41,人界のターニングポイント その1






 人間とは弱い生き物だ。


 物理法則という貧弱な枷に囚われる程度の身体能力、物質界の病原体のいずれかだけで死に至る免疫機能、酸素がなければ一時間も生存できない脆弱さ。激しい寒暖に耐えられず、肉体が僅かに損傷するだけで再起不能となる哀れな構造強度。突然変異で生まれた一部の才人や、過去から連綿と続く血族だけが有する霊力も、ほとんどが超越者たる上位存在の影すら踏めない。

 人は弱い。それもそうだ、元はといえばマモを生むだけの家畜に過ぎず、単なる家畜として運用するのは勿体ないとして、便利な兵隊として設計され直したのが現行人類なのである。ほんの四千年前に遡る程度の起源からして、人が弱者の域から出ないのは当然だった。


 だが弱者には弱者の論理があり、道理があり、意地がある。


 ただ食い物にされるだけの立場に甘んじず、自分達の身は自分で守ろうと奮起する者も少なくない。その為にあらゆる努力を重ね、時には恥も外聞もなく上位者の庇護を受け、智慧を磨き、術を開発し、血と汗を流して人という種の貧弱さを克服しようと研鑽した。

 上位存在にはない数を力に、特異な力を取り込み続け、数千年もの間必死に牙を研いだのだ。全ては人という知性体の尊厳の為だ。食われるだけの存在意義を否定して、家畜という立場から脱却する為には、人よりも上位に位置する生命達に侮られない力が必要だから。

 人は弱い。弱いからこそ臆病であり、貪欲であり、狡猾にならなければならない。表世界という家畜小屋から脱して、裏世界という世界の真実の姿に対抗する者達は、自らが弱者であることを自覚しているからこそ、何よりも賢明でなければならなかった。




「――ようこそ、【輝夜】の皆様。当方に何用でしょうか?」




 故に、訪れた先にいた存在を目にした時、人間達は本能が掻き鳴らす警鐘を一瞬で認識した。


 人外。


 其処に立つ理不尽。人の形をした惑星。言葉を話す別法則。そう形容するのが最も妥当となる、あまりに人から掛け離れた埒外の理だ。

 たとえ力を抑え、律していようと関係ない。どれほど完璧に力を隠そうと、人とは異なる規格の存在であることは、裏世界に生きる者であれば鋭敏に感じ取れて然るべきものである。

 一目で人か否かを判別する識別能力アンテナの強さは、裏世界に生きる人間には必須となる能力だからだ。その精度の高低が生死に直結すると言っても過言ではない。裏世界に精通したプロフェッショナルは、須らく人外の纏う『人でなし』の気配に敏感であることが求められるのだ。肉食獣の気配を鋭敏にキャッチする、臆病で慎重な草食獣の如くに。


「(大塚班長……こ、コイツは……!)」

「(狼狽えるな。最悪のケースだが、想定はしていたはずだ。俺が対応するからお前は黙っていろ)」


 男――【輝夜】の構成員は体の中心を貫く戦慄を抑え、冷や汗を背筋に浮かべながらも冷静に呼吸を整えた。そうしながら率いてきた二人の部下を宥め、班長として毅然と背筋を伸ばす。

 東京の一角にあるシニヤス荘なるアパート。男達がそこを訪れたのには理由がある。シニヤス荘は一般人を大量虐殺し、更には【輝夜】の構成員を次々と惨殺する超危険人物、家具屋坂刀娘が足繁く通う場所であると調べがついていたからだ。


 彼らの目的はあくまで家具屋坂刀娘の確保、あるいは殺害である。シニヤス荘には此処がどういう場所なのか、先行偵察へ赴いて来たに過ぎない。

 家具屋坂刀娘の凶行が、果たして如何なる目的の下にあるのかを知る必要があったのだ。家具屋坂刀娘が人格破綻者で殺戮を愉しむ外道であるのか、はたまたなんらかの目的で【輝夜】を攻撃する敵対組織の構成員なのか、情報を確定させたいという思いが【輝夜】上層部にあったのである。故にシニヤス荘が敵性組織の拠点であった場合、そこに人外がいる可能性は想定されていた。


 五名の部下を持つ男は白髪混じりの総髪を撫で、出来る限り穏やかな笑みを口元に佩いた。腰を低くして、下手に出たのである。


「――これは、これは。まさか貴方様のような御方がいらっしゃるとは……アポイントメントも取らず急にお訪ねした無礼、伏してお詫び申し上げます」


 男、大塚文雄。57歳。この歳まで堅実に生き残ってきた上で、なお現場の最前線にいる歴戦の猛者。卓越した戦技と頭脳を有するその男は――全く躊躇せず跪き、流れるように土下座した。

 実力と経験と運を兼ね備え、性格はともかく能力面では部下からの信頼も厚く、上官からも頼りにされるほどの男が、恥などないとばかりにへりくだったのだ。両脇に従っていた男達も慌てて彼に倣うも、土下座という無防備を晒す大塚ほど自然体ではなかった。


「……詫びる必要はありません。頭を上げてください。そうされていては話がしにくい」


 面食らったのは人外の方だった。荒っぽい展開になるかもと警戒しながら出迎えた相手が、こうも露骨にへりくだってくるとは思いもしていなかったのである。

 大塚はそうして地面を見ながら、対面した相手の情報を脳内に纏めていた。容姿から入り、内包する力の性質を分析していたのだ。更に自身の土下座が齎した効果にも着目している。


(この感じ、傅かれて困惑している? 悪魔ではないな。天使でもない。妖怪や神仏の類いでも。人間如きにへりくだられて戸惑うとは……余程の世間知らずなのか? ……何者だ、これは)


 大塚は冷静だった。平静を保っていた。だがしかし、同時に過去最高に緊張し怯えてもいた。

 だってそうだろう? 人外がいる可能性は想定されていた。しかし――神クラス・・・・のバケモノがいるかもしれないとは、全く考慮していなかったのだ。


 大塚は感知能力に優れた男だ。だからこそこの人外が内包する力の規模が、【輝夜】が所蔵する神アラビトブシ様の遺物――その力の残滓を明白に上回っているのを察知してしまっている。

 こんな化け物と不意に遭遇して、なお冷静さを保てる人間など極一部の英雄級の超人だけだ。そんな超人は今の【輝夜】には二人しかおらず、当然大塚は二人の超人の片割れなどではない。だが大塚は明らかに力の格が違う相手を前に冷静さを保てていた。


 理由は二つ。一つは相手が自身の力をひけらかす真似をせず、威圧してこなかったから。もう一つが話が通じそうな雰囲気が相手にあったからだ。もしこの黒髪黒目の麗人が居丈高な物腰で威圧してきていたなら、百戦錬磨の大塚をして恐怖は隠せなかっただろう。

 相手の反応を受け、大塚はソッと顔を上げる。するとスーツ姿の麗人は困ったように眉を落とし、どうしたものかといった表情で跪く大塚達を見下ろしていた。


(……話は、できそうだ。少なくとも問答無用で言うことを聞かせようとするタイプではない?)


 僥倖だ。圧倒的僥倖だ。一番困る対応は、大塚達に対して問答もせず、自身の論理を一方的に押し付けてくることだった。それがなかっただけで、大塚は相手に対する好感を覚える。

 だって人間の話を聞いてくれる人外は、大抵の場合が寛大で、人間に好意的で協力的なのだ。そうした存在の有り難さは、大塚ほどに経験を積んでいなくても裏世界の者なら痛感している。

 一抹の安堵を覚えつつ、大塚はゆっくりと顔を上げ、麗人の整いすぎている美貌を直視した。そうして慎重に言葉を練り、礼儀正しくはっきり告げた。


「無礼を働いた愚かな身共みどもに、慈悲深くも寛大なお言葉を賜してくださるとは……心の奥底から感謝の念も絶えませぬ。しかし愚昧極まる身共には、御身の深き慈愛を讃える言葉が見当たらぬ有様……どうか身共の不明を正す機会をお与えくださいませ。貴方様はいったい如何なる頂きに座す御方でありましょうや」

「……申し訳ない、もう少し分かりやすく話していただけませんか?」

「………?」


 遠回しだが、意味は通じるはずの物言い。大塚は黒髪黒目の人外に問い掛けたのだ。

 貴方は天使なのか、悪魔なのか、なんらかの神仏なのか、と。まさか妖怪ではあるまいと思いつつ。

 だがこの物言いが相手にとって難解だったなどとは、流石の大塚もすぐには理解できなかった。


「貴方様は日ノ本の如何なる神性に連なる御方なのでありましょう。御身の面貌を見知りおくことなき身共の蒙昧さは大きな恥、故にお望みになった貢物をすぐにでも手配したく存じまする」


 一拍の間を開けて、恐る恐る言い直すと、麗人はやっと得心がいった様子であった。


「ああ、貢物。……貢物?」


 言語の意味を理解はした。だがスーツ姿の麗人は、まるで難解に翻訳された外国語を目にしたような曖昧な表情になる。麗人からしてみると、普通に応対しただけで貢物を差し出すなどと言われたのだ、言葉の意味は通じても理解が及ぶかと言われたら怪しいだろう。

 要らない。この一言を端的に告げるのは却って失礼に当たるのか。煩悶としたのは数瞬、麗人は愛想笑いを強張らせながらも順当に、かつ穏当に返した。


「贈答品を受け取る理由はないのでお断りさせていただく。それより立ってくれませんか? こちらだけ立っていたのでは話がし辛い。お互い暇ではないでしょうし、建設的にいきましょう」

「……は」

「当方からしてみれば、貴方達の来訪自体が予定にないものです。余計な前置きなどは不要ですので、何をしに此処へ来たのか話してもらえませんか?」


 無欲な要求に大塚の方こそ困惑しつつ、両脇の部下二名に目配せをしながら立ち上がる。

 神を含む超越者のほとんどが、人を家畜か何かかと見下しているものだ。そうでなくとも替えのきく兵隊蟻と見做しているもので、安易に優しさを見せるモノは希少ですらある。

 ともあれ求められたら応じるのが定石だ。その上で望む方向に誘導するのがプロである。誰が強力な嵐に正面切って挑む? 強い風は帆を張って掴み、利用するのが道理だろう。

 大塚は嘘偽りなく自身らの目的を告げた。


「御身に無用な労をお掛けした段、平にご容赦いただきたく。身共は現在、家具屋坂刀娘なる凶悪な殺人鬼を追っているところでございまして、件の殺人鬼の足取りを追い調査していたところ、ここシニヤス荘なる場に足繁く通っていることを掴み申した。もしも家具屋坂刀娘がここにいるのなら、どうか我らに身柄を引き渡していただきたく存じまする」

「………」

「御身の威名すら聞き及ばぬ愚かな身ではありますが、愚昧なりに己が職責に尽くして参りました。なにとぞ身共われわれに課せられた職責を果たすことにご協力いただけぬでしょうか」


 大塚は目の前の麗人の反応で、家具屋坂刀娘が間違いなく此処にいることを確信した。

 誠実な人外である。平然と嘘を吐き、騙そうとしてもいいというのに、安易に虚偽を働かぬのは。

 だが、だからこそ踏ん張り時である。長年の経験で大塚は知っているのだ、虚偽を好まない人外ほど譲歩を引き出すのは至難であることを。なんとかして目的を達したい、しかし無理を押してもならない。大塚は腹を決めた。ここは家具屋坂刀娘の所在を確定させられただけで上首尾とする、と。そしてこの未確認の人外の存在を知れただけ上出来である、と。

 これ以上は求めない。長生きし、最低限の成果だけでも持ち帰るのが良い仕事人というものだ。欲張らず謙虚に振る舞うのが人外への対応の秘訣である。


 早くも見切りをつけ、この場から退くことを決めた大塚を前に、麗人は悩ましげにこめかみを揉んだ。


「家具屋坂刀娘は、確かに当方預かりの身です。しかし彼女を貴方達に引き渡すつもりはありません」

「……訳をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「一般人の殺傷、及び【輝夜】への敵対行動、いずれにも尋常でない訳がある為です。家具屋坂刀娘の個人的趣味嗜好による行動であるなら擁護するつもりはありませんが、そうでないなら当方は彼女の身の安全の保全を優先します。一応、彼女の行動の理由をお話したいのですが、構いませんか?」

「聞きましょう」


 聞いたところでなんの意味がある、とは思う。どんな理由があれ、家具屋坂刀娘が大量殺人を実行した凶悪犯であるのに変わりはないし、仲間を殺された【輝夜】が納得するはずもない。正当な理由があっても、報いを受けさせたいと誰もが思うだろう。

 とはいえ名も知らぬ麗人が話したいと言うなら話してもらう。無駄に反抗して、反発的な態度を見せるのは馬鹿なガキのすることだからだ。何よりこの麗人の正体も知りたい。先程、日ノ本の如何なる神性に連なるのかという大塚の問いを、彼女はさらりと流したのだ。自身の種族を隠す意図はないのかもしれないが、こちらが把握していない以上は同じことである。

 今後の対応策を練るためにも、正体不明のままでは困る。大塚は人間らしい小賢しさを発揮し、麗人の語る言葉に耳を傾けた。


 しかし、大塚は困惑した。麗人の語ることの一々に、ノイズが走ったのだ。


「――今、なんと?」


 朗々と、饒舌に、麗人は何かを語った……はずだ。しかし、よく聞き取れずに反駁してしまう。

 麗人は大塚の反応に目を細めた。まずい、機嫌を害してしまったか。内心そう身構えた大塚を見据えた麗人は、まるで部下のミスを発見した上司のように嘆息する。


「……失礼」


 麗人は懐からスマートフォンを取り出し、誰かと通話する。それからすぐに大塚らを見渡した。

 残念そうに。憐れむように。屠殺される豚を見るように。大塚の全身に、鳥肌が立った。

 何か、まずい。麗人はスマートフォンを仕舞う。


「……どうやら貴方達も寄生されているようですね。パッと見えるところに痣はありませんが、既に貴方達の脳は【月の虫】とやらにヤられているようだ」

「………!」


 月の、虫。

 その単語を耳にした途端、大塚と部下の二人を強烈な使命感が襲う。

 目の前の存在が途方もなく危険で、今すぐに排除しなくてはならない敵であると確信したのだ。

 なぜ、という単純な疑問すら浮かばない。話し合いで穏便に済ませるという選択肢が消えた。大塚は背中に回した手でハンドサインを送り部下に指示を出す。交渉は決裂した、応援を呼べと。

 部下は即応した。無線機に指を当て、トントン、トントン、と軽く叩いたのだ。離れた地点で待機している班員がそれを聞けば、すぐに対応する為に行動する手筈になっている。


 大塚らの密やかな行動を知ってか知らずか、麗人は至極残念そうに言った。


「名前を出されただけでそう反応しますか。短絡的ですね。後ろ暗いものがあると自白しているようなものですが……一応試しておきましょう。『寄生虫、消えろ』『宿主から退去しろ』」

「ッ、グギっ……!?」


 強い言葉。見知った力。これは、天力。この麗人は天使だ!

 何をされたのか判然としないまま、大塚は相手の正体を察して堪らず叫ぶ。


「こ、攻撃を受けた! 交渉は決裂、現有戦力での反撃は無謀だ、すぐに撤退しろォ!」

「りょ、了解!」


 大塚の出した指示に部下達はよく従った。瞬時に身を翻して走り去ろうとする面々を見て、首を左右に振った麗人は諦めたように呟くのみだった。


「私の『言霊』でも手の施しようは無し、と。いよいよ手遅れ感が否めませんね。残念ですが最後に警告しておきましょう。当方に貴方達と敵対する意図はありません。家具屋坂刀娘から手を引くなら私から何かをすることはしない。応じる気があるなら止まりなさい」


 大塚もまた一も二もなくシニヤス荘から、ひいては天使から逃走する。この天使の力の格からして、まず間違いなく【外界保護官】の誰かだ。平の戦闘員でどうこうできる相手ではない。なんとしても生きて帰る、そして対天使の装備や作戦を立てなければならない。

 警告を背にして走り去ろうとする大塚達を見て、麗人――エヒムは心底から悔やむように呟いた。


「……フィフ。私は結構気を遣ったつもりなんだが、何かミスっていたか?」

「さあ? 私からすると甘すぎるほど甘い対応だったと思うけど、聞く耳もなければ引く気もない相手には無駄だったようね」

「はあ。よほど刀娘の身柄を確保したいと見える。が、譲る理由もないしな、面倒だが腹を括るか」


 声が増えた? 大塚は先に逃した部下の後ろで、不意に出現した声の正体を確認しようと首を巡らせる。

 走りながら視線だけで後ろを振り返ったのだ。

 そこには麗人と瓜二つの――麗人をより女性的に象ったような姿の天使がいた。


「どうする気?」

「【月の虫】は宿主に寄生しているどころか、ほぼ完全に同化している。これを無理に取り除けばそのまま宿主も死ぬレベルだ。寄生虫に干渉するのは無理筋らしいとなれば、まあ……宿主自体を安楽死させた方がいいだろう」

 

 天使が、二体。どちらもが上級天使クラス。


 シニヤス荘。ここはいったいなんなんだ。

 大塚が感じた戦慄をよそに、麗人の頭髪が黄金に変化した瞬間を目撃する。

 そして次の瞬間だ。銀の瞳が大塚を捉え、麗しき唇がたおやかな音色を紡ぎ――


「『死ね』」


 ――唐突に、大塚の意識は暗転した。






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