第19話 ブラックコーヒー

 久しぶりに、メイクをした。といっても、フルメイクではない。軽く粉をはたいて、アイラインとリップだけ。スキニージーンズに、とろみのあるブラウスを合わせる。



 お酒はいらない。温かい飲み物が飲みたかった。ずっと冷え切っていた体の中を、温めてあげたかった。


 アパートを出て、坂を下りる。木の青くさい匂いでいっぱいの道を通る。吸い込むと、体が軽くなった気がした。


 朝早くからやっている喫茶店を探す。まだひっそりとしている商店街に、珈琲の看板を見つけた。少し重い扉を押すと、低いベルの音が鳴った。


「いらっしゃい」


 ちょび髭の店員と目が合う。


 特に案内がないので、空いている席に座って、メニューを見る。「珈琲ちょび」と店名が書かれているのに気がついた。成る程、ちょび髭からきているのかと、謎解きをした気分になって可笑しくなる。



「すいません、ホットコーヒーください」


 カウンターの中で、ちょび髭店員が頷いた。大丈夫、あっていたみたい。


 店員の後ろの壁には上から下までコーヒーカップが並んでいる。その中の一つを店員はとって、支度を始める。


 コーヒーのいい香りがする。深く吸い込むと、ふつふつとした何かが、体の奥からこみ上げてきた。


 こんな朝早くに起きて、喫茶店に入ったことなんてない。いつもと違う朝、いつもと違う行動。


「潮時なのかな」


 全て忘れるには、今日みたいな日がいいのかもしれない。


「お待たせしました。ミルクはご利用になりますか?」


 気がつくと隣に、ちょび髭の店員が立っていた。首を横に振って「大丈夫です」と伝えると、店員はお辞儀をして、再びカウンター内に戻っていった。



 カウンターには、若い女性が座っていた。

同い年くらいだろうか。渋めの喫茶店に朝早く、若い人が来るのだと不思議に思うと同時に、親近感がわいた。



 視線をコーヒーに戻すと、コーヒーカップとソーサーは鮮やかな青だった。海のような、青色。


「……でね、別れちゃったんだってば~」


 店内のBGMに紛れて、女性の声がした。カウンターに座ってる女性が、店員に話しかけているところだった。


 飲んでいるものがコーヒーではなく、お酒だったら酔っ払っているのかと思うような、軽快な声だった。


「悔しくってさぁ」


 女性は両ひじをついて話し続ける。別れたという割には、元気なんだなと呆れつつも羨ましくもある。


「新しい髪型、似合ってますよ」


 ちょび髭の店員が手を動かしながらも、ひっそりと言う。


「えっ、わかる? わかりますー?」


 女性は嬉しそうに髪を何度も触る。


「わたし、彼氏が出来るとその人に合わせちゃうタイプで。どうしたら、もっと好きになってくれるのかな、喜んでくれるのかなって、がんばっちゃうんだけど……」


 そこで女性は困ったように笑った。──笑ったと思う。


 あたしの座ってる場所からだと、後ろ姿しか見えない。けれど、彼女の気持ちが流れ込んでくるように、今のあたしならわかったのだ。


「それが空回りだって、何度恋しても、同じこと繰り返しちゃう。別れてから……気がつくんだけどね」


 あたしは、手元のコーヒーに目線を落とした。茶色がかった黒。青色のカップに縁取られたコーヒーは、綺麗だった。



 恋をする度、自分を着飾ってみたり、体型を気にしてみたり。そうやって、元の色に付け足して、恋をしていく。涼の色を捨てようとしている今、あたしは何色なんだろう。



 コーヒーを飲んで、立ち上がる。お会計をする際、カウンターの女性を盗み見る。丸っこくて白色のカップを口元に運ぶところだった。



 飲んでいたコーヒーは、ブラックだった。




 お店の扉を開けると「わぁー!」と叫び出したい気持ちになった。子どもみたいに、周りを気にしないで。そのまま笑いながら、走り出したい。実際、そんなことしたら変態だけれど。


 開店前の浮ついた商店街を歩く。あたしも、髪を切ろう。あの女性に影響されてないと言ったら、嘘になる。


 失恋したら髪を切るって、ホントだったんだって何だか可笑しくなる。


 でも、その気持ちわからなくない。


 昭和の時代の話かと思っていたけど、失恋する女の心は、いつの時代も関係ないのだ。

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