紫色のダークエルフ

 なんとなく入り口の方を見てみた。崩れかけたような真四角の穴から、緑色と茶色の織りなす原始の風景が目に入ってくる。


 突然、それを遮る紫色の影が現れた。


「あ…アジュガだ…」


 隣のニゲラが小声で呟く。


 フォセカよりも高い背に、肩にかかるくらいの髪の毛。遠目でもはっきりと喉仏が出ているのがわかる。肩幅も広く、威圧的な雰囲気を感じる。パーカーを着ていても、その恐ろしさは拭えない。ネモネのように尖った耳。何より肌が暗く、くすんでいる。


 彼はしばらくフォセカとネモネと話していたが、こちらに気づいて、近寄ってくる。思わずノラは身構えた。


「お前がノラ?」


 形のいい唇から紡ぎ出された言葉はひどく重く、耳に残る。鋭い眼光に睨まれて、首元にナイフが這うような生命の危機を感じた。背筋がゾッとした。異端な美しさは恐怖を強く仰ぐとどこかで聞いた言葉を思い出す。


「俺アジュガ。ダークエルフ。よろしく」

「あ、うん。よろしく」


 予想とは反した、間の抜けた声が出た。


「おう。あと怯えてんの伝わってんぞ。別にとって食ったりしない」


 アジュガはしゃがみこんで、座っている少年に目線を合わせた。底なしの紫の瞳がこちらを見透かす。心の底から掬い上げられてるようで気持ち悪い。


「あんまり怖がらせるなよ〜」


 フォセカがアジュガに釘を刺す。わかっている、とでも言うように彼は振り向いた。やっと視線が外されて、ノラは一息つく。そんな彼にネモネが心配そうに眉を下げながら言う。


「ほんとに、ほんっとに、アジュガはそんなに怖くないからね! 大丈夫! 優しいから!」


 両腕をブンブン振り回しながら、彼女はアジュガの良さを頑張って伝えようとした。ニゲラがたくさん頷く。


「そんなに…?」


 眉をハの字に曲げたアジュガの肩にフォセカが手を乗せる。ニゲラも苦笑した。


(緊張して損したな)


 両膝に肘を乗せて、顎を両手に託した。特に見るものもない。何も言うことがなくて、フォセカの話していることがどこか別の言語のように聞こえてきた。どうしてか途端に息苦しくなった。いや、気分なだけ。大丈夫。苦しくない。平気だ。このくらい普通。そう言い聞かせる。


 視線をかすかに下げ、わずかに雰囲気が沈んだ少年に、くすんだ紫のダークエルフが無言で目をやるが、そのことには誰も気づかなかった。



 もしかして。



「…そういえば、今日家族と夕食、外で食べる予定だったや」

「そうなの? じゃあ、今日はこれで」

「うん。ばいばい」


 ノラは逃げるように話した。ニゲラは少し悲しそうな、声で喋っていた。みんな口々に別れを言葉にしてくれた。

 走って出口をくぐり抜ける。それでも心はまだ教会にある感触がした。心の中では絶えずアジュガの紫色の両眼がこちらを見続け、耳には出て行くときに言われた「またな」と言う声がこびりつき、罪悪感がとぐろを巻いて脳内で偉そうに居座っていた。


 いつもは綺麗に見える池も、その周りを囲む自然の数々も、涼しい空気も、鳥の声もうさぎの走る音も全部全部、大好きで楽しくて大切なものなのに、何も目に入らなかった。気にすることができなかった。

 なぜだかあそこが急に息をするのが許されない空間のように感じれた。何も問うことができない気がした。

 歓迎してくれた彼らのルールを破りたくなかった。だから、言葉に詰まった。そう思うと逃げ出す自分が最高に惨めであほらしくて自虐的な笑いが込み上げてくる。口の端が上がりかけたところでその動きが停止した。


 森の出口に、い、る。


 思考がどもった。目がかっぴらく。急速に喉が渇いていく気がした。三秒経ってから走るのをやめたことを自覚した。暑さが肌から伝わらなくなって、骨の髄から冷たさがにじみ出し始めた。じわじわと進む硬化現象に素直に従う体は少しも動かない。


「さっきぶりだな。ノラ」


 出口の曲がった木のそばに立っているのは、さっきまでノラの心を監視していた、紫色の目を持つダークエルフ。


「なんでいるんだ、みたいな顔してんね」


 ニヤっと笑う。ノラが一歩後ずさった。呼吸が浅く、早くなる。何一つ根拠のない拒否反応に、ノラの思考は混乱した。


「だぁから大丈夫だって。別にお前をどうこうしようとかいじめてやろうとかそういうことは微塵も思ってないよ」


 アジュガがこちらに三歩近づいた。あまりの身長差に、ノラは上目遣いにならざるを得ない。きゅっと引き締めた唇が震えてしまう。その様子を見て、彼は頭を掻いた。地面を見ながら短く唸ると、アジュガはゆっくりと片膝をついた。一気に頭の位置が逆転する。


「これでどうだ?」


 迷子の子供をあやすような顔をしているのに、今やっと気づけた。冷たいアメジストは優しいラベンダーの見間違い。ノラはそれに気づいた瞬間、肩の力が抜けた。するとアジュガは小さく笑って、口を開いた。


「話していいか?」


 こくりと頷く。パチリとアジュガのまつ毛が閉じて開いた。


「ノラ、お前さ、あの『約束』に対して疑問をもっただろ?」

「!…どう、して」


 渇いた喉に声が突っかかる。その不快感に思わず顔を歪める。全てを見透かされてしまって情けなくて心が叫び出しそうになる。涙腺が決壊してしまいそうになる。体を蝕む冷気が一気に脳味噌まで迫った。頭が白一色に塗りつぶされる。


「しっかりしろ」


 両頬を優しく掴まれて、二つの、ラベンダーの閉じ込められた氷に気づかされる。さっきは重くのしかかっていたように思えた声が、心地いい音に聞こえた。


「俺はお前が『約束』に疑問を抱いたって正直どうでもいい。ただ、一番注意して欲しいのはそれがバレちまうことだ。特に」


 そこで一度アジュガは言葉を止める。舌がチロリと現れて唇を舐める。


「特にネモネにはバレるのを避けてほしい。ネモネの『約束』に対する執着はある意味、異常だ」


 険しい表情を隠さない彼に、ノラは動揺した。捲し立てかけていたアジュガは深呼吸をする。見えない何かに怯えているような、なんだか小さく見える彼の体を観察する。よく見ると彼のよく尖った両耳にはピアスがある。それがなんだ。


「言いたかったことはこれだけだ。引き留めてごめんな」


 いつの間にか肩に置かれていた温度が離れていく。

 悲しそうに笑う口元が目に入ってきた。恐ろしかった存在に急に親近感が湧いた。なんと身勝手な感情の持ち主なのだろう。


 後ろの方から夕方がけた光が注いできて、景色が橙色に支配され始める。頭が割れてしまいそうなその刺激に塗れた光に、目の色素の薄い少年は耐えられず目を伏せた。


 視界の外でアジュガが離れていく気配がした。少年は腕を伸ばしかけたけれど、いつものようにそれをやめた。昔は胸あたりのどこかがきゅぅと締め付けられたその行為はもう何も感じない。別にすり減ったわけでじゃない。彼自身の選択だ。


「それじゃ、いつか」


 自分の右側を通って去っていった彼を目で追って、首を回す。さっきみたいな覇気は消え去って、見えたのは気だるそうなパーカーと暗い紫の髪くらいだった。


 自分も帰んないとな、そんな強迫観念に取り憑かれて、少年は前を向いた。遠くに見えるビル群のてっぺんに光を放つカサドゥが沈んでいく。闇が刻一刻と侵食していく。一瞬しか味わえない光景をまなこに焼き付ける気も起きない。


 少年は切り離された現実と、行きたくもない空間の境目を簡単に飛び越えて、くだらないほどつまらない居住区に飲み込まれていった。


 木々の間に佇んでいた影も、同じように、しかし少年とは別方向に去っていった。

 

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