想像力の無さが希望を殺す 希望が死んだ夜に 天祢涼 文春文庫

神奈川県川崎市で、14歳の女子中学生・冬野ネガが、同級生の春日井のぞみを殺害した容疑で逮捕された。ネガは犯行を認めるが動機は語らない。

事件の担当となった神奈川県警刑事部捜査一課の真壁巧は生活安全課の仲田蛍と組むことになる。仲田は子供相手の事件で実績を積んでいるが一風変わった人物として同僚からは敬遠されている。

子どもの扱いに長けているという理由から、最初にネガと接していた仲田。真壁が取調室に入りネガの取調べをするが、やはり殺したと繰り返すばかりで動機には触れない。「こういうの、半落ちって言うんでしょ」と不敵な態度をとって見せる。

同級生の中で浮いた存在であるネガと、優等生で皆から一目置かれているのぞみ。正反対の二人に接点は無く、捜査は難航するが、やがて意外な事実が浮かび上がってくる。

希望の「希」という漢字が「ねが(う)」と読むことから名づけられたネガは、母親の映子と川崎市登戸のボロアパートに暮らしている。映子は弁当屋とスナックで働いていたが、体調が悪いとあまり働かず、映子の父が健在だからという理由で生活保護も得られない。どうしても高校に行きたいネガは、年齢を偽って居酒屋でバイトを始める。

その居酒屋でのぞみもバイトをしていた。裕福な家庭の子と思われていたのぞみだが、母が亡くなり父子家庭になったことから時短勤務となった父は収入が減り、不景気のあおりを受けて早期退職、再就職先を探すもののうつ病を患い困窮していた。

のぞみにはフルート奏者になるという夢があり、そのために音楽科のある高校に特待生で入るという目標があった。その夢をかなえるために、のぞみもまた父に内緒で働いていたのだ。

居酒屋でのバイトを通して急速に仲が縮まった2人。

真壁と仲田はその事実を知り、ネガがのぞみを殺したというのは嘘ではないかと思い始める。ネガとのぞみは親友で強い結びつきがあり、ネガがのぞみを殺す動機がどこにもない。

ネガはのぞみを本当に殺したのか。

ネガは2人に言う。

「わかんないよ。あんたたちにはわかんない。何がわかんないのかも、わかんない」


子供の貧困に焦点を当てたミステリー。

子供の貧困、貧困の連鎖、周囲の無理解、自己責任論。

これだけを見ると、そんな主題はもうお腹いっぱいだと思う人もいるだろう。

が、この作品はもう一歩踏み込んでいる。

真壁と仲田という2人の刑事。真壁自身も母子家庭で育ち、母を楽させたいと公務員を目指し警官になり、今は上司に将来を期待されている身だ。一方の仲田は、背景こそ見えないが、真摯に子供に寄り添おうとする刑事で、たびたび“想像”することで事件を掴もうとする。

捜査に必要なのは“事実”の積み重ねであり、確たる“証拠”だ。“想像”は必要ない。セオリー通りに考えるなら“想像”は“憶測”を産むだけで、寧ろ邪魔なのだ。

しかし仲田は“想像”する。犯人の心情を、状況を。そして被害者のそれもまた。

それがゆえに仲田は同僚から変人扱いで敬遠されているが、大人の理屈では読みきれない子供の心理に相対する時、仲田の想像力は大きな意味を持つ。

ひもじい思いはしていないじゃないか、衣食住は足りているじゃないか。

貧しいと言いながらスマホは持っているじゃないか、化粧をしているじゃないか、お金の使い方がおかしいんじゃないか。

教育?奨学金があるだろう、学力も足りてないのに高等教育を望むのか?

そもそも働ける体があるんだから努力が足りてない、そこから抜け出す努力はしているのか−−

貧困に関するニュースをみて、上記のようなことを思ったことはないだろうか。正直に言うが、私は思ったことがある。

なぜ身の丈に合わないことを望むのか。そんなことまで面倒をみてやらないといけないのか。そもそも税金を納めている私だってそう裕福とはいえない暮らしをしているのに。

私は自分は想像力はある方だと思っているが、それは私の思い込みに過ぎないことを仲田に指摘される。現代の貧困を考える時に、前時代的な貧困のイメージで語ろうとしてしまっていることに気づくのだ。

今仕事をしていて(バイトでも同じだ)、スマホなしに過ごせる人がどれだけいるだろうか。すぐに連絡がつくことに慣れきって仕事をしている人間が、経済的な理由で持てないという人間のレスポンスのペースに我慢できるだろうか?すぐに連絡がつけられない、都合を聞けないならうちでは働いてもらうのは難しいよ。そういう雇用主だってきっといる。

このコロナ禍でリモート面接が一般化し、勤務形態もリモートが浸透しつつある今、ネット環境が何一つない人間に勤め先が見つかるだろうか?

義務教育以上は無理して受ける必要無いと言うが、中卒できちんと生活を維持していけるだけの仕事に就ける子がどれだけいるか?高校が半分義務教育化している今、中卒は現実的ではない。

化粧品は贅沢だというが、どれだけの会社や人がスッピンを許容している?

そういう“今”になっているのに、なぜ貧困の問題を語る時は昭和3、40年代のような貧困のイメージで語って非難めいたことを言ってしまうのか。

私が今書いたような偏見を真壁も持っていた。努力して抜け出せばいい、自分は努力していた、と思っている。しかし仲田の“想像”に接しているうち、努力することに集中できた自分の幸運に気づくのだ。

少なくとも真壁の母は真壁に寄り掛かろうとはしなかった。足りないことはあれど、親の勤めは果たそうとしてくれていた。真壁が努力するだけでいい環境を作ってくれていた。

ほんの少し、“今”というものに想いを巡らせれば、“普通”が手に入らないことがどれだけ生きづらくさせるかと言うことがわかるはずなのに。

ネガは高校の学費のために、とバイトを始めたのに、母はそれに甘えてますます働かなくなる。甘えるように学校が休みになればシフト増やせるよね、と言う。

まともな家庭を知らずに母親となった、精神は子供ののままの映子。そんな母を疑問に思いながらも受け入れてしまうネガ。

アフリカの子供ほどは困っていないだろうという教師の言葉をなんとなく飲み込んでしまい助けてを求められなくなっていたネガ。

それをおかしいと教えてくれたのはのぞみだった。高校を諦めてはいけないと、希望を与えてくれたのものぞみだった。

誰よりも希望に支えられていたのぞみだったから、ネガにも希望を与えることができた。

けれど、2人の希望は断ち切られてしまう。彼女達を生かしているものが何なのか“想像”できない大人達によって。

希(ネガ)望(のぞみ)は殺されてしまうのだ。

困難な状況にあれば大人も余裕がなくなり、子供達に十分気遣うことはできなくなるだろう。大人は子供が思っているほど大人では無い。けれど、最低限子供に対して守ってやらなければならないラインはあるはずだ。この子達は今生きている自分達よりも、生きる時間は長いのだから。

仲田のように“想像”することができていれば、防げたかもしれない悲劇。

生きようとする子供達の鮮烈さに、大人のエゴや事なかれ主義の汚さが否応なしにさらけ出される。

ある意味親友に裏切られて1人生き残ったネガ。

彼女の心はまだ“生きて”いるだろうか。

希望が死んでしまったこの暗い現実の中で。

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