いかにして言葉を獲得するか ルポ 誰が国語力を殺すのか 石井光太 文藝春秋社

以前から話題になっていた本書だが、林真理子氏の本書を紹介する動画を見てますます興味が湧き手に取った。

よく自分が育てられたようにしか子供を育てられないと言われたりするが、私は子供に恵まれなかった。だから今の子供達が置かれている状況を正確には知らない。

甥、姪はいるが、日常的に接しているわけではないので、無知と言ってもいいかもしれない。

しかし接客業ということもあり、子供と接する機会が皆無なわけではなく、甥姪も含め、自分が子供の頃よりも2、3歳は幼く感じることが多いとは思っていた。

ただ子供を取り巻く状況は変わっているし、親も忙しいのだから子供に割ける時間も減っている。となれば甘えられる時間が貴重になるのだからそれも仕方のないことだろうぐらいに捉えていた。

だが本書を読むと、幼いという言葉だけで片付けて良い状況ではないことを知る。

本書では格差、教育崩壊、SNSの発達の弊害、不登校や非行少年そして先進的で独自性のある国語教育を行っている学校と様々な角度から子供達の言語の獲得に関する考察がなされている。

いわゆる“底辺”家庭に育った子供達の言語の獲得の不足から始まって書かれているが、想像以上に“言葉”を得られていないことを知り愕然とする。

本書で主に取り上げられる国語力とは、文科省の定義でもある「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」である。そしてこのどれもが、言葉を獲得していなければ十分にはできないことなのだ。これを学ぶ以前の段階でつまづいている子供が増えている。

これは文科省も問題視はしているが、肝心の指導要領を決める人たちが「言葉を獲得できない」という視点を持てていないことが問題なのだ。ゆとり教育からの脱却、グローバル人材の育成とお題目は素晴らしいが、基礎工事をしていない土地に家を建てるようなものになってしまっている。

正直にいうと、私自身も想像がつかない状況だった。

私が育ったのは田舎の零細自営業の家庭で、経済的には恵まれているとは言い難かった。はっきり言ってしまえば底辺家庭に片足を突っ込んでいるような状況だった。

しかし私は“言葉”を失うことはなかった。これまでの思い出読書ノートに目を通してくださっている方にはおわかりいただけるだろうが、むしろ他の家庭よりも本の数の多い家だった。

比較的裕福な家庭の出身だった母が嫁入りで持ってきた文学全集、母方の祖父が時折送ってくれた絵本の数々、親戚からお古でもらった児童書。おもちゃの類よりは安価だという理由で、本はまずまず買い与えてくれた。

本書を読むとそれがどれだけ幸運なことだったかを感じる。

おそらくかつて病弱だった母にとって、本は自分の世界を広げてくれる存在だったのだろうと思う。だからこそ子供にもその世界の広がりを感じて欲しくて、読み聞かせや本の楽しさを教えてくれたのだろうと思う。

本だけでなく、“物語”というものが好きだった母は、アニメや漫画も、もちろん時間制限付きではあるが、肯定して生活の中に置いてくれていたし、TVで子供ミュージカルや名作映画が放送されれば率先して観るように仕向けてくれた。

それらについて、どこの場面が好きだった、あの場面はこういうことだったのかな、などと、母娘や姉妹で自然と語り合ったりする環境を作ってくれていたことは“幸運”としか言いようがない。

子供達が自立するまで経済的な不安を抱え続けたであろう母が、豊かに言葉を獲得する機会を持たせ続けてくれたことに今更ながら頭が下がる思いだ。

こうした経験のない子供達が今増えているという。それは底辺家庭とまではいかなくても、親子のコミュニケーションの時間の減少や、物語に触れるよりももっとインスタントな楽しみが増えたこと、他世代との交流の機会の減少など複合的な要因の重なりによって獲得言語が減っているのだ。自分の考えをうまく言語化できない、感情の表出の幅が狭くなり、感情のグラデーションを自覚できなくなっている。

思考の深度を深めることが、言葉の喪失によって困難になっているのだ。


学校教育の場で培われるべき国語力も、教師の多忙化やカリキュラムの複雑化などの問題もあり、困難な状況にあるという。もちろん上位校や私立においてはその限りではないが、教育現場においてもこの言葉の喪失は深刻な問題となっている。

最終章で取り上げているような教育先進校の取り組みを公立校でやることは難しいだろう。

私は正直今の社会に出て役にたつことを取り入れるカリキュラムにそれほど肯定的ではない。

実学だけが学問か。役にも立たないことに没頭できるのは学生の特権ではないのか。文系学問はいらないなどという極論も散見される今日だが、その姿勢が基礎研究の衰退を産んでいると思わないのだろうか。

小中高は役に立たないと思うようなことを教えてもいいと思っている。そもそも役に立っていないわけではない。今世の中にあることのほとんどの基礎には小中高で学んだことが根底にある。私は理数系が苦手で出来の悪い生徒だったが、シンプルかつ論理的に考えるという思考法は数学をやらずして身につくだろうか?言葉を使って説明しようとすれば何ページもかかることを数字と数式と記号で端的かつ正確に表すのが数学という学問だ。そしてそれをするにはある程度の理屈の理解が必要になる。こうした思考方法を学ぶことが他の学問でできるだろうか?

歴史を知らずして今の社会の成り立ちや構造を理解できるか?古今の文学作品に触れずして、想像力や共感力を広げることができるか?言語構造を理解して自分の考えを適切に表現できるようになるだろうか?

子供の興味関心を広げて、個性豊かに育って欲しいと思うなら、学校で学ばせることを実学一辺倒にするべきではない。役に立つか立たないかを基準にしてしまっては、自由な興味の翼を広げるどころかもいでしまうことになりはしまいか。私はそう考えている。


話は少し変わるが、読書は好きだが国語の成績は振るわなかったという人もいる。noteでそのような記事も見かけた。私は国語の成績は良かった方だが、最初からではない。テストというものに初めて触れた小学1年生の時は目も当てられない点数だった。

これも母に感謝しなければならないのだが、点数の悪さに母からどうしてこういう回答になったのかと問われた時、私はこう思ったからそう書いた、と答えた。その時の母の答えが強烈すぎて覚えている。

「誰もあんたの感想はきいてない。」

小1に投げかけるにはきつい一言だが、テストというものを考えれば実に的確な一言だった。テストで問われる回答は、個人的な感想ではなく、その文章を読んで、客観的に共有しうるものを問われている。そしてそれは往々にして授業中に導き出されているものなのだから、それを書くのが学習の成果を問うテストでは正解なのだ。

その良し悪しを問う声はあるだろうが、後に大学でレポートを書く段になって私は母がこの言葉を言ってくれたことに感謝する。物語の世界に没頭して楽しむことと、それを学問として論じることには雲泥の差がある。レポートとして書くには他者にも共有しうる論拠と結論が必要なのだから、ただの感想しか考えられないまま成長していたら死ぬほど苦労していただろう。

文章を読むことにおいて客観的になるとは、自分の感想に他者の視点を持ち込むことだ。自分はこう考えるがそうは考えない人もいる。それはレポートを書くのに必要な反証という技術を身につけることだった。

また姉妹がいたため、おしゃべりの全てに付き合えない母がよく言っていたのは、「まず結論から言え」と、「誰が何したかはっきりさせてくれんと、あんたらの話お母さんわからへん」、である。結論を決めてから簡潔に話すこと、5W 1Hをはっきりさせて伝わるように話すこと。この訓練を日常の中でしていてくれた。

風変わりなところのある母だったが、子供に手加減せずにコミュニケーションの基本をバッサリ切るようにではあるが教えてくれたことにも感謝しなくてはならないと思う。


こうした私にとっては当たり前であった言語獲得が、そうではないのだということを本書では丁寧に書かれている。そして言葉の喪失が生きることを困難にしていることを明らかにするのだ。

以前感想文で書いた天祢涼氏の子供の問題を扱った3作に通底していたことが、本書によって言語化されたように思う。知っているか知らないかが人生を変えてしまう。自分の抱えている問題を言語化できないことで、解決の手段を見つけられずにずるずると落ちていってしまう。


教育業界にいるわけでもない、一般のおばちゃんである自分にできることはないかも知れない。それでも私は“言葉”を持っていることの強みや恩恵を知っている。

今年初めて知った取り組みだったが、本書を読んでブックサンタには毎年参加しようと思った。そして地元の図書館の取組や読み聞かせボランティアなら何か参加できるものがあるかも知れない。

“言葉”を持つことは筆者が言うとおり、人生を生きやすくしてくれるのだ。困難があろうとも、それを解決するための手段を知るこもできるし、なにより何に困っているのか声をあげることができる。

生気ぬく力を得るための言葉を、子供達に与えることを諦めるべきではない。

私に何ができるだろうか。

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