第一章 アプリコットとダンギクの香り

家と学校

 最後の授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。


 夏の教室の中の授業は、エアコンがあっても異常に気だるい。そんな時間を終わらせる音が耳の中に飛び込んできた瞬間、一気に生徒たちみんなが一斉に息を吐いた。張り詰めていた空気が緩む。


「あー終わったぁ」

「今日なんか時間動くの遅くなかった?」

「いやマジそれ」


 帰りの準備もせず駄弁り出すクラスメイトに相槌を打ちながら、そそくさと少年はタブレットをケースに入れ、それをバッグに放り込む。


「ってか今日オレ塾あるわ」

「うわ、だるそ」

「え、なんの教科?」

「数学と生物」

「どっちも面倒なやつ」

「生物はほぼ暗記ゲー」

「どちらにせよ面倒」


 中身のほとんどない会話を右から左へと流して、準備を終えた少年は椅子をひいて立ち上がった。右手にタブレットの入っているカバンを持って、彼は歩き始める。


「じゃあね、また来週」


 短く別れの言葉を投げかけると、ぱっぱと彼は教室から出て行った。他のクラスメイトも、準備が終わった者順に、勉学の箱から脱出を成功させていく。最終的に残るのは、帰りたくない奴と寝過ごしている奴くらいだろう。少年にとっては遠くてわからない世界だ。


 ほとんど何も考えずに少年は、学校の出口をくぐり抜け、グラウンドを横切り、学校の敷地から出て行った。背中のずっと後ろにある空間からサッカーチームの練習の声が聞こえてくる。熱心だなぁと上の空で考えながら、少年は街に入っていく。


 色とりどりの壁を持っている家屋の連なっていく道を歩いていく。さすがは芸術の国とも称されるカメイカの街並みだ。

 地面には五歳くらいの子供が描いたような、チョークの落書きが描かれている。それを踏まないように避けた。そのあと、二十歩進むと下り坂が始まった。早歩きとも走っているとも言えない微妙な感覚で坂を歩いていく。

 下り坂は短いから、なかなかに傾斜が急で、今にも滑り落ちてしまいそうで怖いけれど、それがまたなんだか面白くて、気がついたら坂が終わっているというのが、少年の当たり前。半年ほど前に引っ越しをしたから、少年にとっては比較的新しい遊びだ。


 下り坂が終わると、またしばらく真っ直ぐな道が続く。

 左を見れば、自己主張の激しい家と花が咲いている花壇があって、右を見ると、車やバスが車道を走っている。何かを恐れているように、絶え間なく周囲を見渡しながら、少年は歩いていく。段々と左右を見る回数が減っていき、地面を凝視する。

 ぼうっと、思考を回すことなく、たまにすれ違う人や魔族に視線をくばって、ただ淡々と歩いていく。枝を好きなようにのばす広葉樹を横目で見流す。


 左角を曲がると、静まり返った住宅街にはいった。騒々しい車の音が消え去る。聞こえてくるのは、小さな子どもの遊んでいる声と、その保護者の話し声くらいだ。


 少年の足が入り組んだ迷路を勝手に進んでいく。それほど長い間歩いてはいないが、優秀な彼の足は日を追うごとに道順を覚えていった。なんとも便利だ。


 曲がってくだって登って。そうやって歩いていけば、少年は自分の家に着いた。

 青い壁に青い屋根。少年の父が好きな色だ。自由人な父のことだから、見つけた瞬間飛び上がって、母に相談して引っ越しを決めたんだろう。初めて家を見た時の少年の感想はそんなだった。今ではほとんど何も思わない。強いていうのであれば、父らしいな、と。


 白いドアの取っ手の鍵穴にカギを入れる。ぐるりと回して、開いた音がしたら引き抜く。あとはもう取っ手そのものに手をかけてドアを引いた。


「ただいま〜」


 元気な声で帰ってきたことを伝えると、部屋に行って学校のバッグを棚の横に掛ける。バッグからタブレットを取り出すと充電ケーブルに繋げた。聞き慣れた音がした。


「おかえり」


 アイスバーを片手に持ちながら、少年の部屋の入り口に立っているのは少年の妹だ。


「ただいま、リオ」


 背後に立っている自分によく似た妹に少年は返事をする。振り向いてリオを見てみれば暑そうにノースリーブの襟あたりをパタパタさせていた。


「今日も出かけるんだ?」 

「あー、うん」


 なんだか気まずくて、少年は目を逸らした。リオは自分の兄にジト〜とした視線を送る。


「なんなの? 恋人でもできたの?」


 ズカズカと兄の部屋に入り、ふかふかのベッドに座る。


「僕に恋人なんてできないよ」


 少年は眉をひそめた。手ごろなバッグにペンケースやらノートやら、読むのかさえわからない本やらを詰め込んでいく。


「いや絶対できるでしょ。自分のスペックわかってる?」


 そう言いながらアイスバーで少年をさす。きかれた彼はうーんと唸ってから「別に普通だと思うけど?」と返す。リオがため息をついた。どうしてだろうと彼は首を傾げる。


「いい? クラスの男子の大半、というか九割くらいって本当にバカでアホでつまらないって女子は思ってるの。そんな中、真面目で優しくて賢い男子がいたらどうなると思う?」


「…あー、夢中になる」


「正解」

「でも僕はそんな真面目じゃないし、そこまで優しくもないし、成績も普通だよ?」

「相対的評価では上位になる」

「そんなこと言われたってなぁ」


 カバンの紐を肩にかけて立ち上がる。するとリオは真剣な顔をして、少年の手を掴んで言った。


「とりあえず、いろんな女子に一目置かれてるって思っときなよ」

「はいはい」


 色恋話が大好きな妹に呆れながらも、普段は知ることが難しい他人からの評価を少し知れて、少年はどこか安心したような、驚いたような感情に見舞われた。


 ドアの前に立つ。今日だけで三回目だ。取っ手をにぎる。


「それじゃ、行ってくる」

「いってら」


 雑だけれどもちゃんと返してくれるリオに心の中で感謝しながら、少年はもう一度、街に出ていった。

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