第15話 ブラックコーヒーとクリームソーダ

 朝、雨はいつの間にかあがっていた。


 雨の降り始めは知っているけれど、雨の終わった瞬間を、意識して見たことがなかったことを今更ながら知った。


『珈琲 ちょび』は七時から営業を開始する。わたしは、柄にもなく七時よりも前から、お店の前で待機していた。


 昨日はあまり眠れなかった。けれど、目は冴えていて、周りの空気も新しく感じる気持ちの良い朝だった。


 低いベルの音が鳴って、まだ七時じゃないのに、ちょび店長が顔を出した。


「今日は特別ですよ、お客様」


 茶目っ気たっぷりにちょび店長は言って、わたしを招き入れた。


 開店前だからか、いつもは濃厚に薫る珈琲の香りも、今は微かだった。ゆったりとしたジャズピアノのBGMが流れている。


 わたしはカウンターに座った。


「珈琲ください。ブラックで」


 店長は頷いて、壁一面に並んだコーヒーカップの中から、白っぽいコーヒーカップを選んだ。


 丸みを帯びているそれは、手にぴたりと収まる温かみを感じるカップだった。手で包み込んでいるだけで、ほっとするような。


「素敵なカップ」

「美濃焼です」

「美濃焼」


 名前は聞いたことがあったが、焼き物はさっぱりだったので、首を傾げることしか出来なかった。


「例えば、どんぶりの器。ほとんどが美濃焼だと言っていいでしょう」


「そうなの?」


「普段、何気なく手に取っている器が、美濃焼かもしれません」


「へぇ、知らなかった」


 ◯◯焼と名前がつくものは、みんな値段が高いものばかりなのかと勝手に思っていた。


「では、美濃焼が約一三〇〇年間続いていることはご存知ですか?」


「一三〇〇年? そんな前から?」


 わたしは手の中のコーヒーカップを見る。どう見ても、その辺のお店で売っている安いマグカップとの違いがわからなかった。


「言い方悪いけれど、何でこんなのがって正直思っちゃう」


「その時代、使う人に合わせて、変化してきたからです。だから、今でも愛されているのですよ」


「人に合わせて、変化……」


 つぶやいて、手元の美濃焼に視線を落とした。



 キミは、人に合わせて生き抜いてきて、今でも沢山の人に必要とされているだなんて、羨ましい。



「ねえ、店長。店長は誰かに必要とされたいって思ったことある?」


「ありますよ。もちろん、今も」


「わたしは、それが、上手くいかなかった……」


 わたしは新しく染めた髪の毛先をもてあそんだ。


「何でだろうって、考えて。気づいたの。必要とされることが、ゴールになってたって。ばかみたいだよね」


 その時、低いベルの音が鳴って、新しいお客さんが入ってきた。すらりと背筋が伸びた、女の人。店長は新しいお客さんのオーダーに入ってしまった。


 わたしはそれを目線で追った後、手持ちぶさたに珈琲をすすった。


 いつもはミルクを入れて飲むのだけれど、今日はブラックに挑戦してみたかったのだ。大人の味。


「苦ッ!」


 つぶやいて、恥ずかしくなる。店長がいない隙に、こっそり砂糖を追加した。


 壁一面のコーヒーカップたちを眺める。すみれとの約束の時間まで、まだ二時間ちかくある。


 すみれには、どの器が使われるのだろう。想像するのは楽しかった。


 そっか。


 美濃焼のコーヒーカップを口元まで運んで、気がついた。


 わたしは、楽しい時間を大好きな人たちとすごしたかったのだ。


 けれど、だんだん目的がズレていってしまっていた。必要とされたい、好かれたい、というのはゴールへ向かう途中の手段でしかないのに。いつのまにか、それがゴールになっていた。


 わたしはもう一度、砂糖の入った珈琲を飲んだ。今度は、ちょうど良い味だった。


 もう大丈夫。きちんとゴールを思い出せたから。


 今から、もう一度。ゴールを目指せばいい。


 何度だって、今ここをスタート地点にすればいいのだ。


「でね、別れちゃったんだってば~」


 口に出したら、するっと何かが体から出ていったような気がした。きっと、もやもや感情だろう。


 今の自分も、あの時の自分も、高校生だった自分も、間違ってはいないのだ。

 



 案の定、すみれは遅れてやって来た。


 そして、意外なことに珈琲ではなく、クリームソーダを彼女は頼んだ。



 緑色の中で、ぷつぷつと小さな泡が浮かび上がっている。すみれはクリームソーダを「今日の天気みたい」と言った。わたしは「不思議ちゃんだな」と返したけれど、本当は別のことを思っていた。



 クリームソーダの透明な、エメラルドの宝石みたいな色は、あの時の光景を思い出させる色だった。綺麗なビンにいれてとっておきたいような、大切な、大切な思い出。






 葉桜の下で、高校生のわたしが立っている。


 海風が吹いて、まだ残っている桜の花びらが静かに散る。その中に、大人のわたしと高校生のわたしがいる。



「わたしなんか、って言わないでよ。必要としてくれる人は、いつだってそばにいたじゃない」



 頷いて、わたしはかつてのわたしを抱きしめてあげた。


 

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