五之章

     1


 耕平は、吉備野博士と連絡を取るための、ポールは春先の暖かくなってから、建てることに決めていた。冬の間は雪もあって、鳥やウサギなどの小動物を狩って、食料に当てなくてはならないという、重要な仕事が待ち構えていたからだ。

耕平とイサクも毎日罠を掛けたり、あちこちに狩りに出向いては、家族のために得ることで、躍起になって狩に勤しんでいた。

 その合い間を縫うようにして、吉備野への連絡ポールに文字を書く、ペンキのような塗料を作るための、研究とその調整に試行錯誤をしていた。

『うーむ…。どうしてもうまく行かないな…。何が悪いのか、自分でもよく分からない…。どうすればペンキのような、ドロッとした感じが出せるんだろう…』

 寝ても覚めても、そのことが頭から離れない耕平は、不眠に悩む夜が幾晩か続いていた。そんなことが続いたある晩、不眠の後の明け方の浅い、うつうつとした眠りの中で耕平は、何やらすっきりとしない夢を見ていた。

 その夢の中で耕平は、小さな沼のようなところに立っていた。見ると沼の水面には、黒光りする液体が湛えられていた。その水面には、あちこちにボコッボコッという、泡が噴き出していて、時折りその泡が鈍い音を立てて、弾け散るのが耕平にも聞こえてきた。

 ただ泡が弾ける時に、発散する悪臭が鼻を衝いて、我慢が出来ないほどの匂いだった。その匂いを嗅いだ耕平は思った。

『おや…、この匂い。どこかで嗅いだことがあるぞ…』

 それでも、その匂いが何の匂いなのか、耕平にも即座には思い出せなかった。

『いや、待てよ…。この匂いどこかで、一度嗅いだことがあるぞ…。うーん…、思い出せない…。どこで嗅いだんだっけ、何の匂いだったのか…。思い出せない…』

 耕平は傍に落ちていた棒っ切れを拾うと、黒い水面に付き立てるように入れると、棒に絡め取るようにしてすくい上げた。木の枝に付いた黒い液体を、鼻先まで持っていって直接匂いを嗅いだ途端に、それが何の匂いなのか耕平は思い出していた。

「これだ…。これがコールタールだ。オレはついに見つけたぞ。これを汲んで持って帰る、土器を取りに行かなくては…」

 と、そこで熟睡とはほど遠い、耕平は浅い眠りから醒めた。

『何だ…。夢だったのか…。いや、待てよ…。コールタールは人工物だが、稀に天然のものが、湧き出しているところがあるって、何かの本で読んだことがあるぞ。

 まして、ここは縄文時代だ。コールタールだって、ないとばかりは云いきれないぞ。

 但し、どこにあるのかさえ分からないのだから、探すにしてもに一仕事になりそうだ。

 ここはまたひとつ、イサクの手を借りるしかないかな…。

 よし、イサクのところに行って、相談を持ち掛けてみるか…。ドッコイショっと…』

 耕平は床から抜け出すと、妻のイナクが寝息を立てているのを、横目で見つめながら家を出た。外に出るとこの季節にしては、妙に寒さが感じられる朝だった。春とは言えども、まだまだ朝晩は寒暖差が感じられる、北国の春は花の咲く季節が、もう少し後になりそうだった。

 イサクの家は、イサクが邑に住むようになってから、耕平の指導の下でかつて山本が建てた、ログハウス風の小屋であった。

「おーい…。イサク、オレだ。起きてるかぁ…」

 耕平は周りに気を使って、出きるだけ小さな声で呼びかけた。

 すると、いきなり出入り口の戸が開いて、

「どうしただ…。コウヘイ兄イ、こだぬ朝早ぐがら何かあっのが…」

 と、耕平を見るなりイサクは、邑中に響き渡るような大きな声で言った。

「シ-…、静かにしろ。邑のみんなはまだ寝ているんだ。あんまりま大きな声を出すな…」

「ほだども、コウヘイ兄イ。こだぬ朝っぱらからどうしただ…」

「いや…、何となく眠れなくてな。仕方がないから、散歩がてらお前のところにでも、行って見ようと思って出てきたんだが、やはり少し早かったかな…」

「ほんで、コウヘイ兄イはおらに何が、用でもあったんだべが…」

 耕平はイサクに、コ-ルタールのことを聞うとしたが、縄文人のイサクにどうやって、コールタールのことを説明しようかと、悩んていたがいい策も思いつかないまま、とにかくでき得るだけの説明は、イサクに伝わるかどうか疑問だったが、耕平はい決して話し出した。

「なぁ、イサクよ。お前に訊いても分らないかも知れんが、オレの話を聞いてくれ…」

 耕平はどういう風に、話せばいいのか自分でも、模索しなが模索しながら、ゆっくりとした口調で話しだした。

「名前はコールタールと云うんだが…。いや、名前などどうでもいい…。

 もともとは人間の手で造られたものなんだが、極稀にだが天然に湧き出ているものが、あるということを昔聞いたことがあるんだ。

 形状はドロッとした液体で、色は真っ黒で強烈な臭いがするんだ…。イサク、お前はそんなものを、見たとか聞いたことはないか…」

「はあて…、おらはほだなものは、見だごども聞いしだごどもねえな…。

 ほしたら、ムナクにでも聞いてみっといいぞ。アイヅはずっと西のほうがら、来たって云ってだがら、おらだちの知らねえものだって、なんぼでも見てきたはずだがら、おらはこごがら出たごどがねえがらな。分かんねえごども一杯あっけど、アイヅは何でも知ってっつォ…」

 確かにイサクのいう通り、この邑の者はあまり邑から、出たこともなく見聞が狭いために、ムナクのように定住地を持たない、狩猟民族の末裔のように、西から東へと獲物を追って、旅から旅の生活を送ってはいる者は、目や耳から入ってくる情報量は、集落を作って生活を送ている者の比ではないのである。

「うーむ…。彼は口にこそ出さないが、この時代に関する情報量は確かに、オレなんかよりも数段は上だろうな…」 

 とにかく、このままではどう仕様もなく、耕平はイサクとともにムナクを探しった。

 ムナクの家に行っても、彼の姿は見えなかった。

 妻であるライラに聞いても、朝にコウスケお兄ィと狩りに出かけた。という、情報しか得ることが出きななかった。

「しょうがない…、アイツらの行きそうなところに,オレたちも行って見るしかないか…」

「よす、行ぐべ。あのふたりとなら、おらも二・三回行ったごどがあっから、大体の見当は付ぐぞ。多分あそごら辺りだべ…」

「おお…、そうか。オレも大体の想像は付く。よし、行って見るか…」

 こうして、耕平とイサクは、同じ方向を目指して歩き出した。

「あんれ、何だべ。コウヘイ兄イもこっちだが…」

「そういうお前こそ、どうしてオレと同じ方向に行くんだ…」

「そいづは、おらがこっつだと思ったがら、こっつに行くんだ。だとも、コウヘイ兄イはなして、おらと同じ方向さ行くんだ…」

 耕平もイサクも、どうやら行く先は一緒らしかった。こうして、ふたりしてああでもない、いこうでもないと言い合いながら、コウスケとムナクがいると思われる、場所を目指して歩いて行った。

 しばらく行くと耕平は、いつかコウスケと来たことのある、狩り場に辿り着いていた。

「おーい…、コウスケー、ムナクはいないか…」

 耕平はふたりのいそうな、方向に向かって呼びかけてみた。

 最初のうちは、木霊が帰って来るばかりだったが、何回か呼んでいるうちにどこからともなく、

「おーい、お父…。こっちだよー。おいらたちに何か用かい…」

 と、いう、コウスケの声が聞こえてきた。

「あ…、ほれ。あそごだ。コウヘイ兄イ…」

 イサクが指差すほうを見ると、コウスケとムナクが獲物を担いで、耕平たちのところに走ってくるところだった。

 耕平たちのところまで来ると、肩で息をしながら耕平に訊いた。

「どうしたんだい。お父…、こんなところまで来るなんて、おいらたちに用でもあったのかい…」

「いや、お前じゃなくて、ムナクのほうに少しばかり、訊きたいことがあったんだ…」

「何ですか…。コウヘイお父、おいらに訊きたいことと云うのは…」 

「うむ…。まあ、そんなに急ぐ話ではないんだ。邑に帰る道々にでも、ゆっくり話そうか…。やあ…、ふたりとも今日は大猟じゃないか…」

「よし、それじゃ、そろそろ帰りますか…。コウスケ兄イはイサクに、半分くらい持ってもらったらどうです…」

「ほだな…。コウスケのもムナクのも、みんなおらが持ってやっから、貸せ…」

 コウスケとムナクが、獲ってきた獲物をイサクは、まるでふたりの肩から、毟り取るようにして、奪い取ると片手で軽々と持ち上げ、自分の肩にヒョイッと担ぎ上げた。

「いやぁ…、イサクのバカ力は、いつ見ても凄いと思うよ。おいらもあちこち旅してきたけど、イサクのような人とは,どこに行っても出逢わなかったな…」

 ムナクはイサクの力自慢を素直に称えた。

「ほだぬ褒められっと、おらはこっ恥ずかスぐなっから、やめでけろや…。

だども、そのバガだげは余計なんでねえのが…」

「いやぁ…、おいらは別にイサクのことを、バカにしたわけじゃないよ。イサクはいつ見ても、素晴らしい怪力の持ち主だなと、感心してたんだよ。バカ力と云ったのは、普通の人は持っていない、特別な力の持ち主だと、おいらは思ったから云ったまでで、イサクのことをバカにしたわけじゃないんだ…」

 ムナクは長い間旅を続けてきて、あちこちの邑々を廻ってきただけ、世渡りに慣れているのだろう。イサクのことを、あっさりとなだめてしまった。

「ほうが…、ほだぬおらは力があっべが、おらは普通だど思ってだんだども、おらはほだぬ力があっべが…」

「おいらなんかと比べても、腕の筋肉とかがまるで違うんだから、力があって当然なんだろうけど、イサクの場合は筋肉もそうだが、身体(からだ)つきそのものがおいらたちと違って、まるで別物みたいなんだよ。胸なんかは岩盤みたいに分厚いし、到底おいらたちみたいな並みの人間が、逆立ちしたって敵いっこないんだから、多分イサクの怪力は神さまがくれた、宝物みたいなものだから、大切にしないといけないと思うんだ…」

「ほうが…、神さまがくれだのが…。んだどすたら、神さまはどうやって人間ば選ぶんだべな…」

「さあな…。おいらは、そんなことまで考えたことないから、分からないし知らないよ。そういうことは、コウヘイお父にでも訊いてみな。お父なら、何かは知っているだろうからな…。そう云えば、さっきおいらに何か聞きたいとか云ってましたけど、一体それはどんなことなんですか…。コウヘイお父…」

 ムナクは、イサクとの話の途中でさっき耕平から聞かれた、『ムナクに訊きたいことがある』という、言葉を思い出して耕平に訊(たず)ねてみた。

「ああ…、あのことか…。実はな。ムナク、きみは西のほうから、方々旅をしてきたと云っていたから、ひとつ聞きたんだが、名前はコールタールと云うんだがな。まあ、名前なんてどうでもいいんだが…」

「何んですか…。そのコールタールというのは…」

「うむ…、色は黒くて水のような液体なんだが、水よりはかなり濃いんだ。そう、例えて云えば…、そうだな…。泥だ…。泥のようにドロドロしていて、臭いは鼻を衝くような強烈なものだ。もともとは、人間によって造られたものだが、天然に湧き出しているものが、ごく稀にあると聞いたことがあるんだ。方々を旅して回ってきたムナクなら、いろんなものを見てきただろうから、もしかしたら、どこかの邑でそんな噂や話を、聞かなかったかなと思って、聞きに来たんだよ。どこかでそんな話を聞かなかったか…」

「コールタール…ですか。おいらはそんなもののことは、聞いたこともないし、見たこともありませんね…。ところでコウヘイお父、お父はそんなもので、何をしようと云うんです…」

「うむ。ムナクには、まだ云ってなかったかも知れんがな。明日の明日の、そのまた遠い明日の世界に、昔オレがお世話になった。偉い人がいるんだよ。その人と連絡を取るために、イサクに伐ってはもらった、大木に文字というものを書くために、そのコールタールが必要なんだ」

「コウヘイお父、またおいらの知らない言葉が、出てきましたけど、その文字というのは何なんですか…」

 ムナクは耕平が時折り、自分たちの知らない言葉を、よく使うのは分かっていたが、これまでは別に気にも留めずに、それとなく聞き流していた。

 しかし、今日だけはただ黙って、聞き流す気にはなれななかった。なぜなら耕平が言っていた、明日の明日の世界にいる人と、連絡を取るために文字というものを、書くためにコールタールが必要だといった。ムナクにとって耕平が言った、明日の明日の世界が、どんなところなのか憖(なまじ)っか考えたとしても、ムナクには解かるはずもなかった。

 耕平のいう、明日の世界は解からないにしても、義理の父親である耕平は、邑人の誰からでも好かれる、温厚な性格がムナクはことのほか好きだった。

「ムナク、文字というのはな。自分の思っていること、考えていることを遠くにいる人たちに、伝えるための言葉を形にしたものなのだ。残念ながら、この世界にはまだ存在はしてないがね…」

「自分の気持ちを相手に伝える、その文字というものはどんなものなんですか…。お父」

 ムナクは、この明日の世界からやってきた、義理の父親である耕平のことを、自分たちが知らないことを、何でも知っているのであった。それでいて、困っている邑人がいれば出向いて行って、解決策を教えてやるというように、あらゆることに精通しているようだった。

「いいか、ムナク。よく見ていろよ」

 そういって、耕平は傍らに落ちていた棒っ切れを拾うと、

「これはな。オレのいた時代の文字だが、お前のムナクという名前は、こう書くんだ…」

 耕平は地面にカタカナで、ムナクと大きく書いた。

「へぇ…、これがおいらの名前ですか…。そして、これが文字というものなんですね…。コウヘイお父」

「そうだ…。イサクのはこう書いて、コウスケのはこう書くんだ」

 耕平は次々と、イサクとコウスケの名前を書いていった。

「ひゃ…、これがおらの名前だがァ…、コウヘイ兄イ」

 イサクはさも驚いた様子で、耕平の顔を覗き込んだ。

「そして、これがオレの名前だ…」

 そういうと耕平は、ひと際大きな文字で自分の名を書いた。

「そんな便利なものがあるのなら、おいらたちにもぜひ教えてくださいよ。コウヘイお父…」

「残念ながら、それはできないんだよ。ムナク、なぜ教えられないか分かるか…」

「いえ、分かりません…」

「それはな。この時代には文字というものが、まだ発明されてないからなんだ。いいか、考えても見てごらん。お前たちの使っている弓や槍だって、いまよりも遠い昔に誰かが作ったからこそ、現在こうやってオレたちが使っていられるんだ。

 オレの知る限り、この時代にはまだ文字は発明されていないんだ。もし、ここでオレが文字を教えたとしたら、これまで正常に進んできた歴史に、大きな歪みを作ることになってしまうんだ。だから、歴史の進歩は自然のまま、そっとしておいたほうがいいと思うんだよ。

 もし、そうでなかったら、とんでない明日の世界になってしまうだろからね…」

「コウヘイお父が教えられないのなら、おいらたちみんなで協力しあって、おいらたちの文字を作ればいいだろう。そうは思わないかい。コウスケ兄イ…」

「そ、それは思うよ。おいらだって前にお父に云われて、その文字ってヤツを作ろうとしたことがあったんだ。だけど、おいら文字なんて一度も見たことがないし、どうやって作ったらいいか分からなくなって、途中でやめてしまったことがあったんだ…」

 コウスケは、あの時のことを思い出したのか、悔しそうな表情でムナクに言った。

「え…、じゃァ、コウスケ兄イはたったひとりで、その文字というものを作ろうとしたのかい…。そりゃァ、無茶だよ。コウスケ兄イ、そういうものは出きるだけ多くの人と、力を合わせてやらないと絶対に無理だと思うよ。

 それに文字っていうのは、自分の気持ちを相手に、伝えるためのものなんだろう…。もし、仮に海辺に住んでいる者が、山の中に住んでる者に魚のことを、伝えるにはどうしたらいいと思う…」

「そ、そりゃァ、やっぱり魚の形を描くんじゃないの…」

「やっぱり、コウスケ兄イもそう思うかい。おいらが思うに、文字というものは相手に伝えたいものを、分かりやすく物の形に記す。こういうものが文字の始まりになるんた…。なんて思ったんだけど、どうかなァ…」

「さすがはムナクだね。たてにあちこち旅をしてたわけじゃないんだね。おいらなんか足元にも及ばないくらい、見識が広いんだ…」

 狩猟民族の末裔であるムナクは、両親と死に別れてからもひとり、長い間旅を続けて流れ流れて辿り着いたのが、耕平たちちのいる西の邑だったのである。

 そんなムナクの生活に同情した耕平が、「君さえよかったら、しばらくこの邑でゆっくりして行くといい…」と、言われたのがきっかけで、この邑に住み着いて耕平の娘、ライラを嫁にもらい受けて、この邑の一員になったというのが、放浪の狩人ムナクの経歴である。

もうひとつだけ付け加えておけば、ムナクには独自に編み出した、同時に二本の矢を弓につがえて、二匹の獲物を一度に射倒すという、独特の弓法とでもいうきべものを持っていた。

「おい、おい。ムナク、お前たちふたりでばかり話してないで、少しはコールタールのことも、考えてみてはくれないか…。何か、何でもいいから文字の書ける、何かがあったら教えてくれ…」

「そう云えば…、おいらがある邑に立ち寄った時だった…。ちょうどその日は、その邑の祭りかなんかだったらしくて、男も女も顔と云わず体中に、赤とか黒の色を塗りたくって、火を焚いた周りをみんなで、踊り捲くっていたんでおいらは驚いて、ただ黙って眺めていたことがありました…」

「ほう…。で、その赤とか黒の色というのは、一体なんで作られていたのか、きみは分かっているのかね…」

「はい、あまりに赤が鮮やかだったんで、おいらも邑の人に聞いてみたんです。

 そうしたら、ある特殊な土を溶かして、それを熱したものを少し冷ましてから、顔に塗り付けるんだそうです」

「何…、特殊な土…。そうか。ベンガラを使っていたのか。しかし、そんなものがこの里のどこにあるのかさえ、オレは何も知らないぞ…」

 吉備野博士と連絡を取るために、イサクの伐り出した大木に文字を書く、塗料作りに四苦八苦した耕平だったが、どれもこれも縄文の世には、手に入れることが難しいものばかりだった。かつて、パラレルワールドからやってきた、耕平とは同一人物である坂本耕助に、「自分は、もうどこにも行かないから…」と、いう理由から、耕助にタイムマシンをくれたことが、いまさらながら悔やまれる耕平だった。


     2


 耕平は近頃の自分が、やることなすことのすべてが、うまくいっていないことに、著しい不満を感じていた。どうしたら文字を書くための、塗料を作り出すことができるのか、日夜を問わず考える日々が続いていた。

第一に縄文の世にきて、コールタールを探そうなどとは、所詮間違っていたのだろう。

 それでも耕平は、吉備野博士に連絡を取るために、ポールを建てようと躍起になっていた。

そんなある日、耕平の下にコウスケとムナクがやってきた。

「どうしたんだ。きょうはふたりお揃いで…、何かあったのか…」

「はあ、コウヘイお父がなんだか、最近落ち込んでいるという噂を聞いたんで、どうしたのかなと思ってきてみたんです。コウスケ兄イを誘って…。な…」

「ホントだよ。お父、おいらもムナクに聞いて、心配だったから来てみたんだ…」

「何だ。そんなことか…、別にオレはな。落ち込んでいるわけでもないし、どこか具合が悪いわけでもないんだ…」

「だったら、どうして落ち込んでいるなんて、 噂が立つんです…。コウヘイお父」

 本当にムナクは、耕平のことを心配しているのだろう。執拗に最近の耕平が、あまり元気がないことについて聞いてきた。

「だってねぇ。コウヘイお父、邑の人たちがみんなで、『近頃の邑長は、あんまり外も出歩かないみたいだし、どこか体の具合でも悪いんでねえべが…』という、噂があちこちで囁かれているんですよ。本当に大丈夫なんですか…」

「まったく困った連中だな…。人がのんびりしようとしていると、勝手に病気にしてしまうし、オレはゆっくり考えごともできないのか…。まったく…」

「ねぇ、お父…。お父の考えていることって、どんなことなんだい…。おいらたちにも何か、手伝えることはないのかい…」

 コウスケもムナク同様に、耕平のことを気遣って自分にも、何か出きることがないかと申し出てきた。

「うむ…。やることさえ決まれば、もちろんお前たちにも手伝ってもらうが、文字をかくための塗料が、未だに思いつかないんだよ」

「だとすれば、こうしたらどうです。コウヘイお父、動物の血を使うんです…」

 ムナクは耕平が、考えてもいなかったことを提案してきた。

「血は完全に乾燥させると、黒く変色すると云われています。コウヘイお父が、どんな文字を書くのかは、おいらはまったく知りませんが、文字の形に溝を掘って、そこに血を流し込めば出き上がりです。どうでしょうか…、コウヘイお父…」

「なるほど、動物の血までは気が付かなかったな…。それにしても、文字さえ知らないムナクが、よくぞ、そこまで気が付いたものだ。感心したよ…」

「おいら、コウヘイお父みたいに、文字なんかは分かりませんが、こういうことを考えるのが好きなんです。ですから、コウスケたちと力を合わせて、きっとおいらたちだけの文字を、作ってみたいと思っています。わからないことがあったら、聞きに行きますので、よろしくお願いいたします。コウヘイお父」

「よーし、気に入ったぞ。ムナク、分からんことがあったら、いつでも聞きに来るといい…。さてと、オレはポールを建てる準備に入るとするか。

 ああ、そうだ…。コウスケ、お前確かいつだったか、黒曜石ガ取れる山を見つけたとか云ってたな…」

「ああ、云ったよ。黒曜石がどうかしたのかい。お父…」

「ムナクの云うように、イサクが伐ってくれた巨木のポールに、文字を書くのに溝を掘るために使いたいんだ…」

「いいよ。それじゃぁ、ちょっと行って取ってきてやるよ…」

「それなら、おいらも一緒に行ってやるよ。コウスケ兄イ…」

「ああ、いいよ。案内してやるから、ついて来いよ。

だけどなァ…、そのコウスケ兄イって云うのは、いい加減やめてくれないかな…。大体ムナクのほうが、おいらよりも歳上なんだし、いくら妹を嫁にしたからって、歳上の者から兄イ呼ばわりされるのは、見っともいいもんじゃないよ。普通に名前で呼んでくれたほうが、ずっと気が楽だなァ…。おいら」

「だけど、世間体もあるし、どうしよう…。まあ、他所は他所だし、ここはここだからいいか…。世間にはしきたりに厳しい邑もあったけど、この里はコウヘイお父が邑長になった時、そういった旧いしきたりを壊して行ったから、いまみたいに暮らしやすい邑になったって聞いたけど、コウヘイお父の明日の明日の世界の知識って、本当に凄いなァ…、って思いますよ。おいらも…」

「そんなに驚かれたり、お礼を云われるようことは、何ひとつやっちゃいないんだから。

 それにオレのいた世界では、ムナクもコウスケも夜になると、東の空から昇ってきて地上を照らしている月は知ってるな。オレのいた世界では、人間があの月の上までロケットという、乗り物に乗って行ったり来たりしているんだ…」

「そんなことって、本当にできるんですか…。空を飛ぶ鳥だって、とてもあそこまでは行けないと思うけど…」

「それができるんだよ。それが時間の流れ歴史の流れというものなのだ…」

耕平は、そういいながら、ふっと空を見上げた。だが、夕刻まではかなりの間があったので、そこにはどこまでも青空が広がり、残念ながら月も星空も、まだ見つけるとはできなかった。

「さて、おいらたちも日が暮れないうちに、黒曜石を採りに行ってこようか。ムナク」

「よし、行こうか。それじゃ、おいらたちはちょいと行ってきますので、後のことはよろしくお願いします。コウヘイお父」

 こうして、コウスケとムナクは、耕平に暇乞いをすると家を出た。ふたりはコウスケの見つけた、黒曜石の採れる岩山を目指して出かけて行った。

 ひとりになった耕平は、ムナクに対してコウスケにさえ、感じたことのない不思議な感覚を感じ取っていた。別にムナクが取り立てて、普通の人間と違っているというのではなく、放浪の旅人ともいうべき、狩猟民族の末裔であるムナクには、この里の者たちが持ち合わせていない、見識の広さを持っていた。幼い頃から両親とともに、日本中獲物を追って転々とした生活を、送ってきたムナクだからこそ、集落を作って生活をしている者たちより、問題にならないくらい歩き回っている分、狩猟民族は見識が広いのだろうと思われた。

『さて、オレもそろそろ準備にかかるとするか…』

 コウスケたちが去ってから、間もなく耕平は立ち上がると、山本のログハウス小屋に向かっていた。

『確か、アイツのところには、トンカチか木槌なんかあったよな…。いつだったか見た記憶がある…』

 耕平は山本の小屋に入ると、いつものように小屋の中を、あちこちと物色を始めた。

 しばらく探していると、鉄の部分が真っ赤に錆びた、金づちがひとつ見つかった。

「ふう…、やれやれだな…。それにしてもヤケに赤錆をしたもんだ。あれから何年経つんだ…。オレが二七の時だから、もう二十年近くになるのか…。誰も手入れもしないし、使わないから錆びるのも当たり前か…。

 だけど、いくら錆びたからといっても、これだってまだ十分使えそうだし、コウスケたちが帰ってきたら、さっそく黒曜石を加工して、文字を書くための準備をしなくてはな…」

 耕平は、いま出きることをテキパキとこなし、ムナクとコウスケの帰りを待っていた。

 待つこと二時間くらいだったろうか。耕平がひと仕事を終えて休んでいると、

「おーい、いま帰ったよー。お父…」

 コウスケとムナクが、まるで韋駄天のような速さで、走ってくるのが見て取れた。

「ただいま戻りました。コウヘイお父、黒曜石はこんなものでいいですか…」

ムナクは自分たちで採ってきた、黒曜石を耕平の前に並べて見せた。

「ああ、上等だとも。オレはこんなにはいらないから、残りはお前たちで弓矢の鏃(やじり)にでもしなさい」

「弓矢の鏃ですか…。これなら固いですし、割った先端が鋭利に出きてるから、鏃には持って来いだと思いますよ。お父」

「そうか、それはよかった…。さて、オレはさっそく文字を書くための、溝を掘る道具をコウスケとムナクが、大量に取ってきてくれた、黒曜石を細工して作らねばならん。

 さぁて、これからが本番だ。忙しくなりそうだぞ…。何しろ、これからがいよいよ本番だからな。さて、始めるとするか…」

「あのう…、コウヘイお父。おいらたちも何か手伝いますか…」

 ムナクは、俄然張り切り出した耕平を見て、恐るおそる声をかけてみた。

「いや…、ムナクの心遣いは嬉しいんだが、こればかりは自分の手でやり遂げないと、オレの気持ちが済まないんだ。きみの厚意だけは、ありがたく頂戴しておくよ。その代わりと云っちゃなんだが、文字を書くためには、どうしても動物の血が必要なんだ。

 ムナクとコウスケとイサクの三人は、これから出きるだけ多くの、動物を狩って来てほしいんだ。狩ると云っても、でき得る限り獲物の動物に、血を流させてはいかん。出きるだけ血を流さない方法で、獲物を捕らえなくてはならないぞ…」

「ひぇー…、そんなの無茶苦茶だよ。お父、そんなことは絶対に出来っこないよ…」

 コウスケが真っ先に根を上げてきた。

「いや、おいらなら出きるぜ。コウスケ」

 ここぞとばかりに、自信を満面に浮かべた、ムナクが一歩前に出て言った。

「ほうだどもよ。ほだなごどは、おらぬだってできっっォ…」

 イサクもムナクに対抗心を、むき出しにするかのように、大きな声で耕平にがなり立てた。こうして、ムナクたち三人は狩りへと出て行った。

 その間、耕平は吉備野と連絡を取るための、小さな石を使って下書き程度に、大木の上に乗って文字に合わせて、印をつけて行った。

「よし、これで準備はできたぞ。あとは黒曜石を細工して、文字を掘りつけるノミを作れば、すべては完了だ。いやぁ…、ここまで来るのはひと苦労だったな…」

 耕平は感慨深げに、吉備野と連絡を取ろうとした、頃のことを思い浮かべていた。

 タイムマシン自体は、耕平にとっては迷惑千万な代物だったが、並の人間では到底経験のできないことを、耕平自身がしてきたことは、幸運と不幸が背中合わせに、なったようなものだと耕平は思った。

 文字を書く溝を掘るノミは、万一に備えて予備を含めて、三本作り上げた耕平であった。削り具合を試してみると、素人の作ったノミとは言えども、まずまずの切れ味で何となく、ホッとした耕平ではあった。

 試し削りを終えると、休む暇もなく耕平はさっそく、下書き用に目印となるように、石で傷をつけた文字形に沿って、一気に掘り進み始めた。

 いくら短い文章でも、これだけの大木ともなると、一文字掘るにも大変な力を要した。それにもまして、文字を掘るノミは黒曜石だから、加える力にも充分注意が必要だった。

 うっかり力を加えると、黒曜石のノミのほうが砕けかねなかった。

 どうにか文字を掘り終えた頃には、耕平自身がへとへとに疲れ切っていた。

「やっと、終わったか…。それにしても、疲れたぁー…。これほど疲れるとは、思ってもみなかつた、オレが甘かった…」

 自分が考えていたよりも、はるかに大変だったことに、気づいた耕平は素直に自分の甘さを認め、文字を掘り終えた大木に腰を下ろして、コウスケやムナクたちの帰ってくるのを待った。

 そんなことをしながら待っていると、相変わらず騒々しい、イサクのダミ声が辺り一面に聞こえてきた。

「おーい…。コウヘイ兄イ、いま帰っただ。こだぬ 獲物ば捕って来たぞ。ほら…、見でみろ…」

「そんなものは、見なくてもわかるぞ。イサク、お前は力持ちだから、先頭の太いほうの枝を担いでいた。ムナクとコウスケは、後ろの細いほうの枝をふたりで担いでいたし、木のしなり具合から見ても、相当の数の獲物なんだろうと、オレは思って見ていたよ…」

「へぇー、そうかぁ…。それでお父は、その文字っていうのを、書く用意はできたのかい…。あ…、これかい。この太い木に、おいらが持ってきた。黒曜石で作った道具で、削るって云ってたけど…、木のあちこちにあるデコボコが、お父の云ってた文字というものなのかい…」

 コウスケは好奇心から、耕平が文字の形に掘った穴を、一個一個手で触れながら耕平に訊いた。

「ああ、そうだ。まだ形だけだけとな。きょうお前たちが獲ってきてくれた。動物の血を流し込んで、完全に乾けばそれで完成だ…」

「ほすたら、おらが地面さ穴ば掘って、これば立てれば後は全部おしめえだ…。そうだったよな…。コウヘイ兄イ」

「そうだ…。イサクの云う通りだ。きょうはみんなも、本当にありがとう。礼を云うぞ。この通りだ。ありがとう…」

 耕平が三人に深々と頭を下げた。

「そんなことされたら、おいらたちが困りますから、本当にやめてください。コウヘイお父…」

邑長であり義理の父でもある耕平に、ここまでされて礼を言われたら、ムナクも立つ瀬がないらしく、しきりに取り消すように求めていた。

「何も気にることはないんだ。ムナク、これはオレからの、心からの気持ちを表したことだ。オレのいた世界では、人に礼を云う時にはこうやって、頭を下げて自分の気持ちを示す。それが普通の行為だし、日常的なんだ…」

「そうですか。コウヘイお父のいた世界の人は、みなさんが礼儀正しい、人ばかりなんですね…」

「いや、そうでもないさ。中には悪いことをする、ヤツだって沢山いるのさ。

 例えば、他人の物を盗ったりするヤツもいれば、人を殺したりもするんだぞ。動物や鳥じゃなくて、人間を殺すんだぞ。生きているオレたち人間をだぞ。だから、そういうヤツらを取り締まるために、警察というものがあるんだ。警察とはな。そういう悪いことをしたヤツらを、見つけ出し捕まえて犯した罪を償わせる。そして、二度と悪いことをしなような、善良な人間になるようにと、日夜努力を続けているところなんだ…」

「いやぁ…、コウヘイお父のいた明日の世界には、おいらには信じられないような、いろんなことや物が、いっぱいあるんでしょうね…」

ムナクは、まだ見たこともない。耕平のいた二十一世紀の世界を、まるで夢想でもするかのように、どこか遠いところを見るような、うつろな目で耕平に話した。

「いや、そうでもないぞ。ムナク、オレが昔いた世界なんかより、こっちのほうがずっと静かで、心が安らいでオレは好きだぞ。あっちの世界では毎日が騒々しくて、ゆっくりとしてなんかいられなかった…。その点、こっちの世界では、まるで時間が止まっているみたいで、すべてがゆっくりと進んでいるんだよ。わかるか、ムナク…」

「さあ…。おいらは、この世界以外に行ったことがないし、まったくわかりませんね…」

 耕平が縄文時代に来てから、時間がやけにゆっくりと進むように、感じたのは実際のことなのだろう。それは人間持つ習性のようなもので、何かに熱中している時は、瞬くうちに時間が過ぎて行き、気が進まないことをしている時は、まるで止まっているかのごとく、時間は一向に進もうとはしないのである。

「さて、動物の血が固まらないうちに、血を抜いてしまわないと、せっかくみんなで獲ってきてくれた、動物の血が使いものにならなくなってしまう。

 みんな、急いで血を抜いて、ここに用意した土器に集めてくれ。やり方はこうだ。ここの首のところをナイフで切るんだ…。みんなも黒曜石で作ったナイフを持ってるな。

 すると、このように血が出てくるから、これを土器に集めてくれればいいんだ」

 耕平のやり方を見ていた三人も、さっそく動物の血抜きを開始して行った。

 中でもムナクの手腕は、初めてとは思えないものだった。コウスケとイサクが一匹やってる間に、ムナクはすでに二・三匹は済ませていた。

「こんなもので、どうですかね。コウヘイお父…」

 いち早く血抜きを終えた、ムナクが耕平に訊いてきた。

「初めてにしては、ずいぶん早いじゃないか。ムナク、そうか…。きみは狩猟民族の末裔だったな。狩猟民族というのは、こういうことに慣れているんだろうが、それにしても見事な手捌(さば)きだった」

「ホントだよ。おいらも結構手先は器用だけど、とてもじゃないがムナクには、どうしたって勝てっこないや…」

「まだ、コウスケたちの分が残ってるじゃないか。おいらが手伝ってやるから、こっちにも貸しなよ…」

 ムナクは見るに見かねて、コウスケたちの分までやり始めた。ムナクが進んで手伝いだいだすと、動物の血を抜くという仕事は、耕平も一緒にやりながら見ていると、立ちどころに終わってしまった。

「これで全部だな…。それにしても、ムナクの手早さには感心したぞ。これも狩猟民族という、特殊な民族のなせる業なのかな…。実に見事だ…」

「いやぁ…、おいらたちの仲間も、大分少なくなったけど、仲間たちなら誰だって、これくらいのことはしますよ。コウヘイお父」

「そうか…、それでもそれは大した技術だぞ。ムナク」

「ほんぬ、たまげだもんだ。おらぬはどうやったって、ムナクの真似なんかできねえ」

 イサクまで唾を飛ばしながら、ムナクの手際の良さを褒めた。

「よし、これで準備はすべて終わったな…。あとは文字を掘った大木の穴に、この血を流し込んで乾くのを待てば終わりだ。みんな、いろんなことを手伝ってくれて。本当にありがとう…。心から礼を云うぞ…。また何かあった時には、頼むことがあるかもしれん。

 きょうのところは、ここまででいいぞ。みんなは自分の仕事に戻ってくれ。本当にありがとう…」

 耕平は改めて三人に礼を言った。

「本当に止めてくださいよ。コウヘイお父、おいらはお父のことが好きだから、頼まれたら何だってするし、他のみんなだってそうだと思うんです」

「ほうだどもよ。おらだちは、コウヘイ兄イのためだったら、どだなごとだってやるって決めでんだ…」

 耕平と関わりを持つ、縄文の里の人間は誰ひとりとして、耕平ことを悪く言うものはいなかった。こうして、耕平は明日から始まる、吉備野博士に連絡を取るための、ポール造りに情熱を傾けていた。


      3


 夜の闇が薄くなってきた。耕平はイナクが目を覚まさないように、ひとりそっと寝床を抜け出ると、まだ明けきらない外へ出て行った。東の空を見上げると、太陽が昇るには少しばかり間があるようだった。

 時間とは不思議なものだと耕平は思った。時間の流れそのものは一定なのだが、人と環境によって著しく変わるのである。何かに熱中している人には短く感じられ、あまり気乗りしないことをしている人には、異常なほど長く感じられるのである。

 耕平自身もそのひとりであった。二十一世紀にいた頃の耕平には、時間が自分の周りを目まぐるしいほどの速さで、駆け巡っていたような気がしていた。

 それが縄文の世にきてみると、それまでの生活がまるで嘘のように、ゆっくりとゆったりとした早さで、耕平の周辺を流れ過ぎていくのである。

 そんな耕平は自分のいたあの時代は、一体何だったのだろうと思うのであった。

 時間とは一日が二十四時間で、地球は三六五日間かけて、太陽の回りを一周している。それでも、少しづつ時間が余るため、四年に一度閏年を設けて、二月の末日に一日を加えて、この月だけ二十九日を設定している。

 その時間を遡って、縄文時代までやってきた耕平は、自然界の異端者になるのかも知れなかったが、あの時は已むにやまれない事情と、耕平自身が『どうにでもなれ…』という、半分やけっぱちな気持ちが、あったればこそできたのだと思った。どこに行くのか行き先もわからない、タイムマシンのメモリーがハイフン状態のままで、始動ボタンを押してしまった。若気の至りと言ってしまえばそれまでだが、幸いにも縄文時代だからよかったものの、もしこれがジュラ紀や白亜紀だったら、耕平もこんなにはのうのうとは、生きて行けなかっただろう。

 耕平はふっと、そんなことを考えていた。

『ふふ…、考えてみれば、オレもだいぶ無茶なことをしたもんだ…。

 あまり山本のことばかり云えないな…。アイツは向う見ずにも、確たる当てもないのに、オレのことを探しに来たっけ…。

たまたま同じ時代だったから、よかったようなものの、あれが百年とか二百年ズレていたら、どうする気だったんだろう…。アイツは…』

 耕平は、自分のことと重ね合わせるようにして、山本徹のことを考えていた。

『アイツとも、もう二度と逢うこともないんだろうな…。

 そう云えば、前に山本の子孫とかっていう、云うヤツに逢ったことがあったな…。オレがいた頃は奈津美さんとの間に、まだ子供はいなかったはずだよな…。

あのふたりが結婚したのは、ふたりが二十歳そこそこだったから、オレがいなくなってからでも、できたのかも知れないな…』

耕平は、なおも山本たちのことを考えていた。

あれこれと、昔のことを考えながら歩いていると、死んだウイラとカイラの墓の前まで来ていた。

耕平は墓標も何もない、石が置かれただけの墓の前に、ゆっくりとしゃがみ込むと、ふたりの墓前に両手を合わせた。

ウイラとカイラと言えば、耕平が縄文の世界に初めてやって来た時、最初に出逢ったのがこのふたりだった。

当初は耕平と最初に接した、ウイラのほうが熱中していて、そのうちふたりは一緒に暮らすようになった。そして、それからほどなくして、耕平とウイラの間には子供ができ、やがて元気な男の子が生まれて、耕平はその子にコウスケと命名した。

こうして耕平は、ウイラとカイラの墓参りを済ませると、来た頃はまだ薄暗かったのが、もう朝は完全に明けきっていて、朝焼けが赤々と空を染め上げていた。

帰り道を戻りながら耕平は、大きくひとつ屈伸をした。

「あれ…、前にも一度こんなことをした記憶があるな…。あれは一体いつ頃のことだったんだろう…」

 耕平はふと記憶の中をまさぐってみた。すると、ひとつの思い出に突き当たったのだった。それは耕平が中学三年の時だった。祖父が死んで一年目のお盆の時だった。お墓に行って、墓石に水をかけて掃除をしたり、墓の周りの草むしりをした後だった。

『あーあ…、疲れた。ふわァ……』

 と、耕平が伸びをひとつした時だった。

『何ですか。耕平、ここは仏さまの前ですよ。何というはしたないことをするのですか…』

 そう言って母の亜紀子は、耕平の軽はずみな行為を、たしなめるのであった。

「ああ…、やっぱりあの頃が一番よかったよな。平凡な毎日だったけど、オレたちの生活は結構充実していたよな。オレも、山本も…」

 いつ果てるともない、思い出を回想しながら耕平は戻ってきた。

 家に帰るとイナクもすでに目覚めていた。耕平を見ると寝床の中で、おいでおいでをして耕平を招いていた。イナクの傍に寄って行くと、寝床からいきなり起き上がり、大きな乳房を震わせながら、耕平の胸に抱き着いてきた。

「おい、おい。どうしたというんだ。一体…」

「どうしたって…、邑長は最近わたしのことを、構ってくれないんですもの。そんなの、いやー…」

「いまはちょっと、忙しいことをやっていて、お前を構ってやれずにゴメンよ。だが、それもあと少しの辛抱だから、それまでま待ってておくれ」

「あと少しって、どれくらいなの…。コウヘイ邑長」

 イナクは自分の乳房を、耕平の鼻先に押し付けてきた。

「あと三日くらいかな…。それが終わったら、お前の云うことは、何だって聞いてやるから、それまで待ってておくれ…」

 それでもイナクは、たわわに実った果実のような乳房を、耕平の顔と言わず胸と言わず、至るところに押し当ててくる。

 耕平も初めは、のらりくらりと避けていたが、突然イナクの乳房を鷲づかみにした。

「どうだ。イナク、これでいいのか。痛くはないのか…。もっと力を入れて欲しいのか…」

 耕平も一緒に住むようになってから、気が付いたのだがイナクには、強く力を加えてやらないと、満足できないという妙な癖を持っていた。

 紀元前の縄文時代にも、マゾ趣味のようなものが、あったのかと耕平も驚いたものだった。

 さて、ひととおりの行為を済ませた耕平は、朝飯を終えるとすぐに大木の溝に、動物の血を流しむ作業を始めていた。文字を書く筆が、どうしても調達できなかったので、代わりに昨日のうちに作っておいた、竹を細工した柄杓(ひしゃく)を使って、溝に血を流し込んで行った。

その日は朝から晴天に恵まれ、耕平が大木に掘られた溝に、次々と血を流し込んでゆくと、この日の晴天の恩恵からか、立ちどころに乾いて行った。数回に分けて血を流し込むのだが、長さが三十メートル強という、大木だからそこに掘られた溝も、文字数にすると十五・六字になる。だから、耕平が一列に血を流し込んで、乾くのを待っていたとしても、相当な時間がかかるのであった。

ほぼ半日をかけて耕平は、大木に掘られた溝に血を流し込むのを終えた。あとは完璧に乾燥するのを待つだけだった。

 こうして、耕平は丸々三日間かけて、大木に流し込まれた血の感想を待った。そして、ついに四日目の朝、イサクの加勢を頼んで吉備野博士に、連絡を取るための巨大なポール 建てが始まった。

「いいか、イサク。これから、この場所にこのポールを建てる、穴を掘らなくてはならないんだ。イサク、済まないがここはぜひとも、お前の怪力を持ってここに穴を掘り、このホールを建ててほしいんだ…。頼む、イサク」

「ほだの、造作もねえごどだべ。こごさ穴ば掘って、おらが伐ったこの木ィば、埋めればいんだな。コウヘイ兄イ…」

「どうだ。できそうか…、イサク」

「でぎそうが…。なんつうごどは、人ば信じてねえ言葉でねえのが、コウヘイ兄イ…」

「あ…、いやぁ、これはオレが悪かった。イサクは、邑でも一番の怪力の持ち主だったよな。それに、この伐り出した大木を、ここまで運んだのもお前だったし、お前が怪力の持ち主であることは、オレが一番知ってるんだ。そう、ひがまずにあと少しだけ、力を貸してくれないか…。なあ、イサクよ…」

「いんや、おらは別ぬ、ひがんでるわけでねえぞ。おらはあの時がら、コウヘイ兄イのためだったら、なじょしたごどでも、やろうど決めてんだ…。さあて、穴掘りでもやっか…」

 イサクは別にひがんでいる様子もなく、耕平が用意したスコップを手に取ると、横倒しになっている大木の、根元の太さを目測してから一回目のスコップを、足元の地面に突き刺して行った。

 耕平が見ている前で、イサクは見る見るうちに自分の背丈の、一・五位くらいの深さまで、掘り下げていった。

 耕平はイサクが放り投げてよこす、土を避けてかわすのに精いっぱいだった。

「おい、イサク。もう、そのぐらいでいいぞ。いまロープを下ろしてやるから、それに掴まって上がってこい…」

 耕平が頃合いを見図って、上から声をかけながら覗き込むと、イサクはすでに背丈の二倍は掘り下っていた。

「もういいぞ。いまロープを下ろすから上がってこい。あまり掘り下げすぎると厄介だ。これに掴まって上がってこい」

 耕平は、そういってイサクの頭上まで、二本に折ったロープを垂らしてやった。


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廻りくる季節のために 縄文に吹く風 佐藤万象 @furusatoha

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