5章 『桜の園』チェーホフ著 を読んで  桜樹真理

第14話 『桜の園』チェーホフ著 を読んで  桜木真理

 『桜の園』はロシアの戯曲家チェーホフの晩年の作品。

 自分の名前に桜という字が入っているだけに余計に思い入れがある作品だ。

太宰治の『斜陽』のモチーフになっていることでも有名で登場人物の少ない『斜陽』に比べると登場人物が多くて話も複雑だけどその分奥も深くて短い話ながらとても読みごたえがある。

著者チェーホフはこの悲しい物語を喜劇と題しています。

かつて裕福だった家族も時代の変化と共に次第に貧しくなり、立派な桜の園を手放さなくてはならない。

にもかかわらず相変わらず浪費の癖が抜けない○○

働くことの必要性を語りながらもいい歳していまだに学生を続けている○○にその恋人のアーニャ。

そして、時代の流れを理解しつつ、貧しい出身ながら商人として身を成しているにもかかわらず恋愛に臆病すぎるロパーヒン。

皆、わかっているようでわかっていないのはまさに喜劇としか思えない。


ロシア文学は登場人物の本来の名前のほかにいくつものニックネームがあってそれを理解するだけでもなかなか骨が折れるということを授業で少しつぶやいたら後で一人の生徒が私のところに来てこう言った。


「でも先生、日本のライトノベルや漫画なんかでもキャラクターの個性を表す手法として一人の人物を指す呼び名がキャラクターごとに違うというのは割と普通ですよ」


確かに言われてみればその通りだ。ロシア文学はどこかむつかしいという勝手なイメージで思い込んでいただけなのかもしれない。

なかなかに優秀な生徒です。今から話すお話も、考えてみればその生徒によってうまく操られてしまっていたのだなと感心します。はじめてその子を受け持った時は一見してギャル風のメイクと髪で少し怖い生徒なのではないかと警戒してしまいましたが、その実とてもまじめな生徒で、文学に理解のあるとても良い子でした。



「この文集の間に挟まっていたんです」

 その優秀な生徒、笹葉更紗さんが私のところへ届けてくれたのは、かつて私のこの学校の生徒だったころ。あの旧校舎で行っていたサークル活動の時に使っていた『吾輩は夏目せんせい』キーホルダーのついた鍵でした。

 その鍵に触れたとたん。私の気持ちはかつての青春時代にタイムリープしたかのようでした。

 そしてそのなくしたと思われていた鍵が挟まっていたという文集はどうやら過去の文芸部によって書かれた作品集でした。

 それら作品の作者はおそらく全部同じ人物で違いないでしょう。

 あの時の文芸部には部員はたった一人、当時一年生だった私の一つ年上の二年生だった彼をのぞいて誰もいなかったからです。


当時私は文芸部にいたわけでもなくこのような文集が存在していたこと自体今まで知りませんでした。

職員室に戻った私はその文集を手に取りそれを読みます。

間違いなくこれはあの人の手によって書かれていたものに違いありません。

特に最後の作品『時間の錬金術』。あの日のことを忘れたことなんて一日もありません。

もちろんこの作品は当然フィクションでいくつかの誇張もあるでしょうし、まさか本当にそんな媚薬なんてものを作ろうとしていただなんてことは無いのでしょうが、これがあの日の出来事をモチーフに描いたものだということは間違いないでしょう。


――今でも、昨日のことのように覚えています。


あれは今から九年前の八月七日のことです。夏休みのあの日、当時生徒会に所属していた私は登校して生徒会の雑務をこなしていました。仕事の合間を縫って旧校舎の文芸部を訪ねていました。彼はその日は登校していません。無理もない話です。文芸部は夏休みに特に練習する必要もなければそもそも部員も一人しかいません。ならばわざわざ学校に来る必要なんて一切なく、何か活動するにも家にいればいいだけのことです。

そんなことをわかっていながらも、もしやと思い足を運ぶのは特別珍しい話ではないはずです。特に思春期の乙女であるならば。

わかりきっていたことに一つため息をついて旧校舎を離れようとしたとき、その眺めの良い丘の上からこの学園に向かう坂道を見下ろしました。

こんなに景色をきれいだと思ったことはありません。

何しろわたしはその日、初めて眼鏡をはずしてコンタクトレンズを入れてきたからです。

夏休みの間に、思い切ってイメージを変えてみようと思い切って購入したのです。

眼鏡とは違って程よくフィットしたそのレンズから眺める景色はいつも以上に美しく見えました。そして、そこにまさかの光景を発見したのです。

なんと、夏休みで学校に来るはずのない彼が自転車を一生懸命こぎながらあの坂道を上ってきているのです。

高鳴る鼓動を抑え、しばらく文芸部の部室で彼の到着を待っていたのですがいつまでたっても現れる様子もなく、あきらめて生徒会室へ戻ろうとしたときに彼の姿を理科実験室で見つけました。いいえ、正直に言いますね。彼がどこかほかの教室にいるのではないかと思って探して回っていたのです。

私はしばらく立ち話をしたのですが何を話したのかはあまり覚えていません。あまりに舞い上がって緊張していたからでしょう。

でも、あれだけは忘れません。わたしが思い切ってコンタクトレンズに変えたことを話した時、彼は「あまり似合っていないから元に戻したほうがいい」といいました。

それ以来、また結局眼鏡の生活に戻したのです。


秋になって生徒会の任期を終えた私は思い切って文芸部に入部しようかと思いましたが、部員の足りていない文芸部はそのまま廃部となり、あの部室に仕事とかこつけて訪れることも、ましてや同じ部員としてともに活動することは出なくなってしまったと思っていました。


ある日、彼は私のところへ来て言いました。

「新しい同好会を開こうと思っているんだ」

「同好会?」

「ああ、俺はもう来年は受験生だしいつまでも部活動なんてしているわけにもいかないからな。それで考えたんだが……レンキンサークルというのを立ち上げようと思っている」

「レンキンサークル?」

「ああ、そうだ。恋愛禁止の恋禁だ。周りを見てみろ。どいつもこいつも愛だの恋だの浮ついたことばかり言っているやつが多い。学生の本分は勉強だというのにけしからんと思わないか?」

 それは、まるで自分のことを責められているようにも感じた。でも、同意を求められた私は「そう思う」と答え、周りの知人を何人か誘って『恋禁同好会』を立ち上げたのです。

 文芸部とは違い、メンバーを集めることにそれほど苦労はなかった。当時新任の教師だった原田先生が応援してくれていたので顧問を立てることもでき、間もなく部活動として申請しようと提案したのだけれど彼は「ここはね、何かをやろうなんて言う活動的な組織なんかではなく、何かをやらないという宣言のもとにそれをやらずに済ませる言い訳を作るための場所だからね」と言って、サークルという形にとどまった。

 原田先生はそのことを残念に思いはした様子だけれど、「ぜひ協力したい」と言って支援してくれた。

 廃部となった文芸部の部室を貸し与えられ、『自習部屋』として使ってよいことになった。

 原田先生の呼びかけで多くの生徒が集められ、サークルは大きくなり旧校舎のすべてを使っていいことになった。

 しかし、これは本心ではあまり喜ばしいことではなかった。

 わたしが彼と同好会を立ち上げることに賛同したのは、そうすれば彼と一緒にいる口実ができるからです。

 しかし、ここは恋愛をしないと誓いを立てた人たちの集う場所。その内心は決して公表してはならなかった。

 メンバーも多く集まり、その代表だった私と彼は雑務に追われあまり話をする機会さえなかった。


 サークルのメンバーには黄色い腕章が配られた。それをしていることは恋人を作るつもりはないという意思表示でもあり、それは当時の生徒たちの間で一種の流行にもなった。

 同好会は部活動とは違うので部活動をしている人も参加する人が多かった。

いつしか校内には黄色い腕章をつけた生徒が目立つようになってきた。

 はじめのうちはメンバーの多くが本当に勉学に励みたいと思っているものも多かったし、言ってはいけないことかもしれないけれど、異性からあまり相手にされないような生徒がそこに参加することで恋人がいないことへの言い訳ができた。

 しばらくすると異質なメンバーも増えるようになってきた。明らかに、恋人のいる人たちが黄色い腕章をつけているのだ。

 彼ら、彼女らは相手が浮気などしないようにと、互いに黄色い腕章を送りあう。そうすることでほかの生徒たちから言い寄られないようになる。


 さらに質の悪い者もいる。

 ある日校内でも有名な人気の男子生徒が同好会に参加したいと言ってきたのです。

 その人の素行の悪さは有名で常に複数の女子生徒と交際をしていたようです。悪いうわさも絶えないけれど、そんな人に言い寄ってくる女子生徒も絶えません。いったいそんな人のどこがいいのか理解できません。

 はじめは心を入れ替えてくれたのかと安心して入会を認めたのですが、本心はそことは別にあったようです。

 この旧校舎は学園敷地内のはずれにあって、とても静かな場所です。しかも、メンバーの増えたサークルのために四つある教室のすべてが自習室として利用できるようになっており、その使用権利があるのは同好会のメンバーだけです。したがってこの旧校舎に訪れる人は同好会のメンバーだけということになります。

 しかし、会のメンバーはあまりこの場所を使うものは少なく常に開いている自習部屋がある状態でした。彼はそこに目を付け、自習室を逢瀬の場所として利用していたのです。

 噂によると、時折そこで淫らな行為なども行われていたことがあるとかないとか……


 私たちの立ち上げたサークルは完全に失敗に終わってしまったのです。

 恋愛を禁止する者たちの場所どころか、恋愛をたしなむ者たちによってその場所を奪われ、その場所の確保にいそしむために日々雑務に追われていたのです。

 そもそもそれは私の罪に対する罰なのかもしれません。

 恋愛をしないための場所を作りたいと言い出した彼に対し、わたしはその場所で彼との恋愛を期待していたのです。

 

 彼はわたしより一年先に卒業し、代表は私一人で引き継ぐことになりました。その時に彼から引き継いだ荷物の中に、この旧校舎の三階。あの時計塔の管理部屋の鍵が入っているものだと思い込んでいました。しかしその鍵はどこにもなく、鍵と、そこに着けていたキーホルダーもなくなってしまいました。

 思い入れのある大切なキーホルダーでした。それは、『吾輩は夏目せんせい』という鼻ひげを生やして万年筆を握った猫のマスコットキャラクターで、一部の文学乙女の間ではやっていました。彼から、唯一もらったプレゼントで、それがうれしくて二人の大切なこの場所を守る鍵の守護神としてつけていたものです。

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