第19話

 エンジェの言葉が脳内で反芻され、麻琴はようやくショックから意識を取り戻した。

 慌てて両手を地面につき、腕力で自らの身体を跳ね飛ばす。


「エンジェ、もう大丈夫!」

「分かった、麻琴!」


 麻琴の呼びかけに応じ、エンジェも側転の要領で赤い波から距離を取る。

 流石にそこまでは赤い波も追ってはこなかった。代わりに、その進行方向にあった覆面パトカーは大爆発を起こした。


 顔を上げると、ジャックが走っていた。ロイにとどめを刺そうとしたのだろう。

 しかしロイは、自らを紫色の煙に包み込んでいる。ジャックがそれをナイフで斬り払うが、そこにロイの姿はない。


「チッ、逃げ足の速い野郎だな」


 戦闘が終わった気配を感じて、麻琴は再度頭を回転させた。優先すべき事案がある。神﨑の傷の具合を見なければ。


「エンジェ、あなたの力を貸して。ジャック、周辺の偵察をお願いできますか?」

「無論だ」


 するとジャックは全身を霊体化させ、周辺警戒を開始した。


「神﨑さん、大丈夫で――」


 大丈夫ですか、と尋ねようとして、思わず麻琴は息を呑んだ。

 ワゴン車のフロント部分から転がり落ちていた神﨑。その姿は、鋭利で巨大な刃物によって斜めに真っ二つにされたようだった。


 背骨や筋肉のお陰でバラバラにはなっていない。幸いだ。いや、奇跡的だというべきか。

 だが問題は、神﨑が生きているのかどうか、ということ。

 麻琴はそっと、神﨑の顔を覗き込んだ。


「エンジェ、治癒魔法ってあなた使えない?」

「使えるけど、あたしの力でどうにかなる傷じゃないよ、これは!」

「それでも構わない。神﨑さんが息を吹き返すのに何年経っても、意識を取り戻すなら……!」

「……馬鹿を言うな、麻琴ちゃん」


 はっとして麻琴は視線を下ろす。そこには、口と鼻からおびただしい出血をした神﨑の姿があった。


「麻琴ちゃん、君には、まだやらなければ、ならないことがある……」

「喋らないで、神﨑さん! 傷が……」


 そう言いかける麻琴。だが、今の神﨑がただの傷程度でないことは明らかだ。


「君は、今、現実世界と霊界の、境目にいるんだ……。ここで悪霊を退治しておかないと、君は一生、後悔することに……」


 唐突に咳き込む神﨑。口元から噴き上がる血飛沫に、麻琴は怯んでしまった。


「で、でも悪霊を退治するなんて、私一人じゃ――」

「一人じゃない、だろう?」


 微かに顔を上げる神﨑。その視線の先には、敵が残した魔法陣のようなもののそばに膝をつくジャックの姿があった。


「僕が、いなくとも、君は立派に、戦える。どうか、現実世界と霊界の、戦いになることは、なんとか回避して、ほしい」


 必死にそう口にする神﨑。その顔を見ている間に、視界が歪んできた。

 ぽつぽつと、麻琴の瞳から神﨑の胸元へと涙の粒が落ちていく。


「か、神﨑さん? 神﨑さん!!」


 慟哭する麻琴の姿を一瞬捉え、ジャックはしかし、もう一つの懸念事項について考えを巡らせていた。ひとまずここから脱出しなければ。


「……麻琴、辛いのは分かる。だが、俺たちはまだ戦わなくてはならないんだ。分かるだろう?」

「……」

「敵は明らかに俺を狙っている。俺の末裔を危機的状態に置くとすれば、ロイたちのいる組織にいるのと同じ連中だろう。俺がこの世から離れて――成仏して、とでもいうのか? とにかく天国へ逝く時が来る前に、この借りを返してやろう」


 しゃくり上げる麻琴を前に、ジャックは考えていた。

 妻子を殺された自分と、兄貴分であった神﨑を喪った麻琴。自分たち二人とエンジェが共同歩調を取れば、今後の戦いはより有利に運べるに違いない。


 いや、今まで険悪な仲だった、というわけではない。だがこうして、大切な人が殺されるという経験を経た麻琴なら、もっと自分に同調してくれるかもしれない。

 神﨑の犠牲は、確かに意味のあるものだったのだ。


 そんなことを考えていることはおくびにも出さず、ジャックは麻琴の肩に手を置いた。


「麻琴、お前の気持ちは分かる。だからこそ、俺たちはここで身柄を拘束されるわけにはいかないんだ」

「……」


 泣き叫ぶ力もなくなり、ぺたんと地面に尻をつく麻琴。


「さあ、行くぞ。お前は一人では霊体化できないんだからな。エンジェ! 麻琴に一時的に霊体化する魔法をかけてやってくれ」

「……」

「どうした、エンジェ? 機動隊の本隊がもうそこまで来てるんだ、さっさと離脱するぞ」

「……」

「聞こえてるんだろう、エンジェ!」

「はいはーい」


 すると、ようやくエンジェが姿を現した。しかし、ジャックと目を合わせようともしない。

 何があったんだ、と尋ねる間もなく、麻琴の身体は着衣や手にした武器諸共霊体化された。


「まずは高速から降りよう。さあ、麻琴」


 麻琴は放心状態で、ジャックに手を引かれるがままに立ち上がった。そのまま高架橋から防音壁をすり抜けて飛び降り、一般道路へ着地する。


 それにしても、どうしてエンジェは不機嫌なのか? それが突き付けられたのは、ジャックたちが霊体化したまま裏道に入った時だった。


         ※


 ぱちん、といい音がする。


「いてっ! 何するんだ、エンジェ!」

「気づいてないの? ばーかばーか、ジャックのばーか!」


 いつになく子供じみた、しかし攻撃的な態度を取るエンジェに、ジャックは毅然とした態度で向き合った。


「俺が馬鹿なのは構わんが、いったい何がいけないっていうんだ? お前は俺の思考が読めるんだから、答えられるんだろうな?」

「ふん! そんなの決まってるじゃない! あんたが神﨑さんの死を利用して、麻琴を焚きつけようとしてるってことだよ!」


 エンジェはその短い腕を精一杯伸ばして、拳を作りながらぐるぐると振り回し始めた。


「ちょっ、止めろ馬鹿! 痛いんだぞ、それ!」

「だからやってるんでしょうが! このっ! このこのっ!」


 いい加減にしろ、とジャックが言いかけた、まさにその時だった。


「本当なの、ジャック……?」


 麻琴はゆっくりと立ち上がった。ジャックの目を真っ直ぐに見つめている。

 その視線はふらつくことなく、ジャックの眼球、否、脳の奥底までをも見透かしているように感じられた。


 こういう場合は、正直に述べるに限る。

 自らの人生論に従う形で、ジャックは口を開いた。


「今更信じてくれとは言わんがな……。確かに、神﨑の死を俺が受け入れ、俺と麻琴、それにエンジェの結束に繋がるのではないかと考えたのは事実だ。だが同時に、神﨑のことを捨て駒にするような戦い方をしてはいなかったのも本当のことだ。彼の死における責任は、全員で背負うべきではないか?」


 ジャックは動揺を隠しつつ、なんとか言葉を絞り出した。

 それからどのくらいの時間が経ったのだろうか、唐突に麻琴の瞳から光が消えた。蝋燭の火が、ふっと吹き消されるように。

 

 ふらり、と足元を震わせながら、麻琴はジャックとエンジェに背を向けた。


「お、おい麻琴!」


 ジャックは後を追おうとしたが、その胸に思いっきりエンジェが体当たりを喰らわせた。

 

「もう彼女に関わらないであげてよ、ジャック!」

「だが、俺には協力者が必要だ。それに俺だって妻と娘を亡くしている。その瞬間を見ていなかった貴様には分からんだろうがな!」


 ジャックはエンジェに掴みかかろうとしたが、人間より遥かに小さなエンジェは、ジャックの手をするり、するりと逃れていく。


「ジャック、あなたは八つ当たりしてばかりなんだよ! 確かに、今までずっと殺人を犯さなかったのは偉いと思う。尊敬もする。でも、こうやって現世にしがみついている時点でみっともないんだよ! いい加減に過去の恨みは消して、天国に行くべきだよ!」


 ふと、ジャックは手を止めた。その両腕をだらん、とぶら提げ、肩を落として深い溜息をつく。


「ここが――現世こそが俺の天国だった。女房がいて、娘が二人いて。そんな、俺たちのような親子に笑っていてほしいと思いながら、俺はサーカス団でナイフの曲芸の腕を磨いていた。そんな生活が、何の説明もなく奪われた。女房と長女は眼前で射殺された。何物にも代えがたい、人生の光が消し去られたんだ。その気持ちが貴様に分かるか、エンジェ!!」

「……」


 付き合いが始まって約百年。エンジェは、これほど本音と闘志をむき出しにしたジャックの姿を初めて見た。今口を閉ざしたのは、驚きと一抹の恐怖感からだ。


「構わん。俺が一人で自分の末裔を守る。ロイたちは全員地獄に叩き落とす。それでいいな、エンジェ?」

「あっ、あたしは協力を――」

「不要だ。俺だって、末裔の霊的反応くらい感知できる。お前ほどじゃないけどな。もしついて来るなら、チョコでも齧りながら眺めてろ」


 そう言って、ジャックは麻琴と反対側に歩いて行った。


「ジャック……」


 残されたエンジェは、小さく呟いた。

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