秘密基地へ

 夏らしいカラッとした暑さが空間を支配している。


 どっかの別の国では湿気で暑さが辛いらしいけれど、カメイカの夏に湿気という概念はない。

 ただただ、かの恒星の熱が地を照らすだけ。日に焼けないように傘をさす女性や、帽子を被った無邪気な幼年のリジンが、体を焦がすような季節であることを体現している。


 行き交う知らない誰かたちの間を縫って進む。


 もう二十回以上行っているから、完璧に足は道順を覚えている。自分が風になったようで、少年の心は舞い躍った。小説に出てきそうな秘密基地で、普段は誰として生活しているのかさえ知らない同年代と遊ぶ。

 自分が経験することのない夢物語だと思っていたものが、すぐそばにある。それがどれくらい嬉しいか、少年には言葉が思いつかない。


 息を吐いて、効率よく走りながら少年は思う。


 最初はもう逃げたいからという単純な理由で、てきとうに思いつく限り、動きたい限りに走っていたあの日が、なんだか遠く感じる。あの時は、あの事件に思考が振り回されていたな。ちょっと寂しいような気がする。懐かしい、なのかな。


 足を前に。逆の手を振る。坂を登っていって、強く地面を蹴って。勝手に口は笑っていく。どんな感情が彼の心で駆けているのだろうか。


 さあさあもっと、もっと速く、ビルの合間を吹く風を追いかけて、飛ばされていってしまう木の葉の隣に並んで。足を動かせ、前へ前へ。


 背中に背負ったリュックの重さなんてもう頭にない。空気の流れに背中を押されて楽しくなる。笑い声をあげそうになる。


 楽しくて楽しくて仕方がなくて、森が見えてきたらもっと笑いそうになる。まるで狂ったようだ。けれどもその心は純粋無垢で、この世界を全身で楽しんでいる。


 森の軽やかで澄んだ空気に身を投じて、少し乾いた土と靴裏が再会する。むき出しの木の根が土をガッチリ掴んでいるのを飛び越えた。汗がどんどん蒸発していった。風が背中を押す感触がする。地面を蹴り上げて進んでいく。


 いつもみたいに、ちょっと曲がって直線を走ってちょっと大きな木に挨拶して駆けていく。しっかりと目で正面を捉え、あの池を目指す。


 種類がわからない鳥が近くの枝から飛び立った。葉緑体で真緑に染まった葉っぱが木漏れ日を形作って、風で常に変形する。その自然が生み出すうつくしい偶然が一瞬で消え去って別のものに塗り替えられてしまうことに気づいて、少年はふとまたあの寂しいような感情に襲われた。


 心の中で頭を振って、目的を思い出す。「いつも」が存在しない自然をかなしく想うのはまた別の時に放りさった。


 目に光がうつり込む。空に浮かぶ球から直接降ってくるあの光ではない。それが一度別のものに刺さって反射された時の光。


 あの日の少年にとっては希望の灯火だったもの。何故だか途端にまたすがりたくなって、少年の足は一瞬もつれた。けれどもすぐに調子を取り戻して、疲れているのにさっきよりも速く移動を再開する。


 番人のように立ちはだかる二本の木の間を通り抜けて、穏やかで優しい池と微笑みあった。透明な水の底には、なめらかな小石の数々が静かに沈んでいる。その上に影を落としながら悠々自適に魚が尾ひれを動かして泳いでいる。


 街よりも呼吸のしやすい雰囲気に包まれて、少年は張り詰めていた息を吐き出した。


 しゃがみこんでゆうらゆうら揺蕩う水面を眺める。なんとなく目線を上げてみると、向こう側の木の枝にリスが登っていくのが見えた。少年が立ち上がる。


 茂みと池に挟まれた道なき道を彼はのんびり歩く。足音が地面に吸い込まれていった。色素の薄く淡い瞳が目的地をしっかり捉えている。綺麗な黒い髪の毛がぱらぱらと吹かれた。木々も、さああさああと歌い始めた。


 一定のリズムで足を進めていると、あの獣道の始まる場所に到着した。道はほとんどまっすぐで、一直線になっているから教会が見える。どうして秘密基地になっているのかが不思議なくらい、簡単にたどりつけてしまう。


 道を知っているからかもしれないな。そう思いながら、少年はでこぼこしている道を早足で通っていく。土の塊が蹴られて散った。教会の入り口から、ぴょんぴょん跳ねているピンク色の姿が見える。楽しそうだな、と少年は笑った。


 獣道を抜け切って、すぐに教会の入り口を飛び越える。初めて入った時は、なんだかいけないことをしているようでものすごく躊躇していたけれど、今ではそんな罪悪感のような感情は全く抱かない。


「あ! ノラ! やっほー☆」


 嬉しいことがあったのか、いつもよりもテンションの高いネモネがノラに駆け寄る。いつものようにニゲラがその後についてくる。


「あれ、今日のニゲラの上着、新しいやつ?」

「うん。よく、気づいたね」


 いつもより淡い青の上着の袖をいじりながら、ニゲラは口角をあげて答える。そんな彼の顔に影がかかった。何事かとノラたちが上を向くと、大きな赤橙の影が燃えるような翼を広げながら降りてきていた。


「よう」


 空とは対照的な印象を持つフォセカが翼をたたみながら三人に短い挨拶をした。細い鳥の足で五歩ほど彼らに近づく。


「やっほーフォセカ!」


 自分からも歩み寄って、ネモネは彼女に抱きつく。細い彼女の体躯がぐらりと動いた。彼女たちを見ていた男子二人が焦るが、フォセカがそのくらいで倒れることはなく、しっかり持ち堪えた。


「ネモネは今日も元気だな」

「えへへ、そうでしょ?」


 抱きつきながら会話をする二人をほっといて、ニゲラとノラはいつもの定位置についた。壇上に行くための階段。何故だか一番安心する場所だ。冷たい石と、暖かい光の対比が気持ちを安らげさせるんだろうな。ノラは階段の石を撫でた。


「ねぇ、ノラ」


 ニゲラに呼ばれて、ノラは彼の方に顔を向ける。そこには初めて会った時に似たニゲラがいた。


 彼のことも、ネモネのことも、フォセカも、みんなのことをもっと知りたい。けれど、あの日の会話の内容が頭の中で反芻する。


『大丈夫…簡単なルール。…ここ以外で、僕たちをみても…絶対に声をかけないこと』

『要するに、アタシたちは傷を抉ったり、過去を見ようとしたりはしないよ☆ ってコト!』


 その時のニゲラは…悔しそうな、諦めきれていない気持ちを持っていた覚えがある。あの時みたいな彼が口を開いた。


「…いや、なんでもない。ごめんね」


 目を合わせていた彼が藍色の円を逸らした。


 気になってしょうがないが、言いたくないのであれば仕方がない。ノラも視線を彼の方から外した。なんだか気まずくて、何かを話さないと、という責任感が心の中で膨らんだ。


 しかし言葉は出てこない。

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