赦しと癒し 手の中の天秤 桂望実 PHP文芸文庫

執行猶予期間が終わった時、加害者の生活態度や反省状況をチェックして、刑務所に入れるかどうかを被害者や遺族自身が決めることができたとしたら? それを実現する「執行猶予被害者・遺族預かり制度」が施行された社会。新人担当係官の井川は、加害者の反省状況を伝えることで、被害者の痛みや遺族の喪失感を少しでも和らげることができればと考えていたのだが……。

加害者を刑務所に送る権利を手に入れた時、遺族や被害者はある程度救われるのか。逆に加害者は、「本当の反省」をすることができるのか。

架空の司法制度という大胆な設定のもとで、人を憎むこと、許すこととは何かを丹念な筆致で描いていく、感動の長編小説。

アマゾン商品ページより引用


「執行猶予被害者・遺族預かり制度」という架空の司法制度ではあるが、非常によく練られていて、こうした制度のある国があっても不思議ではないと思うようなリアリティを持った作品だった。

かつてこの制度の係官であった井川は今は大学で教鞭を取っている。その授業の中で、自分が新人の時に関わったケースを語るという形で物語は進んでいく。

新人の井川の指導官はチャランポランな風を漂わせているためにチャランと渾名されている岩崎だ。飄々としたチャランと、新人特有の熱意を持つ井川。この2人の対照的な加害者、被害者との関わり方が、やがてこの制度の本質を映し出していく。

執行猶予期間中、定期的に加害者と面談を行い、反省や更生の様子や事件との向き合い方を被害者や被害者遺族に報告する。そして執行猶予期間が終わる頃に、被害者や被害者遺族に刑の執行を行うかどうかの決断をしてもらうというこの制度。

ある種の私刑ではないかとも思えるが、仮に刑の執行がなされるとしてもそれは裁判所が下した量刑に基づくので無茶なことにはならない。

現実の刑法では執行猶予期間中に再犯しなければ刑の執行は無い。社会生活のなかでの更生を期待するこの制度だが、執行猶予期間中、頭を低くしてやり過ごしてしまえば済んでしまうとも言えてしまう。本当に更生しているかどうかはその先を見なければわからないだろう。

執行猶予が付くということは、強盗傷害や殺人などのいわゆる重大犯罪ではないわけだが、過失致傷や過失致死であったとしても被害者や遺族にとっては刑法で罪の軽重を量れるものではない。

被害者・遺族の救済、加害者の確かな更生を願ってのこの「預かり制度」。係官は客観的に見た現在の加害者の様子を、ただそのままに被害者や遺族に伝えることが仕事だ。この物語を読んでいる読者は冷静な視点で見ることができるため、係官は単なるメッセンジャーのようでいて、その実彼らも確かに法執行機関の人間なのだから加害者、被害者、どちらの側にも傾いてはならないということがわかるが、新人の井川は、若さゆえに自分の伝え方で加害者も被害者も救うことができるのでは無いかと考えてしまう。

しかし井川の思うようにはならない。どれほど寄り添おうとしても、癒そうとしても、苦しみや怒りや悲しみ、そして悔恨の念はその本人達だけのものなのだ。理屈では割り切れない人の感情というものを、他者がどうこうできると思うのは思い上がりだということを井川は痛感することになる。

被害者・遺族、加害者双方が立ち直るための制度ではあるが、そのプロセスを係官が手助けできるわけではない。ただ伝えること、見届けることしかできないのだ。

それを井川は自身の失敗やチャランの仕事から学んでいく。

この物語で描かれるのは一つのケースだけではない。加害者を憎み続けるために報告を聞き続ける者、被害者・遺族が恐縮するほどに後悔している加害者。井川は様々なケースを通して、複雑な人の感情を目の当たりにしていく。


気の毒、かわいそう、助けになりたい。


犯罪の被害者や遺族、そして思いもよらぬことから加害者になり悔恨の念に苛まれる人を見て、当たり前に持ってしまうそうした感情。

それらが未だ激情の中にある人にとってどれほど傲慢に映るか。そのことを井川を通して考えさせられるのだ。


真に公平であるということはどういうことなのだろうか。裁くものも人である以上、その天秤は常に揺れている。“法”というものは確かにそこにあるが、システマチックに右から左に刑を決めて流れていくわけでは無い。“感情”というものを全く排除できるものでは無いからだ。

罪は罪としてあり、償われるべきではあるが、人というものを通して事象を見た時、どう罰するべきかということを量る天秤はなかなか揺れを止めない。

激しい怒りの中にある被害者の手に載せられた天秤ですら、罰すべしという方に傾き続けることはない。ふといた瞬間に、彼らの心の中にも罰したからとてこの傷がなくなるわけではないという虚しさが入り込むからだ。

癒しとは何か、赦しとは何か、贖罪とは何か、正しさとは何か。

柔らかい描き口でありながら、この物語の問うものは深い。

手の中にある小さな天秤を手放すことができた時、前に進めるようになるのかもしれない。

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