配もなく、まさに瞬間移動だ。

 勢いそのままに、短刀を麻琴に向けて振り上げる。


「がっ!」


 ナイフの柄で、麻琴は思いっきり殴り飛ばされた。


「ふふっ、思い出すなあ! 僕が生きている時に斬殺した連中のことを! 当時の警察はまともな捜査もできずに、別人に濡れ衣を着せてしまったけれどね!」


 別人に濡れ衣? まさか……!


「あんたが罪を着せたのって、もしかして……!」

「ふむ、当時のロンドン市警よりは、この国の今の警察機関は優秀だ。今の言葉で気づくとはね、矢野麻琴刑事!」


 間違いない。こいつがジャックに罪を被せ、自分は逃げ切ったのだ。俄かには信じがたいが、それにしては説得力がある。

 額から流れる血を拭いながら、麻琴は合理的な解釈を試みた。

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