第5話

 ライトの真下でゴムボートは停止した。すぐそばの岸壁から、太い麻縄のようなロープが垂れている。高さはざっと三メートルといったところか。

 

「まず私が上って、仲間の安全を確認します。すぐに呼びかけますから、あなた方は少しだけ待っていてください」

「分かった」


 相変わらずの仏頂面で答えるジャックに構わず、麻琴はロープを握り締める。

 ぐいぐいとよじ登る様子を見て、ジャックは合点がいった。


「道理であんな大口径の拳銃をぶっ放せるわけだ……」


 麻琴が上り切ると、微かに人の話し声がする。一つは落ち着いた麻琴の声だが、もう一つは随分興奮した様子の声だ。何を話しているのだろうか。


 そう思って再度岸壁を見上げると、ひょっこりと麻琴の顔が現れた。親指を立てて見せる。どうやら罠の類ではないらしい。

 ジャックはふん、と鼻を鳴らして、軽々とロープに手をかけていった。


「よっと……」


 岸壁の上に到達し、立ち上がった直後のこと。

 

「うわあ! 本物の幽霊だあ!」

「っておいおいおい!」


 謎の人影が、ジャックを抱きしめようと走り寄ってきた。今のジャックは腕以外霊体化している。これでは、謎の人影はジャックをすり抜け、海に転落してしまう。


 ジャックは無造作に腕を背中に回し、この人影を捕らえた。

 後ろ襟を掴まれた衝撃からか、うげっ、という喉を潰されたような声がする。ああ、やはりこの人影は生者、つまり生身の人間だったか。


 それを確かめたジャックは、軽く投げ飛ばすようにして件の人影を自分の前に放り出した。


「おっと! 僕は敵じゃない! 矢野麻琴・巡査部長の理解者だよ!」

「じゃあ、俺の声は聞こえているのか?」

「もちろんだとも! あれ? 霊視ゴーグルはどこへ行ったかな……」


 ジャックの眼前にいるのは、ひょろりと背の高い痩せた男だった。ヘッドフォンのようなものを付け、今は地面に目を下ろして何かを探している。身のこなしからして、彼もまた随分若いようだ。


「神﨑さん、これ」

「ん? ああ、すまない麻琴ちゃん! このゴーグルがないと、幽霊の姿が見えないからね」

「それはいいけど、私を『ちゃん』づけで呼ぶのはいい加減止めてくれない?」


 腕を組んで抗議する麻琴だが、青年は全く意に介していない様子。


「仕方ないじゃないか、慣れちゃったんだから。って、君の文句を聞いている暇はないんだ!」


 がばり、と振り返った人影――神﨑の目には、ゴーグルが装着されていた。

 本人曰く、これが霊視ゴーグルというものらしい。名前からして、霊体化している幽霊の姿も見えるようになるのだろう。


「いやあ、さっきはありがとう、幽霊さん! 危うく落ちるところだったよ! 僕を捕まえてくれたんだろう?」

「ああ、そうだ」

「よし、スピーカーも機能しているな! これでコミュニケーションも問題ないわけだ! やっほう!」


 やれやれとかぶりを振る麻琴に向かい、ジャックは尋ねた。


「こいつが、お前の言っていた味方か?」

「ええ、そうよ」


 渋面を作りながら、麻琴が短く答える。


「いやあ、初めまして、幽霊さん! 僕は神﨑礼一郎。霊能学の研究者だ!」

「そんなオカルトじみた学問は知らん」

「ご謙遜ご謙遜! 君の存在が、こうして全てが事実であることを物語っているじゃないか!」


 言葉を発する勢いのまま、神﨑は実体化していたジャックの手を取った。


「やっと僕の研究が正しいことが証明されたよ! いやあ、僕は霊感が強くないから、こんな装備を付けないと君たち幽霊の存在を感知できないんだ! 苦労して開発した甲斐が――おや?」


 不意に神﨑は視線を斜め上方へ。そこではエンジェが、じとっとした視線を神﨑に送っていた。


「君は幽霊にしては随分小さいね。その割には霊力が強い……。もしかして、天使様かな?」

「そ、そうだけど……」


 そこまで言って、エンジェはささっ、とジャックの陰に隠れてしまった。


「警戒しないでくれよ、捕って食うわけじゃないんだから! ああ、そうそう、いいものをあげるよ。ほら!」


 神﨑が背後のリュックから取り出したのは、よくある板チョコだった。

 いい加減にしろとばかりに、麻琴はやや声を荒げる。


「ちょっと神﨑さん、流石に天使はそんなものに釣られたりは――」

「あぁあーーー! チョコレートだあぁあ!」

「っておい!」


 エンジェは呆気なくジャックの背後から飛び出し、神﨑の眼前でホバリングした。


「これ、あたしにくれるの?」

「もちろんだとも! せっかく来てくれたのに、何のもてなしもしないのは無礼だろう?」

「やったあ!」


 エンジェは実体化し、嬉々として板チョコを受け取った。

 麻琴の視線の先では、ジャックが俯いている。


「お互いパートナー選びには苦労するわね」

「まったくだ」


 その時、エンジェと共に踊り狂っていた神﨑がぴたり、と動きを止めた。顔つきが真剣なものに切り替わる。


「どうしたの、神﨑さん?」

「さっきの君たちの戦いが、海上保安庁にバレたようだ。ここも安全じゃない。移動しよう」

「了解。ジャック、エンジェ、移動します。ついて来てください」

「分かった。ほら、早くしねえと置いてくぞ、エンジェ」

「ふぁーい! もぐもぐ!」


         ※


 岸壁の上の工業地帯。そのコンテナの間に鎮座していたのは、一台の大型乗用車だった。

 なんとはなしに重苦しい感じがする。そうジャックが思っていると、先に麻琴が尋ねてくれた。


「神﨑さん、またこの車で来たの? こんな防弾使用ゴテゴテの」

「なあに、備えあれば憂いなし、ってやつさ。さあ、皆乗ってくれ」


 運転席に乗り込む神﨑に続き、麻琴が助手席に、ジャックとエンジェが後部座席に搭乗する。その車内を見てジャックはぎょっとした。


「おい神﨑! この車の中、霊払いのお札がそこら中に貼ってあるじゃねえか! 俺を殺す気か?」

「あなたはもう死んでるでしょう、ジャック」

「あ、ああ」


 麻琴の的確なツッコミに、ジャックは勢いを削がれた。

 それに冷静になってみれば、自分の感覚に異常はない。もし本当にこれらが霊払いのお札だったとしたら、ジャックは倦怠感に見舞われて大変なはずだ。


「安心してくれ、ジャック! 車内のお札は、全部車外からの霊的な攻撃に対する防御兵装なんだ。君やエンジェちゃんに害はないよ」

「そ、そいつはどうも……」

「話が済んだら早く車を出して。私たちはもう追われる身なんだから」

「そうだね! んじゃ」


 ふう、と息をつくジャック。その時、足先に何かが触れた。細長いものが横たえられている。


「おおう」


 ジャックの口から低い、やや驚きを孕んだ声が出た。


「神﨑、ここにあるのって――」

「ん? ああ、対戦車ライフル。弾倉には礼装を施した弾丸が入ってる」

「じゃあ、さっきの戦いで俺たちに援護射撃をしてくれたのはお前なのか?」

「まあね」

「ジャック、神﨑さんはこう見えても陸上自衛隊に所属していたんです。それがどうして、こんな変人になったんだか……」


 溜息をつく麻琴の後ろで、エンジェが指先を舐めながらジャックに尋ねた。


「はむはむ……。ねえジャック、ジエイタイってなあに?」

「日本の軍隊みたいなもんだ」

「ふうん」


 それからしばし、ジャックとエンジェは神﨑に質問攻めにされながら、神﨑のラボへのドライブに臨むことになった。

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