4章 坂の上のひかるさん

第16話 もぬけの殻のヒロイン

 家に帰ると、もぬけの殻だった。


 正しくはもぬけの殻だった。りょうは、いなくなっていた。少しの家電と、自分の荷物を持って、出て行ったようだ。


 けれど、昨日着ていた服は干したままだし、やりかけのゲームは置きっ放しだし、詰めが甘いところが、涼らしいなんて頭の片隅で思った。


 まあ、夜になったら帰ってくるだろうって思っていたけれど、二日経っても帰ってこない。流石に心配になって、電話をかけてみたけれど、出ない。


 送ったままのLINEは、既読がつかないままだ。涼の友達に連絡をとってみたけれど、知っている友達は二人しかいなかった。


 涼の両親の連絡先も知らない。ただ、千葉県の出身だという事しか、知らなかった。五年も一緒にいたのに、知っている情報は少なかったことに今更ながら気がつく。


 ピコンと電子音が鳴る。


『言いにくいんだけど』


 涼の友達のトモからLINEがきた。


『涼と連絡とれた』


 続けざまに文章が送られてくる。もう、それだけで続きの文章がわかってしまう自分がいた。


 涼の知っている情報は少ないのに、そういうことだけ、すぐにわかってしまう。


『別の女の子と一緒にいるらしい』



 やっぱりね。

 あたしはスマートフォンをぶん投げる。


 壁に激突して、鈍い音が響いた。


 少し間をあけてから、スマートフォンを拾ってトモに返信を打つ。


『ありがと』


 何がありがとうだ、バカ。

 全然、あたし、大丈夫じゃないのに。


 冷蔵庫までドンドン足を踏み鳴らして行く。缶ビールを掴むと、冷蔵庫のドアをバシンと閉めた。最大限の音が鳴るように。


 あたしは。

 あたしは、怒っている。猛烈に。


 理由がわからない。

 訳がわからない。

「別の女の子」って誰だよ。


 缶ビールをグイッと飲み込む。喉がヒリヒリした。



 それって。

 それって……。



 浮気されたってこと?



 鼻の奥がビールの香りでツンとした。ゆっくり力を込めると、缶ビールはピシャンという哀しい音をたてて生き絶えた。


 違う。

 乗り換えたってことか。


 涙が出た。やっと、出た。体の中からにじみ出るように、涙が出た。


 ついで、嗚咽まで漏れてくる。子どもみたいだ。


「ふざけんな」


 呟いて、その場にしゃがみ込む。頭がぐるぐる回転している。呼吸がおかしい。ヒュー、ヒューっという音が聞こえる。体が大きく上下する。


 苦しい。苦しい。


 そのまま、流れるように床に横になる。


 もう、このまま溶けちゃえばいい。それで、床のシミにでもなって、あいつが帰ってきた時に驚かせてやるんだ。後悔させてやるんだ。


「来週。花見に行こうって、言ったのお前じゃん……」


 どこかのラブソングみたいなセリフだなと思う。


 今あたし、悲劇のヒロインになってる。


「もぬけの殻になったのは、あたしのほうか……」

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