第26話【第六章】

【第六章】


 柏田零子に神﨑礼一郎の死亡を伝えたのは、麻琴が充希と共にあの地下ドームから脱出した直後のこと。


 神﨑のことを柏田にも伝えるべきだ。そうエンジェに告げられた麻琴は、すぐに行動に移った。警視庁に戻って再度自動車を拝借。エンジェにも手伝ってもらい、柏田の下へ報告に上がった。


 役目を終えたエンジェは、神様から次の任務をもらうべく天国へと帰る準備を始めた。さっと両腕を広げると、そこだけ日光が降り注ぐ。まあそれを見つめることができるのは、幽霊か霊能力者だけだろうが。


「これはね、エンジェル・ラダーっていうんだ」

「エンジェル・ラダー?」

「天使の階段、ってこと。曇り空の合間から差す日光のことをそう呼ぶんだ」


 それじゃあ、あたしはこれで。

 そう言い置いて、エンジェはその階段に沿って飛行し、さっと消え去った。


「神﨑さんのことは、私が伝えるしかないってわけね」


 随分と難しい任務を与えられたものだ。麻琴はふっと息をついた。

 すると同時に、生温かい何かが目元から頬を伝っていくのが分かる。


「あ、あれ……?」


 違和感を覚えたのも一瞬、その水滴は次から次に溢れ出てきた。目の前には柏田のラボの入り口。顔を上げると、監視カメラが目に入った。


 こんな自分の姿を見られたくはない。

 麻琴はすぐさま俯いたが、入り口はすぐに向こうから引き開けられた。


「あら、この前の刑事さん!」


 やや驚いたような、それでいて楽し気な声で柏田が迎え出る。


「かっ……柏田さん!!」


 すると、まるでこうなることを予期していたかのように、柏田は麻琴をそっと抱きしめた。小柄な麻琴は、柏田の肩に顔を押しつける。


「礼くんの身に、何かあったのね?」

「うっ……ひぐっ……。か、神﨑さんは……神﨑さんは……!」

「あなたと一緒じゃないってことは、亡くなったんでしょう」


 それ以上、麻琴は声を発することができなくなった。


         ※


「さ、このバスタオル使って」

「……」


 ばさり、とバスタオルが麻琴に手渡される。麻琴はすぐさまそれを顔に押し当てた。質のいい柔軟剤を使っているのか、肌触りはとても柔らかだ。


「いろいろ訊きたいのだけれど、今はあなたに落ち着いてもらわなくちゃならない。紅茶でも淹れるわ」

「……ひくっ」


 ぐしぐしと目を拭い、麻琴はそっと息を吐き出した。妙に冷たいような気がするのは自分だけだろうか。

 かちゃり、と音がして、紅茶のカップが置かれた。ジャックはイギリス人だと名乗っていたから、きっと紅茶派だったのだろう。彼のことを思い出さないように、しかし喉の渇きに耐えられず、麻琴はカップに口をつけた。


 バスタオルをずらして目を上げると、柏田が小さめのテーブルを挟んだ向こう側で腰を下ろしていた。


「どう? 落ち着いた?」

「……」


 無言で目をぱちぱちさせる麻琴。それを見て、柏田は尋ねた。


「どうだったの、神崎くん。彼はどんな最期を? ああ、無理はしなくてもいいから」

「……いえ、大丈夫です。あなたには伝えなくちゃ」


 ずずっ、と鼻をすすって、麻琴は語り出した。あの高速道路上での戦闘を。そして敵――主にロイのことを。


「それは随分と手ごわい相手だったようね」

「はい、ジャックがなんとか押さえていたんですが、神崎さんはジャックを援護する途中で……」

「そう、あんなに温厚な彼が、そんな最期をねぇ」


 そんな柏田の口調が、麻琴の心に突き刺さった。


「柏田さん、さっきからの私の話、聞いてましたか?」

「ええ、もちろん」


 椅子の上で足を組みながら、柏田は頷いてカップに口をつける。


「あまりにも呑気じゃないですか? 神﨑さんが亡くなったんですよ? 彼はあなたにとっても大事な人だったんでしょう?」

「そうね、その通りだよ」

「それなのに、どうしてそんな気楽でいられるんです?」

「それは……。まあ、彼らしいなと思ってね。こんな最期を迎えるのは」


 柏田が何を言っているのか分からず、麻琴の頭は回転をやめてしまった。

 

「あらあら、突然身を乗り出すからよ、麻琴さん。カップが倒れてるわ」


 そう言って、タオルでテーブルを拭う柏田。その前で、麻琴はがっくりと項垂れ、すとんと椅子に座り込んだ。


「まあ、あんまり柏田を責めないでくれよ、麻琴ちゃん。これでも彼女は彼女なりに事実を受け止めようとしているんだ。僕がそれに値する人間だったのか、それは分からないけれどね」

「そうですね、神崎さん……。あなたが勝手に死んでしまったから、って、え?」

「ん? またどうかしたの?」


 麻琴はさっきよりも勢いよく立ち上がった。


「柏田さ……いてっ!」


 思いっきり膝をテーブルの角にぶつけ、再び沈没する麻琴。

 一方の柏田は、やはり何も気づいていないのか、再びテーブルを拭こうとしている。


「柏田さん、私のことはいいですから、霊視用の眼鏡をつけてください! 急いで!」

「あなたには何か見えてるの?」

「今、確かに神﨑さんの声が……!」


 それを聞くなり、柏田は勢いよくラボに飛び込み、片側だけの眼鏡を装着して戻ってきた。

 その僅かな時間の間も、麻琴はぐるぐると狭いダイニングを見渡す。しかし神﨑の姿は見えない。


「神﨑さん? 神﨑礼一郎さんですか?」

「そうだ、僕だよ」

「そんな……。あなたは亡くなったはずじゃ……!」

「ああ、僕は死んだね。でも、今回のトラブルについて不穏なものを感じたから、幽霊になって戻って来たんだ。驚いた? 麻琴ちゃん」


 飄々と語る神﨑に向かい、麻琴はギリッと奥歯を鳴らした。


「まったく……、あなたって人は……!」

「ああ、はいはい悪かった。今姿を現すよ」


 すると、柏田が座っていた椅子の背後の壁から、するりと神﨑が現れた。


「やあ、麻琴ちゃん。泣いてるけど、何かあったの?」

「何かあったの、じゃありません! 人がどれだけ、あなたの死を悲しんだか……!」

「あー……。ごめん、まだ記憶が完全じゃないんだ。僕が命を落とした時のことは、まだよく分かっていなくて」


 そこまで神﨑が言うや否や、ラボの扉がバンッ! と開かれ、柏田が戻ってきた。


「ああ、礼くん!」

「やあ、零ちゃん」


 抱き着こうとしたのか、柏田は勢いよく神﨑に跳びかかり、しかし見事にすり抜けて頭から床にぶつかった。


「ぶはっ!?」

「二人共待ってくれよ! 僕は幽霊になりたてだから、霊体化と実体化の切り替えが下手なんだ。突然実体化することはできない」

「さ、先に言ってよね、礼くん……」


 そう言って麻琴のバスタオルを引ったくり、柏田は顔全体を覆ってしまった。


「えーっと、大丈夫かい、零ちゃん?」

「もがもが!」


 何と言っているのか、麻琴にも柏田にもさっぱりだ。

 そんなことはさておき、神﨑は麻琴に向かって語り出した。


「落ち着いて聞いてくれ、麻琴ちゃん。ジャック・デンバーさんの話だが、あれは罠だった可能性が高いと僕は睨んでいる」

「えっ……、ジャックさんは自分の意志で地獄に向かったように見えましたけど……」

「まあ、彼も事の詳細は知らなかっただろうからね。天海悠馬の本当の目的に」

「ほ、本当の?」


 ああ、と首肯する神﨑を前に、麻琴は目を見開いた。


「それって、神様と約束して、自分の病気を治す代わりにジャックさんを地獄に落とせ、って話でしたよね?」

「その通り。だが、どうして神様が彼を狙い撃ちしたんだと思う?」

「えっと、幽霊として現世をうろついている時間が長すぎたからだ、って」

「本当はそれは違うんだ」


 今度の神﨑は、ゆるゆるとかぶりを振った。


「僕は天国の入り口まで逝ったんだけれども、たまたま戦闘中に装備していた霊視ゴーグルごと来てしまってね。すると、普通の霊視をするよりも、明確に天国にいる人々のことが分かったんだ」

「より明確に?」

「そう。そして驚いたよ。天国にいる人々の中で、亡くなってからしばし幽霊となって現世に存在していた人物はそれなりの人数がいた。だがその中には、あまりにも長期間、百年単位で幽霊になっていたという人々も混ざっていたんだ」

「じゃあ、ジャックが幽霊として現世にいた年数って……?」

「珍しいことじゃないようだね。理由は一人一人違うけれど、ジャックよりも長い期間、現世にいた人物は、探せばいるものなんだ」


 ということは。

 神様とやらは、死者が幽霊になっている期間の長さにはこだわりがないと言える。


「つまり――」

「ジャックを地獄に落ちるように説得したのは、他の目的があったからじゃないのかな」


 他の目的、と口を動かしながら、麻琴は顎に手を遣った。


「まずはそれを突き止めなくてはね。誰かジャックに縁の深い人物がいればいいんだけど」

「うむむむ……あ」

「ん、どうした、麻琴ちゃん?」

「いました、縁の深い人物!」


 神﨑には、麻琴の頭上のランプが点灯したかのように見えた。


「誰か思い当たったのかい?」

「ええ、うってつけの人物がいます! どうしてこんなに思いつかなかったんだろう!」


 そう言って、麻琴は踵を返した。

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