第20話


         ※


「……さん、お客さん!」

「ん……」


 半分しか機能していなかった脳を覚醒させ、麻琴は自分の状況を確認した。

 

「ここは……」

「警視庁本庁舎前、到着です。大丈夫ですか、刑事さん? お疲れなのは分かりますけど、あんまり寝込まれてもこっちが困ります。お客を運ぶのが仕事なんでね」

「ああ」


 間抜けな声を上げる。彼女は今、タクシーで警視庁へと帰ってきていた。だが、どこでタクシーを捕まえたのか、さっぱりと記憶から消え去っている。

 やはり自分は疲れているらしい。運転手の言う通りだ。


 麻琴はのろのろと財布を取り出し、一万円札を適当に抜き取って運転手に渡した。


「こんなトロトロしたのが刑事だってんだから、世も末ですねえ……ってお客さん、適当にお札数えて渡したでしょ?」

「いいんです。お釣りは結構です」

「え、あ、ああ」


 運転手は慌てて後部座席のドアを開けた。

 そのまま振り返ることなく、麻琴はゆらゆらと建物に入っていく。まるで魂を引き抜かれてしまったかのように。


 麻琴は奇異な目で見られていた。

 それはそうだ。全身泥と血に塗れ、目は焦点が合っていない。なんだか火薬臭いし、敗残兵のような悲壮感を漂わせている。


 これだけ物騒な条件が揃っていて、目立つなという方が無理な注文だ。

 すると、背後から突然腕を掴まれた。


「ちょっとあんた! 警察手帳は?」

「……え?」


 そういえば、この建物に入るのに何か妨害を受けたような気がする。ついでに叫び声を浴びせられた。警察手帳を提示しろ、とか。


 しかし、麻琴の意識は朦朧としていて、ケイサツテチョウというものが何なのか、測りかねていた。

 自分の身体を見下ろすと、そこにあったのは大口径のリボルバーだった。


「ほら! 早く提示して――うわっ!」


 唐突に物騒なものを見せつけられ、警備の警官が思わず腰を抜かす。

 それはそうだ、こんな足元も覚束ないような若者に拳銃を見せつけられれば。


 その警官が応援を要請しようと無線機に手を遣った、その時だった。


「ちょっ、ちょっと待ってくれ!」


 あたふたと慌てた声が聞こえてきた。こちらに駆けてくる、オリーブ色のジャンパーを羽織った壮年の男性。警官が立ち上がるのも待たずに、彼は警察手帳を取り出した。


「はっ、早川警部補! 失礼しました! それで、彼女は……?」

「うちの班の班員だ。ちょっと訳ありでな、今回だけは俺に免じて見逃してやってくれないか?」


 すると警官もまた、慌てて立ち上がって敬礼した。


「はッ、了解!」

「行くぞ、矢野麻琴・巡査部長! 今は部長が席を外してる。捕まる前に、何があったのかひとまず俺に話してみろ!」


 こうして麻琴は、早川に促されるままに最寄りの小会議室へと滑り込んだ。


         ※


 麻琴の警備部刑事課への所属を認めさせたのは早川だ。幽霊が見える、と言った麻琴を信用し、上層部にかけ合ってまで。

 だからこそ、ここ二、三日、連絡の取れなかった麻琴を質問攻めにはしなかった。


「矢野麻琴、俺の言葉が分かるか?」


 ゆっくりと頷く麻琴。

 それを見て、飽くまでも急かすことなく、早川は麻琴の状況を把握しようと努めた。


 生気のない麻琴の瞳に光が戻ったのは、こう尋ねた時だった。


「何か衝撃的な出来事はあったか? 思い出せる範囲で答えろ」

「しょう、げき……?」

「ああ。銃撃とか爆発とかに巻き込まれやしなかったか? 今のお前は負傷しているようには見えんが……」


 すると、麻琴はがたがたと震えだした。


「落ち着け、麻琴。俺にお前を傷つけるつもりはない。深呼吸して――」

「うわああああああ!!」


 麻琴は絶叫した。まるで、防音扉を声で割ろうとしているかのように。

 さっと耳を手で覆う早川。その眼前で、麻琴は椅子から転げ落ち、自分で自分の肩を抱きながら震えだした。


「麻琴!!」


 早川は咄嗟に麻琴を抱きしめた。ショッキングな出来事に遭って、それがフラッシュバックしてしまうことはよくあることだ。特に、感受性の強い若手の刑事には。

 早川が躊躇わずに麻琴を抱きしめてやれたのは、自分も若手だった頃があるからだ。こういう時に言葉がいかに無力なものか、早川は身に沁みて理解している。


 すると、だんだんと麻琴の震えは収まってきた。早川はゆっくりと麻琴を解放し、彼女が落ち着くのを待つ。そして、次の発言を麻琴に任せることにした。


 そうして、ようやく言葉を取り戻した麻琴の第一声がこれだった。


「神﨑さんが……神﨑礼一郎さんが……」


 なるほど、そういうことか。

 早川は、神﨑と一度だけ会ったことがある。それもつい数ヶ月前のことだ。


 麻琴が刑事になるにあたり、適性年齢に達していなかったので、保護者同伴で相談することにしたのだ。

 麻琴に肉親がいないことは早川も知っていた。親代わりになる人物がいることも。

 

 早川から見た神﨑の第一印象は、痩せ細った自衛官崩れ、というものだった。

 しかしそこは、神﨑の熱弁がものを言った。神﨑に出会う前後で、早川の幽霊に対する理解が深まった――わけではない。結局、幽霊など存在しないという早川の意見は変わらなかった。


 ただし、早川が否定していたのは飽くまでも幽霊の存在であり、死後の世界の存在を否定していたわけではない。また、神﨑の熱意に圧倒されるという、早川らしからぬ方向へ話題が転がったということもある。


 そこまで言うのなら、というのが、早川の正直な気持ちだった。それに、麻琴の成績は学業・実践訓練のどちらもが極めて優秀だった。早川の昇格試験前の学力を、優に上回っている。


 そこまで脳内の記憶に整理をつけてから、早川は尋ねた。


「神﨑礼一郎氏が亡くなられたのか?」


 こくん、と頷く麻琴。その頬には、涙の流れた後がくっきりと残っている。

 煙草を吸う時のように、肺一杯に空気を取り入れ、長い溜息をつく。


 警察組織内で麻琴に理解ある人間は自分しかおるまい。

 そう思い、早川は麻琴の行方不明の案件に関する報告書を、手抜きすることにした。


「よく話してくれたな、麻琴。正直俺は半信半疑だが、実際に俺たちはお前に一度、命を救われている」

「え……?」

「この前の、違法薬物を積んだタンカーの捜査の時だ。あの時、お前の言っていたジャック・デンバーなる者が俺たちを攻撃してきた時、真っ先に警戒を促してくれただろう?」

「それは、はい」

「お前を殺さない代わりに、お前に道案内を頼む、か。酔狂な幽霊もいたもんだと思うが、そのジャックの一件だけなら、俺も幽霊というものを信じよう。それで、どうして別れたんだ? ジャックだってお前にいなくなられたら困るだろうに。というより、ジャック・デンバーという幽霊の狙いが掴めないな」

「ジャックは……。あの人は運悪く家族の命を奪われていたんです。だから――」

「同情したのか。お前が、ジャックに」

「自分でもよく分かりません。でも、幽霊の中でも現世の人間たちに害を為そうとする輩はいます。それは、何としてでも止めなければ。私の両親は、それを願って殉職したようなものですから。その血筋である以上、私にも悪霊を裁く義務がある。そう考えます」


 それで、合法的に調査や人物捜索ができる警察という組織に身を置いているのか。

 そこまで考えて、早川は白いものの混じった髪の後頭部をガシガシと掻いた。


「であれば、俺の権限でお前の単独捜査を許可するしかあるまいな」

「で……、でも、そうしたら早川警部補にご迷惑をかけることに……」

「気にするな、麻琴。お前はそういう運命の下に産まれた。それだけの話だ」


 その早川の言葉一つ一つが、麻琴の胸に温かい火を灯していく。

 そしてそれがある程度の域に突入した瞬間。麻琴はざっと立ち上がり、がばりと顔を上げて敬礼した。


「ああ、でも制限はかかる。これは正規の任務じゃない。こちらから提示できる情報量は微力なものになるだろうが――」

「いえ、私は早川警部補がご理解くださったということに感謝しています。必ず悪霊を倒して、ジャックを天国へ成仏させます」

「決意は固いようだな」


 そう言って、早川も立ち上がった。


「では、くれぐれも発砲のタイミングと狙いをつけるのには慎重にな」

「了解」


 そう言って、再度敬礼してから麻琴は小会議室を出た。


「まずは車を借用しないとな……」

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