12月19日【クリスマス・マーケット】
なっちゃんは、思わず「わあ」と感嘆しました。ドアの先は、まるで、光と音の洪水でした。
さっきまでの小部屋の駅とは違って、ここには、リビングのおもかげはほとんど残っていません。幅の広い通りが、ずっと先まで伸びており、通りの両側には屋台が立っています。
シュトーレンやヌガーやクッキーを売っているお店もあれば、吹きガラスのオーナメントを売っているお店もあります。毛糸のセーターやマフラーを売っているお店もあり、青々としたひいらぎや、リースを売っているお店もあります。
どれも、この時期に必要とされるお店であり、当然、よく繁盛しているようでした。
クリスマス・マーケットは、金色の光と、人いきれとで溢れています。
灰色の侍女を横目に見ますと、ずっと厳しい表情だった彼女も、灰色の瞳に金色の光を反射させて、ほんの少し、興奮しているように見えました。それでなっちゃんは「このあたりで、少し、休憩をしましょう」と提案しました。
灰色の侍女は「休憩をしている暇など、ないに決まっているだろう」と反対しましたが、なっちゃんが「ここは人がたくさんいますから、手がかりになりそうなことを、色んな人に聞いてみましょう。そのついでに、休憩をしましょう」と言い直しますと、「それならば、よい」と了承しました。
そしてさっそく「なにか飲みたいぞ」と言いましたので、なっちゃんたちは、飲み物を売っている屋台を探しました。
飲み物屋には、ホットミルクやホットチョコレートのほか、紅茶やコーヒー、煎茶や麦茶までありました。なっちゃんが、興味本位で聞いてみたところ、麦茶を注文する人は、それなりにいるのだそうです。
なっちゃんは、ホットジンジャーを注文して、ミトラたちにも同じものを、はちみつ多めで買ってあげました。コマドリは「ホット春甘露」という、聞いたことのない飲み物を注文しました。甘い春の匂いを煮詰めて、雪解け水で割った飲み物だそうです。
灰色の侍女は、一番長く迷っていましたが、結局なっちゃんと同じ、ホットジンジャーを注文しました。はちみつは、多めです。
たくさん持ってきた冬のかけらでお代を支払ってから、なっちゃんは、飲み物屋の店主に尋ねてみます。
「魔法を使わずに、空を飛んだり、時間を超えたりする方法って、何かあるでしょうか」
おかしな質問だな、と言いたげに、店主は首をかしげました。
「空を飛ぶのは、鳥が得意だよ。時間を超えるのは……どうすればいいかな。なあ、どう思う」
店主は、ホットウイスキーを買いに来ていたおじいさんに、聞いてみます。おじいさんは「時間を超えられるのは、思い出だけだよ」と言いました。
次になっちゃんたちは、小腹が空いたので、お菓子を売っている屋台に行ってみました。そこで、たっぷりのアイシングがかけられた、クグロフという焼き菓子を買って、また、同じ質問をしました。
お菓子屋の店主は「風は、どこまでも空を飛んでいくね。記憶は、どこまでも時間を飛んでいくね」と言いました。
「それから、心もね。もう失われたはずの過去から、思いがけず、飛んできたりするものだ」
店主たちだけでなく、買い物客や、すれ違った人や、屋台の上にとまって休憩していたツグミにまで質問をしながら、なっちゃんたちは、クリスマス・マーケットの通りを進みます。
通りをずいぶん進んで、なっちゃんはようやく、おうちのリビングにあったものを見つけました。暖炉です。
リビングにある暖炉と決定的に異なる点は、ここの暖炉は、なっちゃんがぐいっと背中を反って見上げなければならないほど、大きいということでした。まるでビルのようです。
その大きな暖炉の中に、金色の炎が舞っており、周囲を明るく照らしています。暖炉の周りにはいくつかのソファが並べられていて、歩き疲れた買い物客たちの、休憩場所になっているようでした。
なっちゃんたちは、ソファのひとつに座って、さっき買った飲み物とクグロフをいただくことにしました。ソファは、これもやはり黒曜石のような、透き通った何かで出来ているのですが、とても柔らかく、座り心地の良いソファでした。
座って、食べたり飲んだりしながら、なっちゃんたちは、これまで聞いてきたことをまとめます。
「まず、どうやら一番簡単なのが、空を飛ぶことですね。魔法を使わなくても、羽があれば、空は飛べます」
なっちゃんが言いますと、ふくろうのミトラとコマドリが、えっへんと胸を張りました。
「ですから、空を飛ぶことは、不可能ではないと思います」
なっちゃんの言葉に、灰色の侍女は、神妙にうなずきました。難しいのは、ここから先です。
時間を超えること。空間を超えること。あらゆる境界を超えること。これらに対する答えは多様であり、しかしそれでいて、よく似通っていました。
思い出、記憶、心、かつて見たもの、かつて聞いた音、かつて嗅いだ匂い。それから、温かさ、切なさ、懐かしさ……そういったものは、時間を超え、空間を超え、あらゆる障壁を超えて作用するのだと、たくさんの人たちがそう言いました。
だけれども、それらは全て、準備が難しいものばかりです。思い出も、心も、切なさも、何がそうであるかは、人によって異なります。
クリスマスのプレゼントを待ち望むみんなの、それぞれの思い出を準備することなんて、不可能です。そしてそもそも、思い出を準備するということが、どういうことなのか、なっちゃんにも誰にも分かりません。
議論が行き詰まって、みんなが黙りこくったとき、「おやあ」と明るい声が、暗い空気を打ち破りました。
「なっちゃんさんじゃありませんか。こんなところで会うなんて!」
声の方を見てみますと、そこには、頭とお尻がオレンジ色をした、ハムシが立っていました。なっちゃんと、同じくらいの背丈をしています。しかし大きさこそ違えど、そのおしゃれな色合いと、商売虫らしい明るい声色は、間違いなく小棚市場のハムシなのでした。
「お久しぶりです、なっちゃんさん。おや、コマドリさんも。それから、ミトラさん方と、見知らぬ灰色のお嬢さんも。いったいどうしたんです。みなさんお揃いで、そんなに困った顔をして」
なっちゃんたちは、ハムシに事情を話しました。
魔法のそりを準備しなければならないこと。役に立ちそうなものがないか、いくつかの駅を探してきたこと。そりを飛ばすことはなんとかなりそうだが、時間と空間と、あらゆる境界を超えることが、どうしても難しそうだということ。
ハムシは真剣に聞いてくれました。しかし、ハムシ一匹の知恵でなんとかなる問題でもありません。
「どうです、我々の店へ、寄っていきませんか。百匹も千匹も、虫がおりますから、良い案を出すものもあるでしょう」
そうしてなっちゃんたちは、暖炉の広場を横切り、クリスマス・マーケットの、さらに奥に進みます。
恐らく、すでにリビングを通り抜けて、キッチンに入っています。歩きながら、両側に広がる屋台のその向こうに、見慣れた大棚がそびえ立っていたのを、なっちゃんは、確かに見ました。
「さあ、着きましたよ。我々のお店です。どうです、立派でしょう」
ハムシが指した先は、確かに大した賑わいでした。
キッチンの小棚と同じかたちをした建物は、棚の仕切りのひとつひとつに専門店が入っていて、百貨店のようになっているのでした。そしてどの専門店も、ハムシやイモムシやアブラムシや、バッタやウンカやカメムシなんかが、それぞれ経営しているのです。
なるほど、リビングの小棚は、月曜日と水曜日と金曜日だけ、このお店と繋がっていたのです。
なっちゃんはたくさんのお店をきょろきょろと見回しながら、それにしても、嫌われものの虫たちばかりだな。などと、ちょっと失礼なことを考えました。なっちゃんは、カメムシが苦手なのです。
なっちゃんの、そういう複雑な表情に気が付いたのか、コマドリがなっちゃんにささやきました。
「彼らはね、美味しい野菜や果物や穀物のために、死ななければならなかったものたちよ」
コマドリはそれだけ言って、なっちゃんの前髪を、優しくついばみました。なっちゃんは、どうしていいか分からずに、隣りにいるハムシをちらりと見ます。
コマドリの言葉が、ハムシにも聞こえていたのでしょう。「そういうものですよ」と、ハムシは言いました。
「生きるということは、何かを虐げるということです。ですが、それだけではないことを、我々は知っています」
それから、「この話はここでおしまい」と宣言するように、ハムシは大きな声で「さて!」と言いました。
「みなさん、お忙しいこととは思いますが、少しの間、手を休めて、知恵を貸してほしい。さあ、クリスマスにかかわる、大切な話だよ」
虫たちの注目を集めてから、ハムシが「ここから先は、なっちゃんさんが」と、なっちゃんにバトンを渡しましたので、なっちゃんは緊張しながらも、説明します。
時間を超える。空間を超える。あらゆる境界を超えて、どんなところにだって、プレゼントを届けに行く方法を、探していること。なっちゃんの説明を聞いて、虫たちがざわつきます。
「そんなこと、出来るのか?」「空は飛べても、時間はなあ」「どこにだって、飛んでいかなきゃならないんだろ」「そんなこと、出来るかなあ」
聞こえてくる声は、不安げなものばかり。なっちゃんの背後で、灰色の侍女が、灰色のスカートをぎゅっと握ります。
その時、長い立派な触角を持つ、黒と白のまだらのカミキリムシが「星を
なっちゃんは、その人を知りませんでしたが、話を聞くに、この真っ黒の世界が生まれた時から、ずっと、この世界の最上部に住んでいる賢者だそうです。
「虫には難しい問題だ。きっと、あなたたちにとっても、難しすぎる問題だ。この世界で一番の賢者を、頼るしかないよ」
申し訳無さそうに言うカミキリムシに、なっちゃんは、「ありがとうございます」と頭を下げました。それから、ハムシや、ほかの虫たちや、もちろんカメムシにも、丁寧にお礼を言いました。
「星を視る人に会いに行くなら、身を清めてから行ったほうがいい。最上部は、神聖な場所だから。湯浴みをしてから行くといいよ」
最後のアドバイスをもらってから、なっちゃんは、いくつか必要なものを買いました。それから、虫たちの百貨店をあとにしました。
虫たちは、なっちゃんよりいくぶんか多い手をたくさん振って、なっちゃんたちを見送ってくれました。
『なっちゃん、なにを買ったの』
芋虫のミトラが、なっちゃんに尋ねます。
「これから身を清めに行くんだから、もちろん、お風呂に必要なもの」
『あ、わかった。あわあわで、いいにおいがするもの』
芋虫のミトラは嬉しくて、なっちゃんの肩の上で、くるんと丸くなりました。それで、肩から落ちかけたところを、地面に落ちる前に、灰色の侍女が素早く受け止めました。
リビングとキッチンとが同じ駅にありましたから、多分そうだろうとなっちゃんは考えていたのですが、その考えの通り、お風呂も、クリスマス・マーケットの通りをずっと奥に行った先に、ありました。
それはお風呂というよりも、噴水広場のようでした。あたたかく、清潔なお湯が、地面のあちこちから噴き出しているのです。
噴き出したお湯の一部は、なっちゃんたちの上に降り注ぐ前に、透明な水鳥の姿になって、どこかへ飛んでいってしまいます。ですからなっちゃんたちは、噴き出したお湯をすかさず捕まえて、体を濡らしたり、石鹸を泡立てたりしなければなりませんでした。
『せっけん、あわあわ、いいにおい』
石鹸は、この間なっちゃんがみっつも買いましたので、お店にはもう、オリーブの石鹸がひとつしか残っていませんでした。次の石鹸の入荷は、春までないそうです。なっちゃんは、今年最後の石鹸を、大切に大切に泡立てます。
ここには脱衣所や洗濯機なんてありませんので、なっちゃんは、服も体もいっぺんに洗ってしまうことにしました。
頭のてっぺんから爪先まで、泡だらけです。ミトラも、コマドリも、灰色の侍女も、みんな泡だらけです。
『うふふ、ぼくこれじゃ、いもむしのミトラじゃなくて、あわあわのミトラみたい』
芋虫のミトラが、くすくすと笑いながら言いました。
「私も、あわあわ人間だ」
なっちゃんも、言いました。
「それじゃあ私は、あわあわ鳥ね。そんなものがいるかどうかは、知らないけれど」
コマドリも、言いました。
そして灰色の侍女だけが、黙っていました。みんなが彼女のことを「あわあわの侍女さん」と言いますと、あわあわの侍女は「よせ、なんだか恥ずかしい」と言って、あわあわの中に隠れてしまいました。
みんな等しくあわあわになって、オリーブ石鹸の不思議な香りを、体いっぱいにまといました。
体をしっかり清めながら、あわあわになって遊んでいますと、すっかり時間を忘れてしまっていたようです。ふくろうのミトラが『そろそろ、時間だよ。電車が出るよ。ほう、ほう』と時を告げたとき、みんなはまだまだ泡だらけだったのです。
そこで、慌ててお湯を捕まえて、あわあわを流して、大急ぎで駅まで走ったのでした。
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