第18話 中二の夏。鳩山遥斗と担任教師

 中学二年生となり新しいクラス編成となり僕の席は教室の一番左後ろになった。

 そしてその前に座るのが鳩山遥斗。担任は奥山先生だった。

 因果というものだろうか、それともご都合主義と言った方がいいのか。

 普段から物忘れが多い僕は特に消しゴムというものと相性が悪いらしかった。

 ことあるごとに消しゴムを持っていない僕はことあるごとに鳩山遥斗の物静かな背中をシャープペンでつつき消しゴムを借りていた。

 元来、人に合わせることが得意な方な僕にとって彼と仲良くなることはそんなに難しいことではなかった。

 以前は彼と仲良くすることによって自分自身の評価を下げることにつながり、自身の孤立を懸念していた僕にとってこの席の並びは効をなした。教室の隅っこで席の近い僕たち二人が仲良くしていることに特別な理由などいらない。教室に上手く溶け込む僕を介して鳩山遥斗も次第に教室の中に溶け込むようになっていった。何よりよく笑うようになっていった。

 僕たち二人は仲良くなり僕は彼のことを『ぽっぽ』と呼び、鳩山も僕のことを『ゆーちゃん』と呼ぶようになった。

 それでもなお、あの時なぜ彼がタイムリープできないことにふさぎ込んでいたのかはわからなかった。


 夏の太陽が昇り、けだるい雨の時期が始まるころのある日、進路希望票を未だ出していない僕に担任の奥山先生からの指導があった。未来のことなんて何も考えていない僕が進路のことなど決められるはずもない。見たこともない未来を想像するほどには僕の想像力は豊かではない。などとくだらないことを言い訳にする僕はやはりひねくれものなのかもしれない。そもそもが中学の進路希望など大体においていい加減なものだ。どっか適当な普通科高校の名前を書いていれば済むことなのにいちいち理屈をこねたがる。

 『高校に進学する』とだけ、仕方なしに書かれた紙を持ってしぶしぶ職員室に向かった。そこにおっさん先生はいなかった。おそらく理科室にいるのだろうと(普段からおっさん先生は職員室よりも理科室の裏の準備室にこもっていることが多いらしい)他の教師の言葉をあてに理科室に向かった。


 誰もいない放課後の理科室というのは言うまでも無くどこか不気味だ。無駄に静かながらんどうの壁沿いに陳列されたガラスケースの中には薬品漬けにされた魚や小動物がその色を失った不気味な体を今にも動かしだすのではないか、それを見たのが僕一人でそのことを誰にどう伝えたら信じてもらえるかを考えずにその前を素通りできる生徒が果たしてどれくらいいるだろうか。

 人体模型の骨格標本はもう怖くはない。そんなものを怖がっていたのはもっとずっと小さいころだ。それでも皮膚を取り除いた状態の筋肉標本は見ていて未だよい気持ちがしない。特にむき出しになった眼球が嫌に生々しい。それら標本に対し、まるで友達のように「よう」と軽い挨拶を交わしながら理科室の黒板裏にある準備室の戸をノックした。

 返事がない……。ドアの取っ手に手をかけると鍵はかかっていない。「中にいるのかな」と思った僕はドアを開けた。

 カーテンを閉め切って真っ暗にされた部屋の中、一人不気味に白衣を着たおっさん先生が何かの作業をしていた。

「ああ! 駄目だよ。開けたら。すぐに出ていくからそこ閉めて待ってて」

 おっさん先生は自分が返事もしなかったことを棚に上げて僕を叱った。

 すぐ。と言ってから外で十分くらいは待たされた。ようやく出てきた先生は「ああ、それか」程度に僕の進路希望票を受け取り、またそのいい加減な内容に皮肉のひとつ、ふたつを言った。

「まあ、いい。どうせこんなもんはただの紙切れだ。未来のことなんてわかるかよ」

 教師が言ってはならないような発言を平気でする。そういう裏で人間味あふれた発言に対して僕は好感を感じる。

「先生は昔、進路希望はなんて書いてたんですか」

と、別に興味ないことを聞いてみる。これも社会的に人間関係を円滑に進めるための方便でもある。

「そんな昔のこと、覚えてないな。でも、教師なんかじゃなかったな」

「『教師なんか』って、そういう軽はずみな発言は職員室ではさけたほうがいいですよ」

「解ってるよ。だからこうしてなるべく職員室にはいないようにしている。

まあ、思い描いている未来を実現できる奴なんて実際にはほとんどいないさ」

「だから、あくまでもこれは〝進路希望〟なんですよ。希望ですから叶える必要なんてないじゃないですか」

「どっちが生徒で教師だよ。それにお前も偉そうなこと言うぐらいならこんないい加減な内容じゃなくてしっかり書いたらどうなんだ」

「また、そんなときだけ教師ぶる……」

「ふう……。やれやれ、あと出してないのは鳩山だけだな」と言っておっさん先生は僕の方を見つめた。「そういえばお前、鳩山と仲良かったよな。早く出すように言っといてくれよ。アイツ、今日も提出せずにさっさと帰りやがっただろう。まったく、俺の立場というものを考えろよ」

「はあ……、一応、言っときます」と言って踵を返そうとして思いとどまった。

「そう言えば先生、さっき裏で何やってたんですか?」

「ああ、そうだな……」少し思い渋った様子を見せたものの拒否するでもなく、隠すでもなく僕を裏の部屋に案内してくれた。本音を言えば見せたかったのではないだろうかとも思う。だったら興味がなくても見てやるというのが社会生活を上手に営む上で必要な行為だ。


 依然、カーテンは閉め切られたまま、変な色の気持ち悪い照明だけの部屋には何とも言えない薬品のにおいが立ち込めていて、いかにも悪魔的儀式が行われているような印象を受けた。

 机の上に並べられたいくつかの四角い陶器の盆の中にはそれぞれ得体の知れない液体が入っていて、部屋中に張り巡らされたロープには一面写真がぶら下げられている。

「暗室だよ。ここは遮光カーテンだし流し台も浄水設備もある。おまけに換気扇に遮光設備までついてるんだ」

「ちょっと待って、暗室って何?」

「なんだ? 暗室も知らないのか、近ごろの子供は。暗室っていうのは写真を現像するシステムだよ。デジタル時代のカメラじゃそのままプリンターにつないでプリントもできるけど、アナログ時代のものとなるとそうはいかない。いちいちこうやって現像しなきゃならないのさ」

「つまり先生は時代の流れに取り残された、ということ?」

「違うよ、過去の時代のものの良さを知っているだけさ。君たち子どもはもともとその良さを知らないから良さが解らないという事だけさ」

「解らないな。なんだかめんどくさそうなだけだ」

「まあ、俺らの時代だってもう写真の現像なんてしているやつはいなかったし、それよりも昔だってほとんどの人は写真屋に持って行って現像してもらってたらしいよ。こうやって自分の手で現像する人はごく少数だった」

 奥山先生はまだ色つきもまばらなぶら下がっている写真を愛でるように眺めていた。そのどれもが風景写真ばかりで人物が映っているものは一枚も見当たらなかった。よくわからない写真についてのうんちくをしばらく語られたが、どれも大して興味のない話だった。


 おっさん先生も鳩山遥斗とは同じタイプの人間らしい。本質的に無口ではないし根暗でもない。ただ、少しだけ他の人と比べて他人との距離感をつくるのが下手なようだ。結果として好む、好まざるを問わず孤立するしかない。それが最も効率的な生き方だと思っているのだろう。

 僕は帰り際におっさん先生に言ってやった。

「……あとそれから先生。僕たちの世代はこれでいてなかなか難しい世代なんです。だから子供呼ばわりするのはやめた方がいいですよ。生徒から嫌われてしまいますから。

 それにこういっちゃなんですが、今のところ先生は女子生徒からの人気高いんですよ。そりゃもう男子生徒から妬まれるくらいに」

「だから……。俺に変なあだ名をつけたのか?」

「あ。ええ、まあ……知ってたんですね」

「――お前、みんなに変なあだ名つけてばっかだな……」

「なかなかの観察力……」

「そうでなきゃ理科の教師なんてやってられないよ」

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