第10話
エンジェは慌てた様子で手足をばたつかせた。
「現世で彷徨っているのは、悪党ばっかりなんだ! 地獄逝きが決定したのにそれを素直に受け入れない連中! 君はそこから脱出してきた連中と同じだと見做されるんだよ? それなのに何故――」
「生憎、俺は信仰心があまり強くなくてな。それに、神の存在を信じることと、神の指示に従うことは違う」
「い、いや、だからって!」
「俺はリリアンを守りたい」
その一言に、エンジェは二の句が継げなくなった。ひどく困惑していたせいか、ぴたりと羽の動きを止めてしまい、危うく落下するところだった。
「守る、って……?」
「言葉通りだ。人間の悪意に巻き込まれないように、俺が守ってみせる」
「いや、でもそんなことをした事例はほとんどなくて」
「ほとんどないってことは、少しはあるんだな?」
「う、……ん」
「ということは、俺だけが特別扱いってわけじゃないんだな? そうと決まれば、早く俺を元の世界に戻してくれ。幽霊みたいな存在になってりゃ、誰にも迷惑はかけないだろう?」
「ま、まあ、身体の方は亡くなってしまったから、身寄りのない幽霊になるしかないんだけど」
するとジャックは、満足げに頷いた。
「でもジャック、自然災害や悪意のない事故でリリアンちゃんが亡くなったら、それは君に非がないこと、すなわち関係のないこととして扱われる。君はリリアンちゃんに代わって責任を負ったり、傷ついたりすることはできない。それでもいいの?」
「構わん」
「……分かった。少し待ってて」
エンジェはそっと両手を組み合わせ、胸の前へ。そのまま俯いて目を閉じ、口を真一文字に結んだ。
永遠にも感じられる、しかし穏やかな時間が経過した。エンジェは目を見開き、ふわりと飛行してジャックの眼前で停止する。
「今、この案件を神様に相談してきた。許可が下りたよ。ジャック・デンバー、君は幽霊として、下界で娘を捜索し、守ることができるものとする。ただしさっきも言ったように、あたしが協力できるのは、他者の悪意がリリアンちゃんに向いていたり、リリアンちゃんの捜索の妨害になったりする場合だけだ。それで構わないんだね?」
「ああ」
もうこれ以上、言葉は不要だ。
そう言いたげなジャックの青い瞳をじっと見つめてから、エンジェはすっとジャックの横に並んだ。
「お願い申し上げます、神様」
そう言うが早いか、二人の足元に真っ暗な穴が現れた。
「うおっ!?」
「大丈夫だよ、ジャック。これが現世への下り方なんだ。心配しないで」
ジャックは頭を下にする格好で、ぐんぐんその高度を落としていった。
※
「それでこの世界に戻ってきた、と?」
麻琴の問いに、そうだ、と短く答えるジャック。
「最初に投げ出されたのは、断頭台のあった街路だった。時間は俺が殺された日の夜中で、死体も道具も全て片づけられていた」
「そこから、エンジェと一緒に旅を?」
「うむ。最初はリリアンの居場所を探ろうとしたんだが、なかなか掴めなくてな……。こればっかりは、家族だからとか、知り合いだからという問題ではないそうだ。リリアンに霊的能力がなかったのだろう」
壁に背中を預けながら、神﨑も問う。
「では、それからリリアンちゃんには会えなかったんですか?」
「ああ、無念だ。イギリス中の孤児院を訪れたが、リリアンの気配は全く感じられなかった。だが、俺の所属していたサーカス団の団長が、彼女を養子にしてくれていたことが分かった。灯台下暗し、とはよく言ったものだ」
「でも、だったら会いに行けば――」
麻琴の声を、さっと手を上げてジャックは封じた。
「もう亡くなっていたんだよ、リリアンは。病弱でね、俺も女房も気を使っていたんだが」
「そ、それは……」
「お前が凹むところじゃないだろう、麻琴。それを知ったのは、俺が実体化して団長の下に会いに行った時だ。彼は俺が処刑される直前まで、俺が無罪だと信じてくれていたからな。そこで俺は、一人の女の子を紹介された」
「女の子、って?」
「リリアンの娘だ。彼女は結婚していたんだよ。本当だったら、親として祝福してやるべきだったんだが……。遅すぎたな」
ジャックは無精髭をざらり、と撫でる。元から年嵩に見える格好をしていたが、今は顔がやつれて、死相が浮かんでいるように見えた。
「ジャック、無理に話さなくても――」
「いや、今話してしまった方がいい」
麻琴の提案をやんわりと遮り、ジャックは独白を続ける。
「リリアンの死因は心疾患だ。これは誰が悪いという問題ではないし、仕方のないことだと納得しそうになった。これからは、この赤ん坊を守っていけばいいじゃないかと」
「し、しかしジャック、そんなにずっと自分の子孫を見守っていくなんて無理ですよ!」
「その通りだ、神﨑」
ジャックは腕を組み、カツカツのブーツの底で床を鳴らした。
「これでは、俺はずっと子離れ……いや、子孫離れをやめられない。だから今回、この国にいる俺の子孫を悪霊から救ったら、俺もあの世に行くことにした」
これが俺にとって、この世で為せる最後の役割だ。
そう言って、ジャックは椅子に腰かけた。
気まずい沈黙の中、ジャックはどこから取り出したのか、葉巻をくゆらせている。
「ああ、そうか。すまない神﨑、換気扇を使ってもらう必要があるな」
「い、いえ、それは構わないですけど」
「じゃあどうした? 俺をじろじろ見て」
確かにこの時、神﨑は霊視ゴーグルを装着していた。麻琴も神﨑同様、ジャックを見つめる。
二人は完全に圧倒されていたのだ。ジャックの執念とも言える愛情に。そしてそれを、百年以上もの間維持してきたことに。
「さて、そろそろ移動した方がいいな。今回俺が救うべき相手の素性は分かっているんだ。神﨑、運転を頼めるか?」
「了解。麻琴ちゃんは、敵襲に備えて同行してくれ」
「そう言われると思ったよ」
こうして麻琴と神崎は、胃袋の底に重苦しいものを感じながらも、研究室を出た。
※
「奴に動きがありました、天海様」
「本当かい、ロイ?」
「こちらを」
件のドームの中央、玉座の前でロイが腕を翳していた。
そこには透明の球体が浮かんでいて、ぼんやりと白い光を発している。
そこに、複数の人影があった。四人だ。麻琴と神﨑、それに――。
「ジャックとエンジェちゃんか」
そう呟く天海。その背後から、ルシスがひょっこり顔を出した。
「またあの天使と戦えるのか! なあ悠馬、早く行こうぜ! こんどこそ仕留めてやる!」
「まあまあ、落ち着くんだ、アシス。まずは影たちに動いてもらう。彼らの実力で仕留められる程度の相手なら、君も満足な戦いはできないだろう?」
「んー、言われてみりゃそうだ」
するとロイは天海の方に振り返り、水晶玉を彼の眼前に浮かべた。
「ご覧ください、天海様。彼らの乗り込んだ大型自動車が移動を開始しました。早速、腕利きの影たちを動かす許可を」
「もちろん。作戦参謀は君だ、ロイ。存分に戦えるよう、彼らに配慮してあげてくれ」
「御意」
「念のため、彼らに同行を頼むよ」
するとロイは深々と頭を下げ、執事のように綺麗な礼をしてから霊体化した。
その様子は、天海にもよく見えていた。麻琴ほどの霊能力があるわけではないが。
「まったく、こんなことになるとはね――」
「何がだい、悠馬?」
「僕の人生さ。不思議なものだね。幽霊が見えるようになったからこそ、その幽霊の一体である彼を抹消しなければならない」
「ま、俺もエンジェと決着はつけたいし、いつ俺を戦わせてくれるかは悠馬に従うよ」
「ありがとう、ルシス。少しシャワーを浴びてくるよ」
そう言って、天海は席を立った。
「会敵まであと十分くらいだぜ、早く戻って来てよ、悠馬!」
そう注意を促すルシスに、悠馬は片腕をひらひらさせた。
※
「ん?」
「どうした、エンジェ?」
「……」
ジャックはエンジェに呼びかけた。ちょうど自動車に乗ろうとしていたところだ。
「どうしたんだい、皆?」
運転席の神﨑が尋ねてくる。が、誰も応答しない。麻琴もまた、不吉な予感に囚われていたのだ。
沈黙を破ったのはジャックだった。
「早々に出発した方がよさそうだな、神﨑。何かに俺たちの位置がバレている」
「何だって?」
「エンジェは霊的な危機察知能力に長けている。あいつのみならず、麻琴も緊張感を漲らせているんだ。とくれば、ここからはさっさと離脱するのが一番だ」
「分かった。皆、乗り込んでくれ」
霊視ゴーグルを外しながら、神﨑が麻琴とジャックを促した。
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