17,人間の自分に決別を







 探し病院ものは案外簡単に見つかった。


 なんとなくここにいるだろうなと思った所に足を運んだら一発だったのだ。単純に勘が鋭いだけとは言い切れないほどあっさりしていて、我ながら拍子抜けさせられたものである。

 あれだろうか。今の体の中身が俺だから、元々の体との繋がりが残っていて居場所が分かるとか、そういう感じのサムシングなのだろうか。不思議ではあるものの、原因を敢えて突き止めようとは思わない。俺の元の体が運ばれていたのは東京でも一番大きな病院で、意外と大事にされているんだなということが分かった程度で充分過ぎた。

 俺は【聖領域】をえいやと感覚で自身に貼り付け、目的の病院に侵入すると入院患者リストをパラパラと盗み見しつつ、『花房藤太』がいる病室へと歩いていく。


「監視カメラも人も全く認識できないとか、よくよく考えてみなくてもヤバいよな」


 看護師さんや患者さん、患者さんの見舞いに来ている家族の人達とすれ違いながら、目の前で手を振ってみたりして無反応なのを確かめつつ、【聖領域】の犯罪的な危険さに独り言を零した。

 一度でもこの力を悪用してしまったら、自分の行動に歯止めが利かなくなりそうな予感がして恐ろしさを感じてしまう。まあ病院に忍び込むこと自体が悪用だと言われたら痛いが、自分の元の体の調子を見に来ただけなんだ。今回ばかりは大目に見てノーカン扱いでいいと自己弁護しておこう。別に誰かに迷惑を掛けるわけでもなし、超法規的措置みたいな感じで許して欲しい。


(ここか)


 花房というレアな名字が記された表札を見て、元の体が安置されている部屋の前まで辿り着く。

 カルテを盗み見たところ、元の体には脳死判定が下されていた。体はいたって健康そのものだが、脳波が全くない植物状態になっているという事だろう。

 俺の様子を見に来た後輩の山田くんには悪かったなと今更思った。俺が通勤してこないからと様子を見に行かされたら、会社の先輩が脳死状態で倒れていたと知ったら仰天するだろう。

 そういや大きな商談が纏まるまで後少しってとこだったんだが、俺が抜けたら誰が後を任されてしまうんだろうか。会社も寝耳に水だろう、迷惑を掛けてしまっているのは申し訳ない。


(んぁ?)


 軽い気持ちで病院まで来て、『俺』のいる病室まで来ていたわけだが、俺は病室の中に複数の人の気配を感じてドアの取っ手を掴んだまま静止した。

 誰だ? 話し声がする。耳を澄ませてみると、よくよく聞き覚えのある声が三つもした。


「――ありがとうございます、ウチの子の見舞いになんて来てくれて」

「いえ、お構いなく。私も勝手に来ただけなので……」

「あはは、ウチの兄も隅に置けませんね。山田さんみたいな美人さんと仲が良いなんて聞いたこともないですよ。もっと早く知り合いたかったです」


 は? と声を漏らして、身が固まるのを自覚する。

 息が止まるほどの驚愕。そして唐突に沸き起こる焦燥。

 俺はドアを開いて勢いよく病室に入る。【聖領域】のお蔭で誰も俺が入室したことに気づかない。ドアが開いたことに感づいた気配すらなかった。

 だがそんな些末な異常なんかどうでもよかった。病室にいたのは――


「か、母さん……」


 60手前の、髪に白いものが多く混じった、積年の苦労の滲む年配の女。間違いなく俺の母だ。


「冴子も」


 俺より二つ年下の妹、去年結婚したという特別仲は良くはなく、悪くもない存在。

 母は山口県に。妹は大阪にいたはずだ。日曜日とはいえ昨日の今日で、いきなり東京まですっ飛んできたのか? 驚きすぎて言葉を失くした俺をよそに、もう一人が苦笑いする。


「山田くん……?」


 まだ入社三年目の会社の後輩。ギリ新人扱いが通る頃だ。今年で25になるんだったか? 新卒で入社してきて以来、俺が面倒を見させられていた手の掛かる奴だ。

 要領はよくないし、物覚えもそんなによくない。けどただただ真面目で、率直に慕ってくれていた彼女を俺もそれなりに可愛がっていたつもりである。


「美人だなんてそんな。十人並ですよ、私なんか。けど先輩の妹さんにそう褒められたら悪い気はしないですね。……先輩、全然褒めてくれませんから」

「あ、そうなんです? まったく兄さんは……」

「ごめんなさいね、藤太ったら気の利かない子なのよ」

「あ、いえ。仕事のことなら褒めて伸ばす方針みたいで、度々褒めてくださってます。ただ、まあ。公私をきっちり分けてる人なので、プライベートでの付き合いはないですし、仕事以外のことだと全然で……どうやったら仲良くなれるのかなって、ずっと悩んでました」


 ベリーショートの黒髪と、体育会らしい健康的に日焼けした肌。真面目な性格の現れとしてきちんと整えたスーツとズボン。運動部の活発なマネージャーといった、さっぱりとした印象を受けるもんだから俺は彼女を『くん』付けで呼んでいた。

 そんな山田くんが、しおらしくしながらはにかんでいる。母も妹もその様子に微笑んだが、病室の空気はどこか固い。


「山田さんって、もしかして兄さんのこと好きなんですか?」

「は?」


 三つ年下でも、出会ったばかりだからか敬語で話す妹の冴子だが、突拍子もないことを質問するもんだから無意識に声を漏らしてしまった。慌てて口を抑えかけるも、やはり俺の存在には誰にも気づかない。そんなわけねぇだろ! 男と女がいたらすぐ恋仲か何かと決めつけるなよ馬鹿が! そう吐き捨ててやりたかったが、山田くんが微かに照れたように頷いたのを見て思考が止まる。


「あ、はは……わ、分かります?」

「――――?」

「分かりますよっ。ただの会社の先輩後輩ってだけで、わざわざプライベートの時間削ってまで見舞いに行くような人の方がレアなんですから!」

「やっぱり? わたしも怪しいなって思ってたわ。そうなのねぇ……藤太のことなんか、好いてくれる女の子がいたの……」

「ちょ、ちょっと、照れくさいんでやめてください」


 途端に賑わったが、すぐに場の空気は沈んだ。山田くんが『俺』の顔をちらりと見て、母と妹もそれに釣られて視線を向けたからだ。ベッドの上に横たわる『俺』は、身動き一つしていない。


「……先輩が倒れてるのを見つけたの、私なんです」

「あ……そ、そう、なんですか」

「それじゃあ救急車呼んでくれたのも山田さんなのね。わざわざありがとう」

「当たり前のことをしただけですよ。ほんとう……突然のことで、まだ全然実感が湧きませんし」


 山田くんが曖昧に言うのに、冴子が呟く。


「……脳死って、なんでそんなことになったんだろうね」

「……さあ。私にも、なぜかは分かりません」

「お医者さんも、原因は全然わからないそうよ。どこをどう調べても、藤太は健康体そのものだって」

「だったら兄さんが、なんでこんなことになってんのよ。意味分かんない」

「………」


 全員が黙り込むと、母は一気に老け込んだように嘆息した。


 不幸自慢みたいで口にはしない。だが疲れ切った母の顔を見ると、過去を強烈に想起させられた。


 俺はいわゆる母子家庭という奴で育ったんだが、普通の母子家庭ではなかった。

 父親が相当な屑で、母と離婚したはずなのに俺達の家に転がり込んで来ていたのだ。幼かった俺と冴子は無邪気に父がいることを受け入れてたもんだが、母の心労は相当に酷かっただろう。

 何せ母は稼ぎが少なかった。パートを幾つも掛け持ちして必死に働いていたのに、クソ親父は働きもしないで母の財布から金を盗んで酒とタバコを買い、泥酔しては騒ぎ立てたのだ。

 母は何度も叫んでいた。金を盗るな! と。金を色んな所に隠しても、家中を探し回って金を盗み続けた。挙げ句に酒を飲んだ日には疲れ切って寝ている母に触れ、寝させない始末だ。

 思い返すだけで胸糞が悪い。母は天涯孤独で、こんなクソ野郎にも情なんか持ってたから追い出せずにいて。満足に寝れない中で働き通し、遂には精神を病んでしまった。小さいガキ二人を養うのに必死で、病院にもいかず、ただ心身を削って働いて。俺と冴子を塾に行かせ、高校にも行かせてくれた。自分の楽しみなんかなんにもないのに、立派になってねと言って。


 クソ野郎は、最後には半殺しにしてやった。


 ガキの頃の俺は、最初は慕っていたクソ親父を、ひたすら親父を恐れるようになった。泥酔した時に包丁を片手に「一緒に死んでくれ」と、泣きながら言われた時の恐怖は今も覚えている。

 そんな奴が身近にいて怖くないわけがない。母に追い出してくれ、別れてくれと何度も懇願した。冴子もだ。だがそれでも母はアイツを追い出さない、最初は情のせいかと思ったが違うのだ。母もまたクソ野郎が怖かった……追い出そうとしたら何をされるか分からなくて恐れていたのである。精神を病んでもなお、俺達に何かがあったらいけないと、決断が下せずにいた。

 警察に頼りもしない。行政に訴え出ることもしない。なんでなのか、今なら分かる。小さいガキを育てるのに必死で、休日なんかないほど毎日働いて、家でもクソ野郎の目が俺達に向かないように必死で――誰かに頼るという発想すら出ないほど、周りから救いの手を差し伸べられても気づかないぐらい追い詰められていたのだ。


 そして俺という糞餓鬼は、ただ親父を怖がって何も出来なかった。男のくせに、とんだ腰抜けだ。


 だがある時、俺が高校を卒業する頃だった。酔ったアイツが冴子に手を上げやがって――俺はその時恐怖を忘れ、怒りに突き動かされるままクソ親父をぶん殴ってしまったのだ。

 そうしたら、クソ親父は吹っ飛んだ。あの時の母と冴子の驚いた顔も忘れられない。そりゃそうだろうと納得したものだ。十数年もまともに運動もしていない、不摂生に暮らしてるクソ野郎が――健康な高校生男子に力で敵うわけがなかったのである。

 人生で初めて本気で我を見失ったのはあの時だ。親父が反撃してくる前に、馬乗りになって何度も何度も殴り続け、母と妹の二人掛かりで羽交い締めにされてやっと我に返った。


 親父とはそれっきりだ。病院に運ばれたアイツを、俺は強硬に退院させず、アルコール中毒の患者を閉じ込める病院に叩き込んでやったのだ。母は出してあげようよと言ったが、精神状態がまともじゃない母の言い分は聞かず、今回だけは俺の言うことを聞いてほしいって泣きながらお願いしたっけ……。何年前だったか、アイツが死んだって話を聞いた時は心の底から安堵したものだ。


 大学を出て、上京して、働いて。金を貯めたら地元に帰ろうとしていたのは――孤独な母と約束をしていたからだ。40歳になるまでには絶対に帰る、毎年顔を見せにも戻る、だから待っててくれ、絶対に親孝行をするからと。母は笑って言った。そんなのいいから、いい嫁つかまえて幸せになってくれって。


「っ……」


 目頭が熱くなる。ああそうさ、俺はマザコンさ。けどな、こんだけ苦労して育ててくれた人がいるのに、その人のことを嫌いになんかなるわけねぇだろ。世界で一番大事なのは、母さんだ。

 冴子は大事は大事でも、同志って感じか。趣味も同じだし、嗜好も似てる。ガキの頃はずっとクソ親父から身を守りあったし、疲れてる母さんが寝られるように二人でクソ親父から守ったこともある。怖くて堪らなかったが、とにかく必死だったんだ。


 そんな境遇だったもんだから、青春時代は大学からで。携帯電話も大学生になってバイトして、はじめて自分の物を持てたぐらいだ。高校生の頃もバイトはしていたが、冴子が中学の時に貧乏くさいからとイジメられたと聞いて、携帯電話も服も靴も小物も俺が買ってやっていたから、自分のために金を使えたのは初めてでメチャクチャ嬉しかった覚えがある。

 

「藤太……早く起きてくれない? 久しぶりに話がしたいなぁ」


 疲れた目で、乾いた呟きを漏らす母に、俺は唇を噛み締める。


「ほら、お母さんも来てくれてるんだよ? 山田さんだって暇じゃないのに、来てくれてる。さっさと起きないと、酷いんだからね」


 表情は普通なのに、目だけ潤ませている冴子の声に拳を握り締める。


「……先輩。私、まだ先輩に何も返せてません」


 手間の掛かるうっかり癖のある後輩の様子に、全身まで震えが広まった。


「……あぁぁぁ! もうォォォ――ッ! 分かった、分かったよ! なんなんだよお前ら、揃いも揃ってさぁ!」


 辛抱できずに叫んで、頭をガリガリと掻き毟った。

 なんで俺が悪いみたいになってんだよ。ふざけんじゃねぇ。

 自分の中のスイッチを押す感覚で意識を切り替え、『言霊』の使用態勢を整える。

 すると黙っていたフィフが、どうでもよさげに言った。


「いいの? そんなことしたら、あなたのアイデンティティが揺らいじゃうんじゃない?」

「知るかそんなもん! 俺は俺だろ! ただちょっと俺が『花房藤太』じゃなくなるだけだろが! 母さん達にこんな顔させといて、見てみぬふりなんかできるわきゃねぇだろって!」


 これをしたら俺は本格的に人外になる。最初からなってるって話じゃない、人間という括りからサヨナラしてしまうのだ。だが選択肢なんかない、ただでさえ母さんは歳なんだし、余計な心労を与えてしまいたくないんだよ。冴子もそうだ、結婚生活で幸せにしてるのに、俺のことで余計なノイズを走らせたくはない。山田くんも独り立ちするには早すぎる。

 だったら『花房藤太』を放置しておけるわけない。今まで考えないようにしていたもんを、こうも不意打ちで見せつけられたら知らんぷりできるわけがあるか!


「『俺のマモを適量、元の体に入れる。花房藤太はさっさと起きて、今まで通りの花房藤太として生きていけ! 母さんを大事にな! 冴子が泣きついてきたら面倒見てやれよ! 山田くんのことは自分で考えろやこの馬鹿が!』」


 ブチッ、と俺の中の何か、魂が千切れる感覚がする。ちょっとチクッとした程度の、悲しくなるほど小さな雫が一滴流れただけ、という感覚だ。それが寝ている元の体に流れ込む。

 俺はもういても立ってもいられず、病室から飛び出した。

 背にした病室から、驚いたような声と、気配を感じながらも走り去る。ほんの数秒程度で病院の敷地外から出てしまって、やっと立ち止まった俺は息も乱さず立ち尽くした。


「……ハァ。ハァァァ……ほんと、勘弁しろよ」

「茶番は終わった? くだらない愁嘆場に酔ってる暇はないんじゃないの?」

「……あぁ?」


 フィフの物言いにカチンとくる。元はと言えば誰のせいで――と言い掛け、やめた。八つ当たりほど情けないものないし、フィフの様子からは悪意を感じなかったからだ。

 モデルのフィフキエルは素で共感性に欠けていたんだろう。人間のことに関心がない。絶対にそうだと確信した。だからフィフも無神経な物言いをするのだろうと。全く、腹立たしい。


「……確かにな」


 フィフの台詞で、俺はスマホにメールの返信が来ているのに気づいて相槌を打つ。

 家具屋坂さんからだ。返信内容に目を通しながら、俺はフィフに言う。


「おい」

「なに?」

「俺の新しい名前、お前が考えろ」

「いいけど。わたくしが決めていいの?」

「いいから。変なのはやめてくれよ」


 自分で自分の名前を考えるのはなんか嫌で、フィフに丸投げする。

 うーん、そうねぇと首を傾げて悩んでる様子を尻目に、家具屋坂さんとの合流場所と時間を頭に叩き込んでいると、ヌイグルミの天使はパッと顔を輝かせて口にした。これからの俺の名前を。


「――エヒム。あなたの名前は、エヒム。どう?」


 エヒム。……悪くない。悪くないが俺は日本人だ。和名にしてほしかった。


「由来は?」

「超越者。エヒムは神書の『超越者』を意味する名前なの」

「はッ……」


 悪くない名前なのは確かだが、由来を聞くと失笑してしまう。

 けどまぁ、縁も所縁もない名前のほうが、却って踏ん切りもつくか。

 俺はスマホで家具屋坂さんにメールする。

 場所と時間を了解した旨と、新しい名前――エヒムと呼んでくれというお願いを添えて。


 ちらりと病院を振り返った。


「………」


 そして、何も言わないまま遠ざかる。絶対に気のせいだが、花房一家と山田くんの姿が見えた気がしたから――結局は何も、気の利いたことは言えなかった。


 サヨナラ、『俺』。母さんも、冴子も、山田くんもサヨナラ。俺も俺で、なんとか生きていくよ。








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