第6話 海とモヒート
海が見える席に座って、私たちは昼間からお酒を飲んでいる。
ラズベリーやブルーベリーがごろごろと入ったカクテルを、私はマドラーでぐるぐるとかき混ぜる。
その横で「葉っぱが多すぎる」と文句を言いながらモヒートを飲んでいるのは、ひかるだ。
私は坂の上の住人から、連絡先を受け取って、何度もスマートフォンを手に取ったり、下ろしたりしながらも、意を決して連絡を取った。
彼女の名前は、ひかるといった。
「ひらがなの名前、おんなじだね」と最初のLINEが送られてきた。
スタンプはあまり使わない彼女とのやりとりは、終わらないガールズトークで、楽しかった。その日から続けて連絡を取り合い、そして今日、あの雨の日以来に再会を果たした。
歩道を挟んで、目の前には海が広がっている。海といっても、砂浜や岩に波が寄せられる訳ではなく、コンクリートに波がぶつかるだけなので、耳をよくそばだてないと、波の音は聞こえない。
目線を少し上げて、船が通るのを見たり、水平線を確認して初めて、ああ海だったのかと理解するような、そんな場所だった。
「ホントのこと言ってもいい?」
唐突にひかるは言う。指先でミントの葉をもてあそんでいる。
「あのパンツね。戻ってこなきゃいいのにって、ホントは思ってた」
突然の告白に、一瞬目眩を感じる。
「ごめん」
「ちがうの、ちがうの! アレね……、出て行った彼氏のものなんだ」
困ったように、ひかるは笑った。左耳の星形ピアスが悲しそうに光る。
「全く、恥ずかしい話なんだけどさ! 聞いてくれる?」
私が二度頷くと、ひかるは両手を伸ばしてのびをした。
「ずっと同棲してた相手がさ、急に出て行っちゃって! 五年もだよ! 五年も! 一緒にいたのに」
右手の指をいっぱい広げて、五年とひかるは強調する。
「なんかさ、訳わかんなくて。悲しくって、ツラくてさ、あいつが残していった物の中で一番、派手だった物をベランダに吊るしておいたの。それが……」
「「赤パンツ!!」」
同時に叫んで、私たちはお腹をかかえて笑った。目尻から涙が出てくる。
「目印のつもりだったのかな。あたしは、まだ待ってるって。……でも、人質みたいな感じでもあったかも。なんていうか……あれは、怒りの象徴だったのかもね、理不尽な事に対する」
私はひかるの横顔を眺める。長いまつ毛に縁取られた目は、遠くの海を見つめている。それとも、出ていった彼氏を見ているのだろうか。
「だからさ、あの日、パンツがいなくなったとき、少しほっとした自分もいたんだよね。やっと、忘れる日がやってきたのかもって」
「ひかる……ごめんね」
私はあの日、普段とは違う自分を演じてみたかっただけなのだ。脱皮という名前に憧れて、日常と違うことをして、ただ何かが起きないかと、期待しただけ。
余計なお世話とは、こういう事だと胸が重くなる。
「すみれは、悪くないってば。それにね、あたし、すごく探し回ったんだよ。未練タラタラでしょ? だから、綺麗に洗濯されたパンツを見た時、泣いちゃって」
手のひらで顔をあおぎながら、ひかるは自笑する。
「嬉しかったなー『お家に帰れるといいです』って書かれてたんだもん」
椅子の背もたれに体重を預けて、ひかるは空を見上げた。
「ダサいけどさ、あたし、決めたんだ。まだ、あいつを諦めないって」
ひかるはグラスを持ち上げて、チンと私のグラスを鳴らした。
「ありがとうね」
やっぱり、目線は合わせられなかった。恥ずかしさがどうしても勝ってしまう。
「ねえ、なんだか、これって女子会っぽくない?」
ひかるは自分で言って、自分で笑う。「女子会なんてしたことないし」とその後に付け加えて、また笑った。
かっこいいな、と私は思う。
性格も、服装も、真逆なのに、ひかると話していると楽しかった。
一人で決めて、悩んでも突き進む、ひかる。私みたいに、うじうじ前に行ったり、後ろに行ったり、果ては歩みを止めたりなどしないだろう。
「やっぱり、ひかるは坂の上の住人なんだね」
私が呟くと、ひかるは「ナニソレ?」と笑った。お酒が心地よく、頭を支配し始めている。
「私、実は……」
ひかるにこっそり、耳打ちする。
「ええ!! 不倫!? まじかよ!」
大声を上げるひかるの口を、慌てて押さえる。シー、シーっと口元に手をやる。顔が赤いのは、お酒のせいだけではない。
「やるねぇ、すみれ」
ニヤニヤ顔のひかるが言う。勢いで言ってしまってから、心が軽くなった気がした。
ちゃぷんと波の音がした。
私がとるべき選択は、わかっている。ずっと、今ではない、今ではないと、先延ばしにしてきただけだ。
結局、誰かに見てもらいたいだけなのだ。私という人間は。
浅ましい自分を見つけて、情けなくなる。ひかるのように、生きられたらなんて他力本願な願いを持ってしまう。
自分に自信がないから、他人のようにと思ってしまうのだろうか。
「ねえ、甘いもの食べに行こうよ!」
「賛成」
会計を済ませてから店を出る。海に1番近い歩道に出た。風にのって海のしずくが飛んでくる。
「ケーキ、パフェ、ホットケーキ、ドーナツ……どれにする?」
「うーん」
私は考える。
全部。
と言えるほど、私たちの胃袋は大きくない。欲望は、全てを選んではいけないのだ。
どれか、一つ。
選ぶべきものは、一つ。
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