“それ”は本当に“私”か 鏡の背面 篠田節子 集英社文庫

聖母が死んだ。


薬物や性暴力によって心的外傷を負った女性たちのシェルター「新アグネス寮」で発生した火災。「先生」こと小野尚子は取り残された薬物中毒の女性と赤ん坊を助けるために死亡。スタッフがあまりにふさわしい最期を悼むなか、警察から衝撃の事実が告げられる。


「小野尚子」として死んだ遺体は、まったくの別人だった。

スタッフ中富優紀は、ライター山崎知佳とともに、すべての始まり、「1994年」に何が起こったのかを調べ始め、かつて「女」を追っていた記者にたどり着く。


老舗出版社の社長令嬢、さる皇族の后候補となったこともある優しく、高潔な「聖母」の正体とは……。


一方、指導者を失ったシェルター内では、じわじわと不協和音が……。


Amazon商品ページより


名家の出身で不幸な身の上の女性達に寄り添う聖母のような小野尚子。優しく穏やかで慈愛に満ちた、日本のマザーテレサとも呼ばれた彼女が、実は殺人容疑をかけられたことのある、半田明美という全くの別人だった。

彼女はなぜ小野尚子になりすましたのか。

聖母のような女性と、何人もの男を騙して手に掛けてきた女。この重ならない人物がなぜ同一人物になることができたのか。

この物語はそれを追うミステリではあるが、謎解きの物語ではない。半田明美が小野尚子になりすました動機や手口は、途中で明らかになる。そこから追っていくのは、なぜ半田明美は小野尚子のままでいたのか、ということだ。

明美は明らかに途中で目的を見失っている。

なぜ明美は尚子の財産を持って逃げなかったのか。なぜ尚子として生きたのか。

新アグネス寮に暮らす女達はみな問題を抱えてここにやってきた。薬物やアルコール依存、機能不全家庭に育ち精神的に不安定な者やDVから逃れてきた者。

その彼女達の精神的な支柱となっていたのが小野尚子だった。

小野尚子が運営していた新アグネス寮は、もちろん営利団体ではない。資産家の娘である彼女には財産もあったが、新たに富を産み出すような事業をしているわけではもちろんない。

最初はこんなに長く小野尚子になりすますつもりはなかっただろう。どこか適当な所で適当な理由をつけて寮を閉じて尚子の財産を持ち逃げするつもりだった。

だが明美はそうはしなかった。死ぬその時まで、小野尚子として生きた。彼女は何がしたかったのか。

“彼女”の実像を追うのは、生前の尚子を取材したことのある、“普通”に生きてきたライターの知佳と、新アグネス寮の他の女達と同じように事情を抱えて身を寄せ、スタッフとなった優紀、そして典型的な“おじさん”なルポライターである長島の3人だが、この境遇の異なる3人によって“彼女”を語らせることで“彼女”を多面的に見ることができるのだ。

確かにそこにいて、聖母のようだった尚子を信じたい知佳と優紀、それに懐疑的で現実を彼女達に突きつけようとする長島。この視点のバランスが物語をより魅力的にしている。

そしてそこから浮かび上がるのは、“尚子”と同化しつつあった“明美”の姿。

かつて女優だった明美。彼女は決して主役にはなれないが、他人になりきる技術はピカイチだったと評されている。そして明美は、読み聞かせのボランティアを利用して尚子に近づき、尚子の声音や仕草などをコピーしていく。

ある出来事をきっかけに尚子になり変わることに成功するのだが、それは明美が“明美”を失うきっかけでもあった。

別人になりきる。それは自分で自分を殺すことに似ている。次第に尚子に侵蝕されていく明美。だがそれは他でもない明美自身が招いた結果だった。

物語の終盤、明美になにが起きていたのかを知った知佳と優紀、そして長島の反応は対照的だ。

人は生き直すことができる、悪が善に変わることもできると考えたい知佳と優紀、自分で自分を洗脳してしまった、策士策に溺れる、と言う長島と。

どちらが正しいのかはわからない。

けれど明美が残した古いフロッピーディスクに残っていた手記を見れば、どこかの時点で明美が“明美”を失いかけていたことは明白だ。

燃える寮の2階に戻り母子を助けようとして焼け死んだのは“尚子”だったのか、“明美”だったのか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る