第14話 夜をわたる
夜、雨足が強くなった。
家に帰る気分にならなかったので、二十四時間営業のスーパー銭湯にきた。
このまま朝まで温泉に浸かったり、漫画を読んだりしてすごすつもりだ。たまにはこんな夜があってもいいと思う。
ふわっふわに生まれ変わった髪からは、いい香りが漂ってくる。赤みを抑えたこの髪色は、自分でも驚くほど印象が変わった。
「いいかも」
髪をまとめて、シャワーキャップをかぶる。せっかく綺麗に染まったのだ、このままの色をキープしたかった。
シャワーキャップをかぶったわたしの見た目は、面白いくらい悪かったけれど、どうせスッピンになるのだ、良しとしよう。
真っ裸になったわたしはタオルで隠すこともせず、堂々と大浴場まで歩いていく。案の定、大浴場には誰もいなかった。ご飯を食べたり、お酒を飲んでいる時間だからかもしれない。
お湯に浸かると、疲れとか、溜めんだもやもやとかが一気に溶けていくような感覚がした。ほうっと息を吐いて、天井を仰ぐ。
そういえば、陽翔と別れたこと、誰にも言っていなかった。親友のすみれにさえ、言っていなかった。
どうしてだろう。
まぶたを閉じると、お湯がちょろちょろ流れる音が心地よく聴こえてくる。
わたしはまた、あの光景を思いおこしていた。
葉桜の季節。
高校の教室。
紺色のセーラー服を着た女の子たちが、高い声をあげて笑っている。
わたしはその笑い声の中にいるけれど、ふと目線を窓際へやると、すみれがいる。すみれは、いつも窓の外を見ているような、静かな子だった。
クラスの中で、わたしはいつもにぎやかなグループにいた。すみれはどちらかというと、グループに属さない子で、学校の行事があるとグループからあぶれてしまう子たちの中の一人だった。
けれど、すみれは芯のある真っ直ぐな子だった。
グループに入るために、話題のドラマを見たり、好きな芸能人を合わせてみたり、笑顔の裏に本音を隠したり、そんな努力をしない子だった。
わたしとは正反対で、自分がある子。羨ましかった、まぶしかった。
やがて、にぎやかなグループにいることに疲れてしまったわたしは、すみれと一緒にいることが増えてきた。もちろん、完全にグループから離れた訳ではない。
今思えば、八方美人だったのだ。
大学に入っても、社会人になっても、わたしの八方美人は変わらなかった。
誰からも好かれるように。
それは、言い換えれば、誰からも嫌われないように。
周りの雰囲気に合わせて、トレンドを追いかけて浮かないようにした。
彼氏が出来ても同じだった。好かれたくて、嫌われたくなくて、その人の好きに合わせようと努力してきた。
けど。
けど、それって何の意味があったのだろう。
なんだか、むなしい。
大浴場から上がって、館内着に着替える。スマートフォンを見ると、着信とメッセージが入っていた。
すみれからだった。
『ごめん。電話気がつかなくて。何かあったの?』
「何かあったの?」の言葉に、不覚にも涙が出そうになった。こんな言葉、他の人に言われても何とも思わないだろうに。
『今、話せる?』
送信すると、すぐに着信が返ってきた。
「もっしもーし」
感傷的な雰囲気を悟られたくなくて、わたしはわざとらしく電話に出た。すると、すみれの必死な声が飛び込んでくる。
「恵理、大丈夫?」
思わず、微笑んでしまった。
「大丈夫だよー」
「本当に?」
「うん」
「嘘。無理してる」
わたしは目をパチパチさせた。
笑顔の裏に隠した本音に、いつも気がつくのは、すみれだった。
「うん、実はさ。ちょっと色々あって」
「色々?」
「そ。色々だよー」
すみれと通話したまま、更衣室を出る。窓際に寄って、ひっそりと話を続ける。
雨が強く降っている。窓の外は、本来ならネオンと広い海が見えるはずだった。
「ねえ、昔のこと覚えてる?」
「高校生のころ?」
「うん。桜の木の下でさ、すみれが泣いて」
そこまで言うと、電話口の向こうで慌てるような気配を感じた。
「恥ずかしいからやめてー!」
珍しくすみれが叫んだ後、くすっと笑ったような声が微かに聞こえた。
「あの時『ばかだね』って言ってくれて、ありがとう」
「うん」
「『すみれと一緒にいるから、楽しいの。他の誰でもなくて、すみれだからだよ。私なんかって、言わないでよ』って、恵理が言ってくれたんだよね」
「何でそんなに細かく覚えてるのよ」
今度はわたしが照れる番だった。
「嬉しかったから。誰かに、必要としてもらえたことって、たぶん、あの時が初めてだったと思う」
はっとした。
そっか、そうだったんだ。
わたしは、きっと陽翔に必要として欲しかったんだ。
君がいてくれて良かったって言って欲しかったんだ。ただ、それだけだったんだ。それなのに……。
「ねえ、明日会える?」
「明日、大丈夫だよ」
「じゃあ、『ちょび』に九時半集合!」
「九時半? 早くない?」
驚いたすみれの声は、たぶんわたしのことを気にかけてくれているのだと思う。朝の仕度とか、距離的なことを含めて。
けれど、すみれは知らない。わたしが、家を離れて夜を渡っていることを。
「大丈夫。すみれこそ、遅れないでよね」
「うん」
そう言ったすみれの声に違和感を感じた。
「どうしたの?」
「あのね、実を言うとね。私もさっきまで、ちょこっと落ち込んでたんだ」
「うん」
「だから、恵理の声聞けてよかった。ありがとう」
わたしは少しうつむいた。髪がさらさら流れてきて、花の香りがわたしを包み込んだ。
「ばかだね」
わたしが、嫌われないように努力してきたのは。好かれたいからじゃなくて、わたしが必要だと言われたかったからなんだ。
「こっちこそ、ありがとうだよ」
雨粒を沢山つけた窓ガラスの向こう側に、わたしが映っている。手で触れて、それから小さく手を振った。
さようなら、陽翔。
さようなら、陽翔が好きだった、わたし。
わたし、また、ここから始めようと思う。
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