第6話

 帰り道、オアシス沿いの小道を歩きながら考える。物語に出てくる恋は、きらきらしていて、素晴らしいものだとされている。もちろん、そういった恋物語を読んで、ライラもどきどきしたりする。けれど、現実の恋はきらきらしているだけでは終わらない。


 物語に描かれるのは恋を成就させた人達の様子だ。でも、すべての人が恋を成就させるわけではない。スージのように、成就できない想いに苦しむ人だってたくさんいる。報われない想いはつらいものだ。切なくて苦しいのに、簡単に捨てられもしない。内からどんどんあふれ出てきてしまう。


 恋など、しない方がいい。ライラはそう思う。物語の中だけで十分だ。

 恋は、人を狂わせる。恋さえしなければ、スージは人を切りつけたりしなかったはずだ。

 恋は、人を不幸にする。制御できない恋心が、卑屈で醜い感情を連れてくる。

 それなのに人は恋をする。恋をしてしまう。したくないのに、してしまうのはどうしてなのだろう。永遠の謎だなと、ライラは思う。



 ふと後ろの足音に気付いた。後ろの人物は、ゆっくりした歩みのライラを、一向に追い抜かそうとしないのだ。これは怪しいとライラは判断すると、一気に走り出した。


「は? ちょっと!」


 後ろから驚いたような男性の声がした。それと同時に、追いかけてくる足音もする。薬を狙っている輩に違いない。こんな目しか見えない姿をしているのに、どうしてバレてしまったのだろうか。それにしても、裾が長くて走りにくい。


「待てってば!」


 声と共に、頭の布を引っ張られた。捕まれないように、とっさに手で振り払う。


「痛ってぇ……だから、ちょっと話を」


 男が何か言っているが、知ったことではない。捕まるわけにはいかないのだ。

 ライラが再び走ろうとした瞬間、思い切り裾を踏んでしまった。体が地面に倒れていく。しかし、強い力で引き戻された。気がつくと、ライラは男に背後から抱きしめられていた。どうやら男が転ぶのを防いでくれた……のか、体よく捕まったのか、どちらだろうか。


「放して! 私は何も持ってないから!」


 必死で抜け出そうともがく。ライラの腕が男の顔に当たったのか、小さな呻きが聞こえた。すると少し男の腕の力が緩んだ。体をねじって出来た隙間に手を入れ、父から預かった小袋を握る。思いっきり握る。力の限り握りつぶす。じわりと袋から汁が滲んできた。


「くっさ! は? 何この臭い」


 男は驚いたようにライラから離れた。辺りには刺激臭が満ちている。臭いになれているライラでさえも、涙が出そうになるくらい臭い。父に渡されたのは、薬草の原料となるへクの実だった。これの果汁は空気に触れると物凄く臭いのだ。ライラは臭いをまといながら再び走り出す。臭いの元をさっさと手放したい所だが、今はこの悪臭がお守りだ。

 二度と近寄りたくない程の臭いのはず。それなのに男がまだ追いかけてくる。ダメだ、気持ち悪くなってきた。走るから息が切れる。でも息を吸うと物凄く臭い。でも吸わなきゃ苦しい。悪循環に頭の中が朦朧としてきた。そして、ライラの意識はぶつりと途切れる。




 心地よい風を感じ目を開ける。ライラはオアシスの泉の辺に寝かされていた。あの悪臭はだいぶ薄くなっている。腰紐を探ると小袋はなくなっていたので、これは残り香だろう。

 ライラは辺りを見渡す。追いかけてきた男はいないようだ。服の乱れも特にないところをみると、あの小袋を取った以外は何もされていないようだ。そこまで考えて、やっと弟のサリムが先日、何故あんなに怒ってきたのかを理解した。


「そっか、私も一応女なんだ……」


 ライラはつぶやいた。そういう意味で乱暴されなくてよかったと、弟は言いたかったのだ。普段、ライラは自分が女だと意識することなく過ごしている。そのせいか、自分がそういう性的対象として見られるかもしれないということに、実感が持てていなかったのだ。


「お、目が覚めた?」


 頭上から声が振ってきた。とっさに上を見るが、逆光で顔はよく見えない。けれど、追いかけてきた声と同じだと気付いた瞬間、ライラは慌てて飛び起きた。


「あの実なんなの? 触ったら手に凄い臭い付いたんだけど。洗ってきたけどまだ臭うし。ていうか、自衛なのかもしれないけど、あんな臭いずっと嗅いでたら倒れるのは当然だろ。もうちょっと考えた方がいいんじゃない?」


 男が何故か説教を始めた。解せぬ。男が追いかけてくるから、あの実を捨てられなかっただけなのに。自分だってすぐに手放したかったわ! と、心の中でライラは反論する。


「あの……私に何か用ですか?」


 男のハッキリとした目的が分からない以上、ライラは下手に出るしかない。


「あー、気が付かない? 俺が誰だか」


 男の声が困ったように響く。知り合いに、こんな声の男がいただろうか。


「すみません。逆光で顔がよく見えないんです」


 素直に告げると男がすぐに動いた。そして、ライラの横に素早く座り込んでくる。


「俺だよ、俺。幼馴染みのシン」


 ライラの目に、人懐っこい笑顔を浮かべた青年が映る。切れ長の瞳に、筋の通った鼻、にんまりと笑う唇は薄く、肌は男性なのに滑らかだ。ターバンから出ている前髪は、サラサラとまっすぐで、オアシスの風に吹かれて揺れている。


「えっ、シンなの? だって、声違うし」

「声変わりして低くなった」

「何か背が高いし、顔つきも何か……男の人だし」


 ライラの反応に、シンが苦笑いを浮かべた。


「そりゃ……俺男だし」

「でもでも、確かにシンの面影はあるけど、なんか、なんか、違う」


 頭ではシンなのだと分かっても、心がざわついて仕方ない。

 だって、記憶の中のシンは、自分より少し背が高いくらいで、ほっぺは柔らかくて、笑うと八重歯が可愛い男の子だった。悪戯好きでいつも大人に怒られていて、二歳年上だったけれど、弟のサリムよりも子供っぽかったのだ。

 それなのに、目の前にいるのは、逞しい体躯をした精悍な青年だった。

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