教会から


「みんなのこと、もっとしりたいなぁ…」


 思考が、時間が、空気の流れが、呼吸が、全てが止まった。


 あ、れ? 僕今なんて言った?


 ネモネの両手から、手札が落ちる。眼球がこぼれ落ちるほどにまぶたは見開かれた。真ピンクの瞳は、いつものような元気で優しい雰囲気はない。


 三人のうちの誰かが固唾を飲んだ。ニゲラの口が微かに隙間を作る。そこから息を吸った。薄い舌でチアは唇を舐める。ネモネが自分の真正面にいるノラに向けて疑い深い目線を向けた。


「なあ、どういうことだよ。『もっと知りたい』って」


 いつもよりずっとずっと低い声がチアから聞こえた。暗くて黒い目が、ノラを刺す。瞼がないから、まばたくことなくこちらを見詰め続ける。


「あ、や、えっと、ただ、僕は、みんなともっと、な、なかよく、な、りたいなって」


「…なれないかもよ」


 静かなニゲラの声が聞こえた。伏された目はどこ見ているか分からない。


「知らない方が、幸せかもよ」


 ふらっと顔を上げて、ニゲラはどこかを苦しそうに見る。状況に似合わず、ノラは夕暮れになりかけている光が降り注いでいるニゲラをうつくしいと感じた。


「…ねえ、知られたくないこともあるんだよ? わかってる? ねえ、ねえ」


 いつもより数段低い声で問い詰めてくるネモネ、こちらをまるで獲物のように、それでいて邪魔者のように見詰めてくるチア、何も言わないニゲラ。


 首元に這った感覚が、皮膚に浸透し、内臓を、骨を、侵食していく。爪先まで満ちたこの感覚を、浅い呼吸の理由を、彼らの自分に向ける感情を、少年はよく知っている。


「アタシたちの大切な居場所を、壊そうとしているの? 答えてよ」

「…こわすきなんて、ないよ」

「じゃあ!」


 ネモネは腹の底から叫ぶ。空気が揺れたような錯覚がした。


「なんでそんなことを望むの⁉︎ 知りすぎたらダメなのに! 傷つくんだよ‼︎」

「…うん」

「傷つくことを望んでいるの⁉︎」

「のぞんでないよ」


「なら! 知ろうとしないでよ!! 嫌なこともあるんだよ! わかってよ! この、このっ」


 アネモネの目が、こちらを睨む。


カブスリャータ!侵略者め!


 ずくりとノラの心臓が痛んだ。チアが息を呑んだ。ニゲラが口を開きかける。


「あっちいけ‼︎」


 そう言われて、ノラはうつむいた。カブスリャータ。自分に向けられた言葉に、ノラは傷つくでも、悲しむでもなく、戸惑った。


「…うん、そうだよね」


 溜まりかけている涙に気づかないふりをしながら、少年は口元だけ笑わせて見せた。彼の表情を見て、ニゲラの顔がさっと青ざめ表情が消える。


「ごめんね。僕が悪かったよ…もう帰るね」


 ブルーシートから立ち上がって、少年は歩き始める。ずっとそばに置いてあった、黒いリュックを背負う。笑みは絶えない。


 白くて冷たくて生きていない石の地面の上を渡っていく。後ろの方でニゲラが立とうとしている気がしたけど、どうせただの勘違いだ。期待することは間違いだ。


 笑みは絶えない。


 森に変化する一歩手前で、向こう側からデンファレのやってくる姿が見えた。しかしそれで歩みを止めるなんて、少年にはできないことだった。


 笑みは絶えない。


 いつもと変わらない歩き方で、雰囲気で、少年は出ていく。デンファレの特性は知っている。止まるまでが遅いのだ、あの狼は。


 光を放つような表情でこちらに向かっているデンファレが止まる気配は微塵もない。少年は片手を上げて小さく振った。


「よ! 元気? もう帰るのか?」


 何も知らずにこちらに向かって走るデンファレに少年は片手を下げた。


「うん。ごめんね」


 笑みは絶えない。


 教会に直行していくデンファレをひらりと交わしながら、少年は獣道に入っていった。歩きづらいこの上ない道。あの時みたいに走るなんてことはしない。


 いつもみたいに歩けば、池に着く。底の砂利や小石が見える。チラリと見るだけで、特に興味は注がれない。青くさい匂いが空気を満たして、肺を圧迫する。苦しいなんて思わない。


 ふらふら風が通っていく木々の間を、少年は背筋を伸ばして歩いていく。背中にかかるリュックの感触だけが懐かしくて優しくて確かなものだった。


日が少しだけ沈んだことに気がつくと、少年は歩みを進める。できる限りここに長くいたくないかのような行動だ。


 根を越え土をこえを繰り返す。躓きそうになった。ぼーっと何も考えることなく歩いていくと、茂みから音がした。なんとなしにそっちを向いても、何も見えない。また正面に向き直る。


「なんかあったろ」


 前に七歩くらいの距離から声がしたと思ったら、紫色のダークエルフが立っていた。


「うん」


 短く答える人間。諦めたような声色だ。ダークエルフが歩み寄る。


「バレた?」

「そんなかんじ」


 息を吐くダークエルフ。人間はびくりともしない。


「ここで『いい子』はしなくていいんだぞ」


 自分の前髪をぐしゃりと掴みながら、ダークエルフは呟くように言う。細められた目は苦しそうにしていた。彼の二つの紫に目の前にいる今の人間はどう映るのだろうか。


「どういうこと?」


 顔を上げることなく目線だけ動かしてダークエルフを見る。


「そのまんま」


 難しく考えんなよー、と言うと、彼は人間の頭をわしゃわしゃ撫でてから通り去っていく。少年は振り返らなかった。そのまま前へ進んでいく。後ろの方から地面の草が潰れる音がした。


 少年の笑みは絶えていた。


 膝から崩れおちる。


 地面が水滴を吸い込んだ。

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