12月20日【終点】


「ドアが閉まります。ご注意ください」

 車内放送と共に、気動車のドアが閉まりました。なっちゃんたちは、みんなして息を切らしながら、「間に合ってよかったね」を言い合う余裕もなく、おのおの呼吸を整えます。


 こんなに全速力で走ったのは、いつぶりでしょう。なっちゃんの心臓は、ばくばく音を立てています。胸と肩は一生懸命上下して、目一杯の酸素を肺に取り込もうと頑張っています。足の筋肉は、ぷるぷる震えながらも、なんとかなっちゃんの体重を支えています。

 こんなに走ったのは、本当に、久しぶりなのです。


『なっちゃん、ぼくたち、ふゆの風に、なっていた、ねえ』

 芋虫のミトラが、息を切らしながら言いました。芋虫のミトラは、ずっとなっちゃんの肩に乗っていましたので、少しも走ってはいないのですが、全速力で走るなっちゃんに振り落とされてしまわないよう、ずっと肩にしがみついていましたので、それはそれで疲れているのです。


『ぼくたちの走るうしろを、こなゆきが、舞っていたよ』

 そうなのです。なっちゃんたちは、噴水お風呂で身を清めたあと、すぐに走ってきましたので、全身がびしょ濡れだったはずなのですが、今はすっかり乾いています。

 あんまり速く走ってきましたので、水分の方がついてこられなくって、振り落とされて、雪になって舞い散っていったのです。雪を舞い上げながら疾走する、なっちゃんたちはまさに、冬の風になっていたのでした。


「それにしても、もう、こんなに走るのはこりごりだ」

 灰色の侍女が言いました。みんな、無言で頷いて、よっこいしょと座席に座りました。そして、本を読むでもなく、これからのことを話すでもなく、黙って疲れを癒やしました。



 ディーゼルエンジンの音を響かせながら、気動車は、真っ黒の世界を進みます。なっちゃんたちのほかに、乗客は見当たりません。

 クリスマス・マーケットには、あんなにたくさんの人がいて、あんなにたくさんの物があったのに、気動車は、どうしてこんなにもがらんとしているのでしょう。あの人たちは、どうやって、クリスマス・マーケットに来ていたのでしょうか。たくさんの荷物を抱えて、どうやって、帰るのでしょうか。


 なっちゃんが考えていますと、突然、気動車が大きく揺れました。そして、斜めになりました。

『ああー』と、芋虫のミトラがころころ転げてしまいます。

「きっと、坂を上っているのだろう」

 灰色の侍女がそう言いながら、転げていく芋虫のミトラを捕まえようとして、失敗しました。

「きっと、階段を上っているんですよ」

 なっちゃんもそう言って、転げていく芋虫のミトラに手を伸ばしました。しかし、あと少しのところで、取り逃がしてしまいます。

 ふくろうのミトラが、灰色の侍女の肩から音もなく飛び立って、転がっていく芋虫のミトラに追いつきました。そして、猛禽類の立派な脚で、決して傷つけないよう優しく、柔らかな体を捕まえました。


 気動車は斜めになったまま、ごとごとごとんと、階段を上っていきます。いよいよ、おうちの二階に行くのです。

「ねえ見て。綺麗ねえ」

 コマドリが声を弾ませながら、窓際で尾羽根を振りました。なっちゃんと灰色の侍女が窓の外を見ますと、はるか眼下の暗闇の中に、金色の星つぶが光っているのでした。


 百か二百ほどの光の粒が、寄り集まっておぼろげな塊をかたちづくり、圧倒的な暗闇の中で、ひっそりとまたたいています。あれがきっと、クリスマス・マーケットです。

 さらに遠くには、一等星ほどの輝きのある光が、いくつか連なって輝いています。あの連星は、フキコさんのおうちの、数々の小部屋に違いありません。

「綺麗だ」と、灰色の侍女が呟きました。「ここまで来られて、良かった」

 なっちゃんは、それに何か返そうと思ったのですが、言うべきことを何も思いつきませんでしたので、黙っていました。



 それから、ごっとん、と大きく揺れることが三回ほどあり、そのたびに芋虫のミトラがころりんと転げまして、そうして気動車はようやく、速度を落とし始めました。

「まもなく、終点。終点です。お出口は、右側です。お忘れ物のないよう、ご注意ください。まもなく、終点です」

 車内放送を聞いて、なっちゃんたちは、顔を見合わせました。終点とは、どういうことでしょう。二階にも、いくつか小部屋があるはずなのです。


 駅に降りまして、あたりを探しますと、幸運なことに、駅長らしき人を見つけることが出来ました。駅長は車内を点検して、残っている人や忘れ物がないかどうか、確認しています。

「すみません。お聞きしたいことがあるんですが」

「はい、何でしょう」

「ここは、この世界の最上部ですか」

「いいえ。かなり高い場所ではありますけれど、最上部では、ありません」

 なっちゃんたちは、再び、顔を見合わせました。

「私たち、最上部へ行きたいんですけど、どうやって行けばいいですか。乗り替えなどはありますか」

 なっちゃんが尋ねますと、駅長はなっちゃんを、じっくりと見つめました。そして少し驚いたように、「あなた、肉体をお持ちなんですねえ」と言いました。


「肉体をお持ちの方は、この先へ行くのは難しいですよ。ここまで来られたのだって、信じられないくらいです。肉体を脱ぎ捨てれば、もっと先へ行けるとは思いますがね」

「肉体を脱ぎ捨てる? それって、死ぬということですか」

「そういう方法もありますね。すみません、私は詳しくないんですよ」

 そう言って駅長は、また、車内の点検に戻ってしまいました。

 これ以上、お仕事の邪魔をするわけにはいきません。なっちゃんは駅長にお礼を言って、灰色の侍女に相談してみます。灰色の侍女は、難しい顔でうつむいてしまいました。


「ここから先は私一人で、と言いたいところだが……その金の鍵は、恐らく、なっちゃんにしか扱えない。金の鍵がなければ、ドアを開けることは出来ない」

「私と一緒でしか、駄目だということですね。でも、肉体を脱ぎ捨てなければ、最上部へは行けないって……」

 最上部へ行って、星を視る人に会おうと思っていたのに、これでは、計画倒れです。二人は、すっかり黙ってしまいました。

『さっきなっちゃんがいってた、しぬってほうほうじゃ、だめなの』と、芋虫のミトラが言いました。それを、コマドリが強めにつついて諌めました。芋虫のミトラは『いたあい』と言って、ふくろうのミトラの羽の中へ、隠れてしまいました。


「でも、ここまでは来られたのだから、とにかく、この駅のドアに入ってみましょうよ」と、コマドリが提案して、ようやくなっちゃんたちは、駅の真ん中のドアに向き合いました。

 このドアは、寝室のドアです。今はなっちゃんの寝室、そして、かつてはフキコさんの寝室だった部屋のドアです。

 なっちゃんは、金の鍵で、ドアを開きました。



 そこは、ただの寝室でした。もちろんこれまでの小部屋のように、何もかもが透明で真っ黒ではあります。けれど、透明で真っ黒であることのほか、何も変わったところがないのでした。

 窓も、棚も、ベッドも、サイドテーブルも、寝室そのままです。サイドテーブルの引き出しも開けてみたのですが、特に変わったところはありません。つまり、何も入っていません。


『こっちなんじゃない?』

 と、芋虫のミトラが指したのは、寝室から書斎へと続くドアでした。このドアの向こうには、書斎と、天窓の部屋があります。

 なっちゃんは、金の鍵を使おうとしたのですが、困ったことに、ドアには鍵穴がないのです。もちろん、ドアは開きません。鍵穴のない鍵のかかったドアなんて、どうやったって、開けることは出来ません。


  なっちゃんたちは、手分けして、もっと隅々まで部屋を調べてみました。カーテンの裏も、お布団の中も、枕の下も、吊り下げ灯の笠の上も、全部調べてみました。

 けれど、どこにも何もありませんでした。魔法のそりを準備するためのヒントも、星を視る人のところへ行く道も、書斎へ続くドアを開ける方法も……ここが終点だというのに、ここには何もないのです。


 なっちゃんは放心して、ベッドのふちに腰掛けました。もう、どこにも探すあてがありません。

 ――肉体を脱ぎ捨てる? それって、死ぬということですか。

 ――そういう方法もありますね。

 ついさっき、駅長と交わした会話が、思い出されます。なっちゃんは、ベッドに座ったまま、真っ黒で透き通っている部屋の向こう側を、じっと見つめます。見つめるというよりも、睨みつけているといった方が、正しいかもしれません。


 泣き出したかったのですが、隣に座った灰色の侍女の方が、なっちゃんよりもずっと泣きたいだろうと思って、なっちゃんはぐっと涙をこらえました。

「やってみなきゃ、分からない。でも、やってみて、無理だと分かることもある」

 灰色の侍女が、言いました。「みんな、がっかりするだろうな」

 そして、なっちゃんにしがみついて、しくしく泣き出しました。灰色の侍女が泣き出して、ようやくなっちゃんも、泣くことを許されたような気がして、唇を引き結んだまま、涙をひと粒だけ、こぼしました。



 互いにしがみつきながら静かに泣いていますと、ふとなっちゃんは、胸ポケットのあたりに、違和感を覚えました。

 なっちゃんが着ているコートのポケットは、今やぱんぱんに膨れ上がっています。

 旅に出る前に入れてきたものもありますし、透明で真っ黒な世界で調達した、本や、光る木の枝や、なっちゃんの夢のかけらや、ちびた石鹸などなど、本当にたくさんのものが、ポケットに詰まっているのです。

 ですから、もうこれ以上、ものを入れられる余裕はないはずなのですが、そのポケットが、さらに大きく、ぐんと膨らんだような気がしたのでした。


 なっちゃんは、違和感の元である胸ポケットを、そっと探ってみます。そうしますと、くしゃくしゃに折りたたまれたオリーブ色の封筒が、胸ポケットにねじ込まれていたのです。

「フキコさんからの、手紙……」

 封を切ります。いつもの一筆箋の、ねじ込まれたせいで折り目がたくさんついているのを手で伸ばして、そこに書かれてある文字を読んでみます。


『泣きむしなっちゃん。泣いていないで、考えなさい』



 なっちゃんは「あ」と、吐息のような声を漏らしました。

 お母さんに怒られたり、お友達と喧嘩をしたりして、幼いなっちゃんが泣いていますと、フキコさんはいつも「泣きむしなっちゃん」と言って、なっちゃんの鼻をつまみました。それを、思い出したのです。

「どうして、お母さんは怒るの」「どうして、お友達はいじわるするの」

「どうして、いっぱいお勉強しなきゃいけないの」「どうして……」


 なぜ、どうしてとフキコさんに尋ねたとき、フキコさんは「考えなさい、なっちゃん」と言いました。

 フキコさんは、いつだって、答えは教えてくれませんでした。なっちゃんが考えて、たくさん考えて出した答えを聞くと、フキコさんは「そうかも知れない」とだけ言って、微笑むのです。



 何度か鼻をすすって、なっちゃんは、灰色の侍女の背中を優しくさすりました。こんな小さな女の子と一緒になって、べそべそ泣いている自分が、少し恥ずかしくなりました。

 そうです、泣いている場合ではありません。考えなければ。なっちゃんは、涙に濡れたまぶたを、そっと閉じました。


 肉体を脱ぎ捨てれば、この先へ行けると、駅長は言いました。死ぬということかと、なっちゃんが尋ねますと、「そういう方法もある」と言いました。

 では、「そういう方法」でない方法は、どういったものでしょう。

 考えます。肉体を脱ぎ捨てるって、心だけになるということなのかな。心だけって、どういうこと? たとえば、こうして目をつぶって、じっと考えているときは、肉体は全く動いていなくても、心は忙しく動いている。これって、肉体を脱ぎ捨てていることと、同じじゃないかしら。


「そうね、そうかも知れない」

 フキコさんの声が聞こえました。

「昔のことを思い出すとき、なっちゃんの心は時を超えて、空間を超えて、懐かしいあの日に旅をしているものね」

 そうだね、フキコさん。クリスマス・マーケットで会った人たちも、そう言っていた。思い出すこと、考えること。それは、魂だけになって、飛んでいくこと。

 でも、フキコさん。私は私の思い出の中にしか、飛んで行けないよ。見たことのない「この先」へは、行くことは出来ない。プレゼントを待ち望む、たくさんの見知らぬ誰かのもとには、飛んで行けない。


「なっちゃん、ようく考えて。なっちゃんは一度、見たことがあるはずよ。自分の思い出も、ほかの誰かの思い出も、全部いっしょくたに混ざり合っているところ。見たことがあるはず……」

 そんなもの、見たことあったかなあ。思い出が、混ざり合っているところ……



 突然、なっちゃんが「あっ!」と叫んで立ち上がりましたので、ミトラたちもコマドリも、しくしく泣いていた灰色の侍女も、驚いて飛び上がりました。

 なっちゃんは、みんなを驚かせてしまって申し訳ないと思いつつも、「煙突だ!」と再び叫びました。


「煙突掃除をしたとき、私のものじゃないたくさんのものが、煤の海に埋まっていたでしょう。ティーカップとか、サッカーボールとか。あれらは、どこから来たの?」

 なっちゃんの問いに、コマドリが、小首をかしげながら答えます。

「あらゆるところから来るのよ。燃やされたものたちは、全て等しく煤になって、煤の海に辿り着くの。海は世界中と繋がっているものでしょう。煙突の煤の中には、世界中の捨てられたものたちが、埋まっているのよ」

「そう、そうだ。それだ! だからサンタクロースは、煙突からやってくるんだ!」

 なっちゃんは、もう飛び上がって、ブラボーを叫びたい気分でした。

「私たちは、そりじゃなくて、船を造るべきなんだよ。空を飛ぶそりじゃなくて、煤の海を渡る船を!」

 大喜びでぴょんぴょん跳ねるなっちゃんを、とうとう灰色の侍女が「説明をしないか!」と叱りました。



 なっちゃんの説明を、みんな、真剣に聞きました。

 捨てられて、燃やされてしまったものたちは、全て同じ煤の海を漂います。

 ということは、煤の海を渡って行けば、誰の元にも辿り着くことが出来るということです。煤の海を渡っていけば、捨てられたものたちの思い出の力を借りて、時間も空間も、きっと超えることが出来るのです。

 人間も、ミトラも、コマドリもハムシも、どんな生きものも、何かを捨てずには生きられないものですから、きっと煤の海は、誰の思い出とも、誰の心とも、繋がっているでしょう。


「やってみよう」

 泣き腫らした目をこすりながら、灰色の侍女が言いました。

「もう、クリスマスまで時間がない。煤の海を渡る船を造ってみて、プレゼントを配るに足るものか、試してみるしかない」

 その意見に、誰もが賛成でした。この駅に着くまでに、何日もかかりました。行き方の分からない「この先」への道を探すより、そろそろ帰った方が良さそうです。

 急いで、そりもとい船の準備を始めなければ、クリスマスに間に合いません。



 さあ、それでは帰ろう、と意気込んだなっちゃんの肩に、ふくろうのミトラが舞い降りました。そして『でも、みんな、つかれすぎた顔をしているね』と言いました。

『そんな顔のまま帰ったら、しんぱいされちゃうよ』

 なっちゃんと灰色の侍女が、互いの顔を見てみますと、確かに、あんまり疲れすぎているのでした。お風呂に入ったばかりですので、身ぎれいではありますが、二人とも、時間や物事に追われすぎた人の顔をしています。


『せっかくここは、寝室の駅なんだし、すこし眠ったらどう? おねぼうしないように、ぼくが起こしてあげるから。ぼくは夜のあいだじゅう、起きているのが得意だから』

 言われてみれば、ここ数日というもの、まともに横になっていないのです。気動車の座席に座ったまま、眠りはしましたが、完全に疲れを取るには、やっぱりお布団の中で眠るに限ります。



 そんなわけで、なっちゃんは、しわの寄ったシーツとお布団を整えました。

 オイルヒーターから生えていたのを折ってきた、橙色に光る枝は、ほんのりと温かかったので、なっちゃんはそれをお布団の中に放り入れました。あんかの代わりです。

 お布団が良い具合に温まりますと、なっちゃんは灰色の侍女と一緒に、ベッドに潜り込みました。芋虫のミトラは、なっちゃんの枕元に丸くなりました。コマドリは、掛け布団の上に羽を休めます。


『おやすみ、なっちゃん。ゆっくり、おやすみ。ほうー、ほう』

 ふくろうのミトラが、低い声で歌います。

「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 なっちゃんと灰色の侍女の「おやすみ」は、お布団のぬくもりの中に、じんわりと溶けていきました。



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