42,人界のターニングポイント その2






 たった一言の『言霊』で息絶えた三人の男達を見下ろし、私は深々と溜め息をこぼした。


 如何に裏世界にて日本の国防を担う【輝夜】といえど、末端の構成員では私の脅威足り得ない。然程の天力を費やさずとも、速やかなる安楽死を齎す程度なら容易いという他になかった。

 収穫と言えば収穫だろう。今の私なら人間の過半数が障害にならないと知っているが、それは私の経験や学習に拠らない事前知識に過ぎなかったのだ。実際に確認が取れたのは自信になる。だが私としては直接人間を殺めてしまったことには、些かの慚愧の念を覚えずにいられなかった。それはやはり人殺しは悪だという倫理観念が私の中にあるからに違いない。

 にしては罪悪感が全くないわけだが、感受性の変容に関しては流石に自覚している。意図的に人を殺めたことに関して、一ミリも衝撃を受けていない件は強く戒めるしか対処法はなかった。


 まあ今は気にする必要はない。


「ん……」


 三人の男達の傷一つない遺体目掛け一筋の影が伸びていく。私は一度それを見たことがあった為、特に妨害することなく見過ごした。代わりに影の伸びてきた方を一瞥する。

 そこには見知った老婆がいた。老婆の足元から伸びた影は三つの遺体を飲み込み、無間の闇へと引きずり込んでいく。私はそれを認識しつつ、気配なく現れた老婆に声を掛けた。


「勅使河原さんですか。こんな時になんの用ですか? 貴女にはたしか、アキナシさんの指導という役割があったと記憶しているのですが」

「ああ、心配しなさんな。それならもう済ませたよ」


 影を戻した老婆、勅使河原誾は常の穏やかな微笑を湛えたまま肩を竦めた。

 勅使河原は説明を求める私の視線に答えながら歩み寄ってくる。


「所詮は身寄りを失くしてヤケになってるだけの小娘だがね、馬鹿とハサミは使いようさ。力の使い方と心構えだけはウチの術で刷り込んでおいたよ。何をしたところで付け焼き刃にしかならない素人なんだ、洗脳でもなんでもして、敵を攻撃することに躊躇しないよう調整するのが一番さね」

「洗脳だと?」

「そう睨みなさんな。いざって時に躊躇った挙げ句、隙を突かれおっぬよかマシだろう? 精神面での調整さえ済ませりゃ、アンタの与えた加護の性能でゴリ押しにするのが最適解なんだ。細かい技術や立ち回りは、これから先じっくり時間を掛けて身に着けさせるのが最善だと判断したまでさ。三十年みっちり鍛えりゃ一流にはなれるんじゃないかねぇ……文句があるならアンタが鍛えてやりゃいい。ウチより上手く調整できるならね」

「……アキナシさんに説明はしましたか?」

「もちろんさね。自由意志で本人に選択させなきゃ、アンタの不興を買うのは目に見えてるからねぇ、一から十まで懇切丁寧に説明してある。それより、ほら。アンタにはこれをやっとくよ」


 言いながら放られたのは、淡い黄金色の粒だった。見覚えがある、それは人のマモだ。掴み取ったマモの粒を見もせずに、私は目を細めて勅使河原を見据える。


「なんのつもりです」

「アンタが仕留めた【輝夜】の末端三人、ソイツらの骸から抽出したモンだ。ウチには無用の長物だからね、アンタが食っておやりなよ」

「……私は、人の魂を食べる気はありません」

「四の五の言わずにさっさと食いな。ソイツは【月の虫】に寄生されてた奴のマモなんだよ? 放っておいたら跡形もなく消滅しちまうじゃないか。完全に消え去らせちまうぐらいなら、天使であるアンタが食って供養した方がずっといい。無駄になんないんだからね」

「………」

「それにアンタが何を思って断食・・してんのかは知らんがね、完全にマモを断ってりゃいずれアンタは衰弱する。飯を食わなきゃ力が出ないのは誰でも同じなんだ。食わないと死んじまうよ?」


 勅使河原の言に、私は眉を顰める。だが理解できる理屈ではあった。

 人のマモを食べることに私は抵抗を覚えていた。人の魂を口にしたら後戻りできなくなるような気がしていたからだ。しかもマモを美味と感じてしまうのが心理的な抵抗感を強めている。

 だが勅使河原の言う通り、いつまでも断食しているわけにはいかない。人の食い物を食べることは出来るが、そこから摂取できる栄養だけでは天使としての空腹を満たすことは出来ないのだ。


 抵抗はあるが、これが天使を含めた人外の生態だとすると、いつまでも毛嫌いしているわけにはいかないのが道理だろう。私だって死にたくはないのだ、いずれは食べないといけない時が来る。それがたまたま今だったというだけのことで、罪もない人のマモを食べたりするようにならなければいいだけのことだ。ただそれだけの話である。


 理屈として受け入れた私は躊躇いつつ、掴んでいたマモの結晶を口にする。


 ――途端に口内へ広がる筆舌に尽くし難い旨味。


 甘露であった。甘く、しかし辛く、濃厚なようでさっぱりしていて、ありとあらゆる美食を生ゴミ以下の汚泥に貶めるかのような味が舌を蹂躙した。

 一瞬何もかもを忘れて恍惚としてしまう。だが、直後に飛来した無数の情報の奔流で我に返った。


「………」


 流れ込んできたのは、マモの持ち主である三人の男達が辿ってきた人生の軌跡だ。

 どのような家に生まれ、どんな親兄弟に囲まれ育ち、どのように生きてきたのか。人間三人の明確な記憶の数々と、まるで己の物のように追体験する感情の瑞々しさ。これまで相対した人外、犠牲にしてきた仲間や己の家族、そして最後に対峙した私の顔が見えた。

 特に濃密だったのは、三人の中で年長だった大塚文雄という男の人生だ。組織の末端、下っ端、替えの聞く人材。そうであっても五十数年分の人生の重みは若造の私にとっては非常に重く――


「……はぁ」


 こんなものは・・・・・・要らない・・・・。だから軽く吐いた息と共に、他人の人生の情報を押し流した。

 私の反応を見守るフィフと、微塵も表情を動かさない人の好さそうな老婆を尻目に、私はマモの味わいを忘却してしまう。全く以て不要極まる故に。


「どう? はじめて新鮮なマモを食べた感想は」


 フィフがからかうように言う。

 私はじろりと彼女を睨むも、すぐに目から力を抜いて吐き捨てた。


「どうもこうもない。味はクセになりそうなぐらい美味いが、他人の人生なんかを見せられては愉しむ気になれん。私には重過ぎるし、余分だ。いちいちまともに受け止めていたのでは、私の頭の方が破裂してしまいそうだよ。今後はこの手の情報は遮断する」

「あらそう。ま、妥当だと思うわ。私のモデルもほとんどそうしていたし」

「ヒヒヒ……流石は天使様だねぇ。人間一人の人生なんざ、記憶する価値すらないとは」


 なんてことのないように私の答えに同調するフィフとは別に、勅使河原は嫌味ったらしく嘲笑う。

 心の温度が下がるのを感じつつ、私は勅使河原に能面のように平たい視線を向けた。


「……勅使河原さん。貴女は私にわざとマモを口にさせ、彼らの人生の情報を追体験させましたね。なんのつもりか答えてください」

「なんのつもりも何も、普通に善意しかないさ。どうあれいずれは同じ目に遭うのは確実なんだよ。ウチみたいな人間が他人のマモを取り込んじまったら、アンタの言うように頭がパンクするのがオチでもある。折角の資源を無駄にするよりこうしていた方がいいだろう」

「なるほど、よく分かりました。本音を話すつもりはないことが。……話は終わりです」

「ヒッヒッヒ、怖や怖や。それじゃ最後にババアからの忠告でも聞いときな。エヒムの坊や、自分が内心でどう思おうと、アンタはもうとっくにバケモノなんだ。人間だった頃みたいに甘いこと抜かしてたらいつか足元を掬われる。それが嫌ならさっさとバケモノとしての自分の芯を作っときな。さもなきゃなんもかんもが中途半端になっちまうよ?」


 言いたいことを好き放題に言い放って、着物姿の老婆はシニヤス荘の方へと踵を返した。

 楚々とした足取りに音はない。気品がありながら華がない。彼女の背中を色のない目で見詰め、シニヤス荘の中に消えたのを見届けた私は意識を切り替える。

 勅使河原の真意がどこにあるのかなどはどうでもいい。だが気を許していい相手ではないという認識だけを胸の内に留め、今後の展開について思いを馳せた。


「――あ、もう終わっちゃってます?」


 すると勅使河原とは入れ替わりに、渦中の人物である少女、家具屋坂刀娘がやって来た。

 見れば彼女の手首にも、五郎丸達に支給したものと同じモノがある。彼女の大太刀がその腕巻きに格納されているのを感じ取れた。


「ああ……刀娘か。終わりはしたが、始まったとも言えるな」


 仕事の支給品を勝手に取るなと叱るべきか悩んだが、彼女もバイトとはいえ従業員であることに変わりはないなと思い直す。

 仕事の場ではない為、素の態度で応対した。刀娘は近くのフィフに不躾な好奇の視線をやりつつ私のすぐ傍に寄り、自然体のまま会話の端緒を開く。


「始まった、ってことは……【輝夜】のヒトを殺っちゃったんですね」

「穏便に済ませたかったんだけどな、ああも取り付く島がなければ話し合いもクソもない。なぜ刀娘を狙っているのかは知らんが、少しは穏当に解決しようとする姿勢は見せてほしかったよ」


 無闇に人を殺めねばならない選択は可能な限り避けたいと思う。もう過ぎた話だから、いつまでも未練がましくするつもりはないが、人間を害する行動は今でも避けようと考えてはいた。

 だが無理はしない。私が守るべきなのは敵対者ではなく、無関係な人や自社の従業員である。責任ある立場になってしまったからには、敵は鏖殺してでも身内を守るべきだと決めてもいた。

 刀娘は気まずそうに身動ぎする。フィフは何か物言いたげにしていたが、結局何も言わずに透明化した。己が私の分身だと弁えているからこそ、口出しは控えようと判断したらしい。口頭での説明がなくても理解できるあたり、私のフィフへの理解が深まったようだ。


「……これからどうするんです? 一応アタシの問題に巻き込んでるカタチなんで、アタシにできることならなんでもしますよ」

「お前はうちの従業員なんだ、当たり前だろ。刀娘には新人三人の世話を焼いてもらうことになるからそのつもりでいてくれ。で……これからどうするのかという質問に関しては……」


 頭の痛い話だが、と前置きして。


「現状、月の国とやらの所在地、構成員、目的の一切が不明である以上、しばらく専守防衛に徹さなければならんわけだ。だがそんな悠長に事を構えていたら、【輝夜】の人員を無意味に排除し続ける羽目になるし、よしんば【輝夜】を潰せたとしても、月の国とやらが手駒を変えたらイタチごっこになるのが目に見えている。故に奴らの居場所を探し出すのが当面の目標になるだろうな」


 おまけに月の国だけが脅威というわけでもない。東京や埼玉の件で好き放題してくれた【曙光】もこのまま大人しくしているとは思えないし、それに対応する為に【教団】が動くのも明白だ。

 既に二回も公の場でやらかした【曙光】の連中が、今後は自重してくれる保証もない以上、無関係の人々を保護する必要性に駆られる場面が出てくる恐れは充分にあった。

 月の国ばかりにかまけている暇はない、というわけである。アグラカトラの方針は理解に苦しむが、月の国に関する案件は私が預かった為、他の問題に関する対応は社長に任せたいが……肝心の組織力が底辺である【曼荼羅】に、複数の案件に対応する力がないのが辛い。


 故に私に出せる結論は一つだ。


「――今最も厄介なのは【曙光】だ。忌々しい悪魔信仰者どもが要らんちょっかいを掛けてくるかもしれない。だからアイツらを一度叩かないことには落ち着いて本命に対応できんだろうよ」

「長いです。簡潔に言ってください」

「……纏めると【教団】に対しては無難にやり過ごし、【曙光】を黙らせ、月の国の本拠点を特定するといった手順で行動することになると考えている」

「へぇ……つまり後手後手に回ってなし崩しに事態が好転するのを待つ、ってこと?」

「有り体に言うとそうなるな。はっきり言って【曼荼羅うち】の組織力がゴミ過ぎて、できることが少なすぎるわけだ。底の浅いリソースしかない今、私達は相手からのアクションを待たないと、何をするにしても明確な方針を立てられない状況なんだよ。悲しいが」

「情けなさ過ぎて泣きたくなりますねー、それ。でも心配しなくていいと思いますよ?」

「……どういうことだ?」


 意味深な発言に眉根を寄せ反駁すると、刀娘はニヤリと嫌らしい笑みを浮かべて言った。


「エヒムさんは自分の強さに対する自覚が薄いですね。いいですか? なんでかアタシを狙う月の国の奴らは、【月の虫】を通して知っちゃったんですよ。アタシがエヒムさんっていう、現代だとレアな超越者の庇護下に入ったってことを。これは割と致命的なんです、なんせ現代でエヒムさんに対抗できるレベルの超常存在は少ない。地上の駒をどう動かしたところで、エヒムさんの庇護下にいるアタシをどうこうできる訳がないんです」

「……つまり」

「はい、つまりそういうこと・・・・・・です。本気でアタシの身柄を確保したいなら、地上の駒なんかに頼らず自分達が出張ってこないと、エヒムさんからアタシを奪うことはできません。【輝夜】にも相当なバケモノはいますけどね、流石にその人達には【月の虫】も寄生できないでしょうし」

「……待っていたら勝手に墓穴を掘る、か」


 さっきフィフが言っていた通りの展開になるわけか。私もそうなる可能性はあるとは思っていたが、刀娘が私やフィフと同じ考えなら現実的にありえると想定しても良さそうである。

 となると、幾らでも手の打ちようはある。後手に回るのに変わりはないが、無為なイタチごっこを避けられるとなれば明るいニュースになりそうだ。

 しかし履き違えてはならない。驕ってはならなかった。確かに私の肉体が有するポテンシャルは、刀娘の言う通り卓越したものではあるだろう。しかし私自身の戦闘経験が浅いゆえに、ロイ・アダムスにされたように一部の強者には翻弄される可能性は高かった。

 ロイの時は読み合いで上回れたからなんとかなった。天力量が格段に向上した――否、加護を与えていた【天罰】の面々が死亡した為、元の性能に戻った今の私なら、ロイを相手にしても万が一はもう無いと断言できるが、彼以上の実力者がこの世にいない訳ではないし、初見殺しの能力者に巡り合わないとも限らない。油断は禁物という他にないだろう。


 私がそう考えていると、刀娘は嫌らしい笑顔のままさらなる爆弾を投下してきた。


「あと月の国の場所もなんとなく分かりますよ? 太陽の隣に月が浮かんでるのがアタシには視えてますからね」









  †  †  †  †  †  †  †  †









 宴会。この字面を見た者は、ほとんどが飲めや歌えやの大騒ぎを想像するだろう。

 だが【輝夜】の本拠点、京都の一角を占有する広大な旅館の一室に集まる者達は、豪勢な料理や酒を口にしながらも無駄口を叩くことはなかった。左右一列ずつ並べられた卓を前に正座して、それぞれが上品に箸を動かし、あるいはお猪口に注がれた酒を嗜んでいる。

 沈黙。ただただ、重たく堅い空気が畳間の客室に満ちていた。

 左右の座には十五人ずつが並び、総勢三十人の男女が老いも若きもなく座している。そして左右の座を平等に見下ろせる上座には、さながら戦国大名の如き威厳を纏った壮年の男が寛いでいた。


 白髪の混じった、藍色の着流しを纏った長身の男だ。もうすぐ老境に差し掛かろうとしているその男は、自然体で寛いでいても他を圧する覇気を宿し、平素の眼力にも尋常ならざる剣気が込められている。傍らに置かれた打刀が飾りでないことなど一目瞭然だろう。

 肘置きに凭れ掛かり、下座の面々が事務的に交わす会話を見遣る男は、重厚な存在感を抑えようともせずに盃に口を付ける。口に運ばれた酒は極上の品、しかし男に酔う気配は微塵もない。


「――当家の担当する区画に、貴殿の担当区画から妖怪が流れ込んでおる。取るに足らぬ雑魚だったからいいものの、些か怠慢が過ぎるのではないか?」

「何を申されるかと思えば、斯様に些末なことか。当方から貴殿の担当区画に小者が流れ込んでいる程度で文句を言われる筋合いはない。当方など既に三度は貴殿の方から流入した小者を処理しておるのだぞ? だがそれで当方が貴殿に苦情を申し立てたことがあるか? ないだろう。その程度ならば互いを補い助け合えばよいことだ。暗黙の決まりごとを先代に教わらなかったか?」

「よく喋る。当家は何も、妖怪の流入を大袈裟に騒ぎ立てたいのではない。当家の管理する『大妖』が何か忘れたわけではなかろう? 当家は狐の大妖、白面の九尾の封印を受け持っておるのだ。何が言いたいか分かるか?」

「む……もしや」

「そちらから流れ込んできたのはな、狐のあやかしだ。九尾の狐の封印を破ろうと、当家に忍び込もうとしておったのだ。これが狐以外の妖怪であれば、当家も貴殿を非難する気はなかった」

「ぬ、ぅ……その件には、謝罪しよう。相済まぬ。この通りだ、許してほしい……今後は此度のような失態は犯さぬことを誓う」

「謝罪は受け入れる。故、もう頭を上げてくれ。担当区画が隣り合う家同士なのだ、これからも補い合い助け合おうぞ」

「うむ……」


 左右で正面に迎えた相手と語り合う者達。円満に済んだ話は、既に上座の男は把握していた。

 男は卓に盃を置きつつ、声に出さずに思う。


(無能共め)


 辛辣に内心吐き捨てたのは、どちらもが『小者の狐妖怪』と認識しているモノが、実は小者などではないことを知るが故のもの。

 両家が事態を察知するよりずっと先に感知した男は、家の者を遣いに出して密かに狐妖怪を弱らせていたのだ。分家の者達の面子を潰さず、領分を侵さぬ為に、わざわざトドメは刺さずに。

 件の狐妖怪の位階は『空狐』だった。狐妖怪――妖狐の位階は野狐、気狐、空狐、天狐の順にあり、二番目の位階だった件の妖狐は神に等しい天狐ほどではなくとも極めて厄介な妖怪である。

 現代では非常に稀有な、強力な外敵だった。【輝夜】を率いる頭領家、男が当主を務める本家の術士でなくば太刀打ちできなかっただろう。


(血を分けた分家といえど質の低下が著しい。どうにかして血を入れ替え、刷新せねば血が腐る)


 男。【輝夜】の頭目たる匠太刀武蔵屋ショウダチ・ムサシヤは、緩やかに弱まる血の力に危機感を懐いていた。

 明治時代から始まったとされる、【輝夜】の武力の低下は匠太刀一族にとって解決しなければならない課題であった。

 武力が弱体化している原因は分かっている。【輝夜】が創設時から戴いていた神、アラビトブシが外なる世界へと立ち去ってしまったからだ。人間とはどれほど研鑽しても、所詮は弱者。大いなる超常存在の庇護なくして、世の不条理に立ち向かう術はほとんど無い。

 匠太刀一族は辛うじて最盛期の力を維持できているが、それ以外は目も当てられない。嘗ての頼りになる分家は力を弱め、組織として見ると斜陽を迎えているのを認識せざるを得なかった。


(刀子め……)


 武蔵屋は全く面に出さないまま、内心憎々しく娘の顔を思い出す。行方を晦ませた家出娘の顔を。

 匠太刀刀子。才気煥発にして、次代の匠太刀家当主の筆頭候補だった少女。匠太刀家が代々受け継いできた当主の証、『荒火土アラビトの分け御霊』を継承すれば、すぐにでも武蔵屋を凌駕するであろう武才を秘めていた。

 だからこそ【輝夜】に属する二人の超人の片割れ、鬼柳千景に武蔵屋は頭を下げて弟子に取ってもらい、の剣神の如き女仙の剣術を学ばせたのである。武蔵屋も打算込みとはいえ娘を精一杯可愛がり、正室の女や乳母に任せきりにせず教育に勤しんで、手塩にかけて育て上げてきた。だというのに、家出だと? そんな身勝手な振る舞いをする娘に育てた覚えはない。


 武蔵屋は、刀子に期待していたのだ。


 刀子ならこの斜陽を迎えた【輝夜】を立て直せる。根拠はないというのに、不思議と娘を見ていたら確信してしまうのだ。武蔵屋の中にある『荒火土の分け御霊』が囁いている気がするのである。この少女こそが、【輝夜】が長年求め続けてきた存在なのだ、と。

 だからこそ失望している。怒りもしている。かといって見限り、捨て去り、忘れる気はない。武蔵屋はなんとしても娘を探し出して、なんとなれば自分の手で連れ戻すつもりでいた。

 勝手な真似をした咎は、拳骨の一発でも落とさねば気が済まない。どれだけ心配しているか分かっているのか、あの馬鹿娘は。心を占める怒り、不安、親心を鉄面皮の裏に秘め目を閉じる。


 瞑目した武蔵屋の耳に、下座の会話の一部が入ってきた。


「――そういえば聞いたか、越前の」

「なんの話だ、要石よ」

「いやなに、東京と埼玉の一件よ。我らが日ノ本に【曙光】が潜み、よからぬ企みをしておったのは皆も把握していようが、あのような愚行を侵すとは想像だにしておらなんだ」

「であるな。それが? その一件は武蔵屋様が近く号令を掛け、掃討に移るという話であろう」

「左様。しかし東京を守護しておった太刀之浦タチノウラ家当主が言っておったらしいぞ。なんでも――」


 と、その時だ。武蔵屋の傍に一体の影が忍び寄る。

 無論、接近には気づいていた。反応を示さなかったのは、それが何者かも察知していたからである。

 人型の漆黒。人を黒い墨で塗り潰したかのような暗黒の影。それは匠太刀家に仕える忍の者。中でも武蔵屋が重宝する、忍の中でも特に優れた者だった。


勅使河原・・・・か。何用だ?」

「主殿、お耳を拝借」


 誰も忍、勅使河原の者の存在に気づいていない。

 衰えたりといえど、ここに集うは【輝夜】主要の者。匠太刀家の分家を預かる一廉の強者であるはずなのに、だ。それほどの隠密の使い手なのである、勅使河原の忍というものは。

 勅使河原の忍の中でも一等に信を置く、勅使河原一族の現当主が耳打ちしてくる話の内容に、武蔵屋はただ黙して耳を傾け。次第に眉根を寄せ、鉄面皮を歪め、纏う覇気が平素のものから戦時のそれへと変化していくのを抑えられなくなっていった。


「……真か」

「間違いなく」

「そうか。報告は終わりか?」

「いえ、もう一つ」


 まだあるのかと武蔵屋は口元を歪める。だが主の苛立ちを気にも留めず、影は淡々と続けた。


「妖の血を混ぜた北欧の者の一族、カルグラム家のウィンターという娘をご存知か」

「愚問。実験的に半妖を【輝夜】に組み込む沙汰を下したのは俺だ。把握しておるに決まっておろう」

「ウィンターの属する隊が敗れました」

「何?」


 北欧のとある一族と、日本人のハーフ。その者に呪術で縛ったとある妖怪を番わせ、半妖として生まれさせたウィンター・カルグラム。その性能、才能は分家当主を凌駕するものだった。

 今はまだ未熟だが属させた隊は精鋭である。それが敗れた? 何があった。勅使河原の忍が耳元で囁く報告に、武蔵屋は遂に肘置きに拳を叩きつけて破壊すると勢いよく立ち上がる。

 ギョッとした分家当主達の視線が集まるのを気にも留めず、武蔵屋は焦燥も露わに語気強く命じた。


「下がれ、木月きずき


 勅使河原の忍の名を呼んで下がらせる。幻のように消え去った忍を意識から外し、武蔵屋は居並ぶ面々を見下ろしながら言った。


「聞け、皆の者。東の京の地に、【曼荼羅】なる木っ端が在るのを掴んだ。戦の支度をせよ、各々の抱える最たるつわものを出せ。当家の者に指揮を取らせる。此度の会合はこれまでだ。散れ!」








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食べられて天使になった俺、終わりゆく現代世界に光あれと呟く 飴玉鉛 @ronndo

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