第3話

 その時、ザザッと耳障りな音が入ってきた。麻琴たちが振り向くと、そこには仰向けに倒れた早川の姿がある。


《こちら警視庁特別機動隊。早川警部補、聞こえるか?》


 どうするんだ? と目で問うジャック。無線機からの言葉は続く。


《我々は埠頭からの突入準備を完了した。SATも急行中だ。一旦撤収しろ》


 誰にも答えようがない。


《おい、早川! 聞こえないのか? 喋れない状況ならコールサインを述べて――》

「場所を変えましょうか」

「そうだな。あんたには同行してもらおう。人質としてな」


         ※


 タンカーの図面を頭に叩き込んでいた麻琴は、埠頭とは反対側の、海側の面の扉から外へ出た。欄干に立つと、先ほどの火薬臭や血生臭さが一気に吹き払われていく。

 と同時に、靄が晴れたかのように麻琴の頭は回転し始めた。


 どうして自分はこの幽霊と歩調を合わせているんだ? こちらの攻撃がなかなか通用しない上で、文字通り人質、ということになるのだろうか。


「で、これからどうする?」

「海上保安庁が来る前に、海路で脱出します。しばらく航行して、東京湾の別な埠頭に上陸しましょう」

「うむ」


 発動機付きの脱出ボートを海面に下ろしていく麻琴。それを見つめるジャックは、素直に疑問を口にした。


「確か麻琴、と言ったな、お嬢さん?」

「お嬢さんはやめてください」

「失敬。麻琴、一つ尋ねたい。君はどうして、俺に対して協力的になったんだ?」


 ざぶん、といってボートが海面で展開される。振り返りながら、麻琴は答えた。


「さっき言ったでしょう、そういう家の血筋なんだって。私にとって幽霊は、怪物でもなければ化け物でもない。姿が違うだけの人間なんです。それにジャック、あなたは随分とワケアリな様子でしたから、あんまり私が抵抗すると用なしと判断されて殺される恐れもある。だから私は人質として、あなたを援護しようと思ったんです」

「ちょっ、待ってよ麻琴さん!」


 会話に割り込んできたのはエンジェだ。


「ジャックは人殺しなんてしてないよ! 生きてる間も、亡くなった後も!」

「そうなんですか?」


 あくまで淡泊な態度を崩さずに、麻琴は尋ね返す。


「ジャックは濡れ衣を着せられて――」

「もういい、エンジェ」


 うんざりした様子で、ジャックはエンジェの言葉を遮った。


「あんまり思い出したくはない。我ながらな」


 ジャックは何気ない風を装って答えたが、そこには一抹の恐怖心が混ざっている。


「取り敢えず今のところ、この世で信用に足る人間はあんただけだ、麻琴」

「それはどうも」

「あんたを人質にしてる、ってのは聞こえが悪いが……。まあ、協力してもらえれば助かる」

「構いません。幽霊を救おうとしたのは、これが初めてではありませんから」


 これには流石のジャックも驚いた。思わず片眉がぴくり、と上がる。

 しかし、それが上手くいったのかどうかについては、尋ねないでおくことにした。


「さあ、準備ができました。このロープを伝って下りてください」

「了解だ」


 ジャックは思いの外慣れた様子で、すたっとゴムボートに着地した。麻琴もそれに続く。

 麻琴は携帯端末を開き、ある番号を打ち込んだ。


 麻琴が発動機を起動させている間に返信が来た。画面には地図が表示されていて、赤い点が二つ表示されている。現在地とピックアップ予定地だ。


「神﨑さんもよくやってくれるなあ……」

「誰だ?」

「私の味方です。つまりはあなたの味方にもなります」

「それは頼もしいな」


 いったいどんなやつなんだか。ジャックはふっと溜息をついた。


         ※


 麻琴が指示を受けたのは、横浜港からやや離れた、東京都の管轄する埠頭だった。距離もあったし、これなら追手も来ないだろう。


 麻琴は弾丸を込め直したリボルバーを手に、周囲を見回してから埠頭に接岸した。ゴムボートに積まれていた、鉤爪のついたロープを上方に放り投げる。

 数回強く引っ張って、強度を確認した。


「ここを上れば、味方に合流でき――」


 と言いかけたところで、麻琴は後頭部をぐいっと押し下げられた。ジャックが片腕を実体化して、麻琴に頭部を下げさせたのだ。


 麻琴の頭部があったところを通り抜けていくものがあった。弾丸だ。狙撃銃に用いられる、大口径のもの。


「ジャック! なっ、何を……!」

「エンジェ、このままじゃ俺たちは蜂の巣だ。結界を張ってくれ!」

「はぁい!」


 じたばたする麻琴を無視して、ジャックはエンジェに要請した。すると、淡いエメラルド色の六角形で構成された半透明の壁が、ゴムボートを囲うように現れた。


「畜生、あいつらこんなところまで追って来るとはな……」

「あ、あいつら、って?」


 なんとか状況を察したらしい麻琴に、ジャックは聞かせた。


「幽霊を捕縛して、実験台にいようとする奴らだ。八十年前に俺がヨーロッパを出てから、ずっと追ってきていやがる。さっきの弾丸は特殊な礼装でな、幽霊の俺でも負傷してしまう」

「そんな!」

「だからあたしが、ジャックの援護役兼見張り役として、神様から遣わされた、ってわけ! でも、神様はほぼほぼ人間界には無干渉だから、あいつらにゴーストハントを止めさせるようなことまではしてくださらないんだ」


 そう言って、エンジェは両の掌を突き出して結界を強化する。


「ジャック! その礼装を施したという弾丸は、生身の人間にも通用するのですか?」

「当然だ!」

「くっ……」


 麻琴はより体勢を低めながら、手元の端末を操作する。その画面に映ったのは、五百メートル以内の海上を移動する物体だ。それを見て、麻琴はごくり、と唾を飲んだ。


 このゴムボートとほぼ同じ大きさの小型船が三つ、司令船と思しき中型船が一つ。

 方向からして、現在狙撃を繰り出しているのは斜め前方から接近中の小型船。揺れる海上からの狙撃だから、これ以上撃っては来ないだろう。


 だが、どの船舶も接近中であることには変わりない。このままでは――。


「エンジェ、結界はあとどのくらいもつんですか?」

「分からない! こんな礼装に遭遇したのは初めてなんだ!」


 これでは、やられるのを待っているだけだ。こちらから仕掛けて追い返すなりなんなりしなければ。


「ジャック、武器はありますか?」

「近接戦用のコンバットナイフだけだ! 敵の船に乗り込まない限り戦えねえぞ!」

「じゃあ、ロープを切って!」

「何だって?」

「早く! 発動機、再度起動します!」


 慌てたジャックがロープを切り払うのと、彼らのボートが発進するのは同時。コンクリートの岸壁から遠ざかるように、大きく蛇行した。

 最寄りの敵のボートが、勢いよく迫ってくる。しかし、高波と水飛沫でまともに弾丸は飛んでこない。


 だが、こちらから発射された弾丸は違った。無論、麻琴が撃ち放ったリボルバーの弾丸だ。

 驚異的なのは、彼女がわざと敵の胴体を狙わず、四肢に弾丸を当てたこと。相手を殺さないためだ。それがジャックの信念だったし、彼女もそれを願っていた。

 といっても、こんな困難な射撃を試みたのは初めてだ。


 その証拠に、軽く顔を上げたジャックが呆然と射線を見つめていた。


「お、お前、特注の銃撃用マシンなのか?」

「馬鹿言わないでください。この銃を使うのに、どれだけ訓練積んだと思ってるんですか? あなたのナイフ捌きに負けるつもりはありませんよ」


 この一言に、ジャックは沈黙した。

 だが、沈黙したのは彼だけではない。最寄りの敵の小型船もだ。


「エンジェ、あの船の状況は分かりますか?」

「全員が行動不能みたい! でも沈没の恐れはないよ!」

「了解」


 麻琴が弾丸を詰め替える間、エンジェが結界を張り直す。


「次弾装填完了! またさっきと同じ方法で――」

「待て、麻琴」


 ジャックが麻琴の肩に手を載せた。


「次は俺が行く」


 ジャックはナイフを眼前に翳しながらそう言った。

 これには流石の麻琴も呟いた。


「マジかよ……」


 麻琴がそう言い切った直後、結界が解ける一瞬の間を縫ってジャックは跳んだ。

 その右腕には、分厚い皮の手袋がはめられていた。あろうことか、ジャックはコンバットナイフの刃を握っていたのだ。柄で敵を殴り、昏倒させるつもりなのだ。


 ほとんど光もなく、波で荒れる船上で、ジャックは凄まじい白兵戦を展開した。

 着地して屈み込み、両腕を軸にして足を三百六十度回転させる。その脚部には、確かな重量と速度が乗っていた。


 狭い船上だ。全員が倒されるのに、大した時間はかからない。

 敵の頭を、ジャックは次々とナイフの柄で殴りつけていく。

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