第25話

「彼らの姿が見えるようになったんだよ。実体化している間はもちろん、霊体化している時もね」


 振り返った天海と目を合わせ、ロイは恭しくこうべを垂れた。

 ロイもまた、幽霊となって天国にも地獄にも行かずに現世にいる存在だ。だからルシスが監視役として派遣され、ロイと共に天海のサポートについたということなのだろう。


「母と担当医の会話を聞いていると、僕の脳のいろんなパーツが肥大したようなんだ。それが人間の、今は失われてしまった霊視能力を発現させるきっかけになったらしい」


 僕は医者じゃないけどね。

 そう言って天海は、ふっと息をついた。


「問題は、僕の脳の肥大化が止まらない、ということ。事実、僕は結構酷い頭痛に悩まされていてね……。いずれは頭蓋骨が内側から弾けて、そのまま死ぬだろう」

「じゃ、じゃあ、充希さんは関係ないじゃない! 自分の都合を他人に押しつけないで! 意味なんてないのに……」

「そうそう、一番重要なことを言いそびれていた」


 麻琴の反論に、微かに口角を上げて応じる天海。


「僕はルシスを通して神様と交渉したんだ。どうすれば僕はまだ生きていられるのか、と」

「そんな馬鹿な!」


 素っ頓狂な声を上げたのはエンジェだ。


「神様はそんなことしないよ! 幽霊とならまだしも、生きている人間と意思疎通を図るなんて!」

「それが交渉しちゃったんだよ、神様は」


 ルシスがばさばさと羽ばたきながら言葉を繋げる。


「エンジェ、どうやら君の監視対象となっている幽霊には、神様も一言申しつけたかったようなんだ」


 麻琴ははっとして振り返った。


「ジャックが何かしたの? 彼は特別なの?」

「そのようだ。だから神様は悠馬や俺、そしてロイに命じられたんだ。ジャック・デンバーという幽霊を地獄に落とせ、とね」

「そ、それはどういうわけ――」

「さあ? 俺みたいな末端の天使には、そんな情報は下りてこないよ」


 麻琴は無防備にも、天海たちに背を向けてジャックを見つめた。

 この英国紳士は、しかし眉一つ動かさずに腕を組んで立っている。


 しばしの沈黙の後、ジャックが発した言葉は一つ。すっと目を上げ、天海の無感情な瞳を見据えながら。


「証拠は?」

「神様のご意志、というだけではご不満ですか、デンバーさん?」

「不満じゃない。本当に神様とやらがそう言ったのか、それを訊いてるんだ」

「明確にお示しできる証拠はありません」


 笑みを引っ込めながら、天海は言い切った。


「ただ、神様が仰るには、あなたは死後に至っても未来に干渉しすぎるのだそうです。あまりにも、自分の末裔たちのことを危惧しすぎると」


 ふと、ジャックの呼吸が止まった。麻琴にはそう見えた。

 しかし、ジャックは穏やかに切り返す。


「誰しも大切な家族がいる。その未来を守ることが何故いけないというんだ?」

「ご承知でしょうが、ほとんどの人間は現世に留まることを望みません。延命措置を受けながら生きているのが苦痛だったという人間もいたくらいです」

「俺のことはどうでもいい。充希のことだ。今すぐ解放しろ。そうすれば、俺は地獄でもどこでも逝ってやる」

「そ、そんな、ジャック!」


 縋りつかんばかりの麻琴の肩に手を載せ、ジャックは静かに語った。


「まあ聞け、麻琴。それにエンジェも。俺だって自覚はしていたんだ。こんなに長期間にわたって現世にいていいものかと。ちょうど今が潮時ということらしい」

「あっ……あなたはそれでいいんですか? 充希さんを守れなくなっても?」

「さっきの天海とルシスの話、聞いてたよな。だったら分かるはずだ。間違っていたのは俺の方だと。人間、どんなに頑張ったって死ぬ時は死ぬんだ。未来のこと、それも俺自身ではない末裔のことなんて、どうなっていくか分かったもんじゃない。どこかで一線を引かなければ」


 ひらひらと舞ってきたエンジェは、何も言わずにジャックの肩を引っ掴んだ。


「エンジェ、長いこと世話になったな。礼を言う。それに麻琴、俺みたいなやつはもしかしたら今後も現れるかもしれない。少しだけ気にかけてやってくれ。俺からは以上だ」

「……了解」

「少しは貫禄がついたんじゃないか? 取り敢えず、今は充希を助けてくれ。俺は先に地獄へ行く」


 ジャックの言葉に、天海とロイは目を合わせて頷き合った。


「ふん!」


 ロイは頭上で拳を作り、屈み込むようにして床面に叩きつける。するとそこを中心に、床にぽっかりと穴があった。大の大人が一度に三人はくぐれそうな広い穴だ。

 その中は真っ暗、というか真っ黒で、どうなっているかを知る術はない。


「じゃあな」


 それだけ言って、ジャックは躊躇いなく穴の淵に立ち、すっと一息吸ってから静かに跳び込んだ。


 麻琴もエンジェも、声を上げることはおろか呼吸さえまともにできなかった。


「どうだい、ロイ?」

「はい、ジャック・デンバーは地獄へ向けて降下中です。この深さなら、戻ってくることはあり得ません」


 天海の問いかけに、ひざまずいていたロイが顔を上げて報告する。


「さて、矢野麻琴刑事、あなたの目的は伝芭充希さんの解放だったね? 今それを叶えようう」


 そう高らかに言い放ち、天海は何か掴んで引くような所作をする。

 すると、まさにカーテンが引き剥がされるように結界は消え去った。


 しばし周囲を見渡していたのは充希だ。たった今まで突っ立って、ジャックの跳び下りを見つめていた。


「あっ、充希さん!」


 彼女の気配に気づいた麻琴が、慌てて駆け寄って自分の上着を充希に掛けてやった。


「あの、私、は……」

「もう大丈夫、あなたは自由よ。私があなたを安全な場所まで連れていくから」


 充希の背を擦る麻琴。ちらちらと警戒の目を天海に遣っていたが、敵意は全く感じられなかった。


「エンジェ、あなた、私たちを地上に戻せる?」

「うん、なんとか。でも、監視対象だったジャックがいなくなっちゃったから、あたしは天国へ戻らなきゃならないんだ。人間の体感時間で言うと、あと十五分くらいかな」

「それが十分な時間かどうかは分からないけど、とにかくこの地下ドームから地上に私たちを戻してもらえる?」

「ええ、じゃあ、今すぐに」


 麻琴は充希の手を取って、もう大丈夫よ、とか、誰もあなたを傷つけたりはしないわ、とか言いながら、エンジェの小さな手に向かってもう片方の手を差し伸べる。

 エンジェは麻琴の指を両手で掴みながら、大きくばさり、と羽ばたいた。


「準備はいい、充希さん?」

「はっ、はいっ」


 外れかけた眼鏡を押し戻しながら、充希は答えて麻琴の手を強く握る。


「頼むわ、エンジェ」

「はいよっ!」


 すると、まるでテレビ画面が砂嵐になるような視覚的ノイズを残して三人の姿は消え去った。


         ※


「ふう、行ってくれたか……」


 そう呟いて、天海はその場に膝をついた。


「大丈夫ですか、我が主」

「あ、ああ……。先生に貰った薬を飲もう。それに、神様が約束を守ってくれるとすれば、僕の脳は正常に戻るはずだ。ロイ、すまないけれど、いつもの薬と水を――」


 そう言いかけた時、天海は違和感を覚えた。背中から腹部にかけて、謎の灼熱感が走っていたのだ。


「……あ?」

「お見事です、我が主。こんなにも見事に、私のために道化を演じてくださるとは」


 ザシュッ、と音がして、何かが自分の腹部から引き抜かれる。

 自分はロイに何らかの攻撃を受けたらしい。そう察するまで、時間はあまりかからなかった。前のめりに転倒し、零れた自分の臓器に鼻先から突っ込んだからだ。


「お、おおお前! 一体何を考えてるんだ!?」


 慌てたルシスが天海とロイの間に入ろうとする。が、横薙ぎに振るわれたロイの指先によって、胴体を両断されてしまった。

 天使にとって、それは致命傷ではない。だが、行動に制限が発生するのは避けられない。


「ロ、ロイ……。君は、何を……」


 ごふっ、と天海の口から血の塊が吐き出される。


「まだお気づきなりませんか、天海悠馬。私はあなたを利用したのですよ」

「り、利用……?」

「左様。あなたは人工的に幽霊を察知できる身体になってしまった。そしてそれは、自分の意に反しているという意味で、心に隙を生んだ。そこに私は滑り込み、その身体を乗っ取るつもりです」

「まさか、俺が会ってた神様って……?」

「その通りだ、ルシス。私が君に幻惑を見せていたんだ。神様は、ここでの一連の出来事に全く関与していない。君も用済みだな」


 唾棄するようにそう言って、いや、と言葉を繋いだ。


「ルシス、私の身体と天海の身体の中継役を頼みたい。できるだろう、君は悪魔なんだから。それとも、悪魔ですら立ち向かえないほどのダメージを与えてやろうか?」

「……っ!」


 するとロイは、禿頭をつるりと撫でた。

 そして何事でもないかのように、するり、と天海の身体に乗り移った。

 腹部を貫通された傷が、あっという間に治癒していく。


「さて、と」


 立ち上がった天海――厳密には彼の身体を手にしたロイは、治癒しきった腹部を数回撫でてから、こう言った。


「これで不老不死も夢じゃないな」

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