2.小林先生

 一旦閉じた部室のドアがすぐにまた外へ開く。初夏を思わせる日差しがまばゆく流れ込んで来た。

「折角の角部屋なんだから晴れの日は閉めないでって言ってるのに … 」

 義理堅く長屋のドアを閉める癖のある友也が忘れ物でも思い出して戻ったのかと顔を上げた友子嬢の前に意外な人物が立っていた。

「先生!」

 思わず起立した友子の顔いっぱいに驚きの笑みが綻ぶ。初等部時代から大好きだった小林先生だ。

「やぁ … 」

 老紳士も温厚な微笑を浮かべる。だが、その微笑みが硬いことに友子は気づいてしまった。

「入っていいかね」

「嬉しい!こんな所まで訪ねて来て下さるなんて」

 干し掛けてあったタオルで長椅子の奥の席の埃を拭い、その上に普段は自分専用で弟には絶対使わせない座布団を裏返して氏に勧める。そのあとから鉢合わせになった友也もいて戻って来た。

「ドアはしめないで」

 弟に伝える声が先ほどよりずっと優しい。

「先生、感激です。お元気でした?」

 小林氏は少しは名の知られた洋画家だったが、10年ほど前に現役を退いてからは、この学園の名誉講師として主に初等部の子供たちやチンパンジーの与謝野の美術指導に当っている。温厚で隅々にまで気配りの行き届くこの紳士に、友子は一目で懐いてしまい、氏の方も素直で人懐こい少女の屈託のない甘えを父親のように全身で受け止めてくれていた。友子が中等部に上ってからは授業を受ける機会こそ殆どなくなっていたが、学園でたまたま出会った折など、必ずと言って良いほど話し込み、10分でも20分でも、平気で次の授業に遅れてしまえる仲だったし、年賀状と暑中見舞いの遣り取りも欠かしたことがない。昨年の九月にも友也と三人で近くの牧場へハイキングした折、思い切り気合のこもった手製のお弁当をお披露目した楽しい思い出もある。一方、絵に全く興味のない友也はといえば、一度も彼の授業を受けたことがなかったが、姉ちゃんの友達なら悪い奴ではないだろう、程度の距離感でふたりの関係を眺めているようだった。内心、氏と自分に対する姉の態度の落差に呆れていたのかもしれないが、それで姉ちゃんをからかうような無駄口はたたかないだけの分別はある。

「実は頼みがある」

 氏が切り出した。

「何でしょう?」

「与謝野がさらわれた」

「えっ!」ふたりが声を上げる。

「与謝野が⁉」

「おとといの朝、姿が消えて職員と生徒で手分けして捜していたんだが、今朝、身代金を要求する封書が事務に届いたんだ。だが、この事はまだ他の生徒たちには伝えていないし、警察にも届けていないから、ここだけの話にしておいて欲しい。できる事なら表沙汰にして大騒ぎされるような事態だけは避けたいんだよ。それで一度君たちの方からお父さんに個人的なお力添えを頂けないか頼んでみてもらえないものかと思ってね」

 父は現職の警察官で、県警の青少年課の課長をしている。おとなし気な風貌に似合わず豪胆にして型破りな人物で、以前にも私的な案件で一肌脱ぐために部下たちをこき使ったことがあった。

「父ちゃんはお節介な嬉しがり屋だから、与謝野の事件だと知ったら、きっと頼まれなくても協力してくれますよ。公私のけじめなんてないんだから」

 友也が請け合った。

「先生」

 蓮童友子がふとつぶやく。

「父だけでなく、私たちにも手伝わせて頂けますか」

「君たちが?」

 小林氏は明らかに戸惑った。ここが探偵倶楽部であることは百も承知のはずだが、所詮「ごっこ」遊びだと思い込んでいるようだ。

「はい。与謝野が心配なんです。きっとお役に立ってみせますから、是非。それにこの愚弟だって遣いっ走りにはすごく便利です。これでなかなか機転も利きますし」

 姉ちゃんに褒められた。気味が悪い。

 



 





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蓮童友子、ほか一人 友未 哲俊 @betunosi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ