第9話

「最後に彼女に会ったのはいつなんです?」

「会ってないに決まってるだろう、出会っていれば、とっくに危険を察知して敵を返り討ちにしているところだ」


 その不吉な予感を察知することができたから、ジャックはこうして日本という場所を特定することができたわけだが。


「でも、幽霊には悪事を為す輩も多いんでしょう? どうして日本にいる幽霊が、あなたの遠い娘さんを狙っていると判別できたんです?」

「ああ、そういう時のための天使様、ってわけだ。だろう、エンジェ?」

「そうですとも! あたしはジャックの助っ人だからね、ジャックには天国へ逝く資格があるけど、そのためにはこの現界での未練を残さない方がいいんだ。だから、殺人を犯さないっていう条件で、あたしは彼をサポートする側になったんだよ」

「そのお陰で、行く先々で悪霊退治をする羽目になったがな」


 ジャックは仏頂面でそう言った。エンジェが言葉を繋ぐ。


「でもね、麻琴さん。私も天使として降臨してから、右も左も分からない状態で困っていたんだ。ヨーロッパと北アフリカに関しては、ジャックには造詣があったからどうにかなったけど、こんな極東の国に関しては知識がなくて……」


 しょぼん、と項垂れるエンジェ。


「あなたは悪くないわ、エンジェ。だから私のような人物を案内役として利用しようとしているのね、ジャック?」

「その通りだ」


 これだけ聞いていると、麻琴が一方的に用件を呑まされているように見えるかもしれない。

 だが、最早麻琴にそんな自覚はなかった。昨夜、東京湾で攻撃を受け、天使と悪魔の戦いを見せつけられた今となっては。


 幽霊も天使も、果ては悪魔も実在する。そして彼ら同士の争いは、極力人目に触れない方がいい。そして、人的被害を出させるわけにはいかない。


 改めて、麻琴はジャックに『バディ』と呼ばれたことを思い出していた。

 ジャックの末裔を狙っているのが大きな悪霊だとするなら、そいつを倒せば、しばらくはその街や県、もっと言えば日本中から悪霊を追い出せるかもしれない。抑止力としてだ。


 そしてそれを生身の人間の立場からできるのは、自分と神﨑だけ。自分たちが戦わなければ。

 疑問なのは、どうしてジャックの末裔が狙われているのか。その点だ。

 その理由ははっきりしない。だが、やはり自分の過去のことは、麻琴や神﨑にも伝えておいた方がいいだろう。


 ジャックは腹をくくり、麻琴、と呼びかけようとした。が、しかし。


「ぐっ……」

「どうしました、ジャック?」


 ジャックは片手で自分の顔を押さえつけた。そのまま苦しげに俯き、尻餅をついてしまう。


「ああいや、少し眩暈がしてな……」


 ジャックは顔を上げ、自分は大丈夫だと告げようとした。だが眩暈は続いている。それほどのショックが自分の胸に刻まれていたのかと思い、ジャックは歯噛みした。


「霊力を使いすぎたんですか? 一旦そこのソファに横になって――」

「いや、違う。違うんだ……」


 ジャックは心臓の上に手を当て、数回深呼吸して息を整えた。


「エンジェ、神﨑を呼んできてくれ。麻琴はそこにいろ。話さなければならないことがある」


         ※


 十九世紀末、イギリス・ロンドン。

 とある街路の突き当りで、あるイベントが行われようとしていた。


 そのイベントについて、ロンドン市民の意見は大きく割れている。

 こんな旧時代的なことをするな、いくらなんでも不憫だ、いやそもそも血生臭い。

それが反対派の意見。


 対する賛成派は、しかし反対派よりもずっと感情的で、見る者の感情を揺さぶる力があった。

 早くそいつの首を刎ねろ、俺の娘はそいつに殺されたんだ、さっさと処刑してしまえ。


 様々な怒声や罵声が轟く中、保安官たちが暴徒を押し留めながら様子を窺っている。

 断頭台に固定された、ジャック・デンバーの姿を。


 ジャックは声を上げようとはしなかった。ただただ絶望の色を顔に浮かべ、虚ろな視線を地面に投げかけている。

 

 もし処刑されるのがジャック一人だけだったら、まだ抵抗しようという気持ちがあったかもしれない。だが先ほど、彼は大切な人を喪っていた。


 妻と娘だ。目の前で、マスケット銃で射殺されたのだ。

 ジャックが自らの潔白を主張し、騒ぎ立てている間のことだった。


 エミリー、スーザン、こんなことになるなんて、本当に申し訳ない。俺なんかと結婚し、あるいは俺の血を引いているというだけで殺されてしまうとは。

 そう思うと、ジャックはもう顔を上げることすら困難だった。


 その胸中にあったのは、大きな空白。怒りも悲しみも憎しみも、全てを吸収してしまう虚無な心境。当時のロンドンでは、刃物を用いた女性の斬殺事件が立て続けに起こっており、警察は刃物に慣れた人物の犯行だと決めてかかっていた。


 そこで目をつけられたのが、サーカス団で得意のナイフ捌きを披露していたジャックだ。

 ロンドン警察は、当時の治安の悪化とそれに伴う市民の非難から逃れたいがために、早々に事件の幕引きを図ろうとしていた。


 だが、そんなことは、ジャックにとってはどうでもいいことだった。妻子を喪った今となっては。


 その時、ふと何かが視界の隅に入ってきた。あれは――。


「リリアン……?」


 群衆に紛れて、もう一人の娘・リリアンがこちらを見つめていた。

 その足元には、血だまりが広がっている。誰の遺体なのかも分かっていないのだろう。


 そんなリリアンに向かい、ジャックはゆっくりと頷いた。天国で会おう。そう伝えたかった。視界がぼやけてきたのは、涙がこぼれてきたからだろうか。


 そう思った直後、ジャックの生命は断たれ、視界が真っ暗になった。


 そこまで認識した直後のこと。

 ぱっと太陽に照らされたかのように、辺りが眩い光に包まれた。


「……?」


 言葉が出てこない。だが、不思議な安心感が身体を包んでいることは感じられた。

 沈黙すること、約一分。ジャックは周囲に何もないこと、自分の首と身体がくっついていることを確認していた。足に力が入らないので、立ち上がるのには苦労したが。


「ここは……どこだ……?」


 辛うじて言葉を喉の奥から引っ張り出す。

 するとその声に応えるように、眼前に一本の柱が下りてきた。いや、柱ではない。光の束だ。


「お目覚めかな、ジャック・デンバー?」


 どこからともなく声を掛けられ、ジャックはゆっくりとあたりを見回した。

 そうしている間に、半ば感覚を失っていたジャックの五感が、一気に覚醒した。


「だっ、誰だ? 何者だ、姿を現せ!」

「あたしならここにいるよ」


 振り返っていたジャックの肩が、とんとんと叩かれる。その手の主を見て、ジャックは唖然とした。


「あ、あんたは、天使……なのか?」

「ご明察。一応エンジェっていう名前はあるけどね」

「ということはここは……」

「そう。天国の入り口。あなたは死んでしまったから、天国へ招くか地獄へ落とすか判定します」

「はっ、判定?」

「はい! 目を大きく開いて!」


 突然の天使との遭遇に、ジャックは不安半分、驚き半分のまま指示に従った。


「うん、やっぱりあたしが見込んだ通りだね。あなたは善人。天国への扉まで案内するよ」


 ああ、そうか。やはりここは死後の世界なのだな。

 そう理解すると同時に、ジャックはエンジェに迫っていた。


「ちょっ! ちょちょちょ、何?」

「エミリーは? スーザンはどうした? 俺の妻と娘だ!」

「あ、ああ、二人ならもう天に召されてしまったよ。二人共善良な人間だったから、迷う必要はなかった。あなたにも同じことが言えるけどね、ジャック」


 しかし、ジャックの瞳からはどんどん光が失われていく。


「つまり、もう会えない、ということか」

「え? いやいや! ジャック、君も天国の門を抜ければ二人と合流できるよ。衣食住には困らないし、近所にいるのも心の温かい人たちばかりだ」

「……」

「ジャック、何を迷ってるんだい? もし不安なら、あたしが門まで先導しても――」

「リリアンは?」

「え?」

「リリアンはどうした? ここに来ていないのか?」

「リリアン……。ああ、幼い方の娘さんだね。ここには来てないけど、地獄への門からも、そんな子供の入界許可を出した記録はないみたいだ」


 どちらにもいない? ということは。


「リリアンは生きてるんだな? リリアン・デンバーは存命なんだな?」

「う、うん! そうみたい、だけど」

「エンジェ、頼みがある」


 ジャックは身を乗り出すのをやめ、すっとエンジェの眼前に立った。


「俺を現世にいさせてくれ」

「はあっ? そ、そりゃあ駄目だよ!」

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