第5話 天使のレース

 雨の日が続いている。


 少しでも気分を明るくしようと、紫陽花のピアスを耳にぶら下げてみる。赤紫色から水色のグラデーションが可愛い。それに合わせて、ワンピースも薄い水色にした。裾に花柄のモチーフレースがある。



 ポラリスにも、レースで出来たアクセサリーやワッペンが販売されている。


 触れたら割れてしまいそうな、繊細なレース。眺めているだけで、うっとりとしてしまう。



 傘をさして、ポラリスへ向かう。無意識に坂の上を見てしまった。


 あの日。私は、坂の上の住人に会った。


 その人は、女性だった。ベリーショートが似合う、顔の小さな女性。彼女は、確かに「待って」と言っていた。私は急に恥ずかしくなって、逃げた。


 以来、そのままである。


 私は一体、何を期待していたのだろう。小説の始まりのような出来事を、期待していたのだろうか。


「おはよう、すみれさん」


 今日も真梨子さんの挨拶は、早い。


「雨が続いてるね。客足も遠くなっちゃう」


 少し頭痛がするのか、真梨子さんは顔をしかめた。


「頭痛、大丈夫ですか?」


 私が聞くと、真梨子さんは髪を耳にかけながら言う。


「もう、慣れっこなの」


 ほうっと溜息をついてから、真梨子さんは窓側のディスプレイの前に立つ。


「ここ、入れ替えましょ」


 窓側のディスプレイは、通りを歩くお客様の目につく一番の場所だ。だから、この場所は必ず真梨子店長の指示の元で、陳列される。


 選び抜かれた商品の中に、花柄のレースがあった。薔薇の花を中央に、波を打つような葉が、両手を広げている。


「天使の羽みたい」


 優しく持ち上げて呟いた時、どきりとした。


 窓の外に青い傘をさした女性が通り過ぎていった。彼女の顔が、こちらを向く。大きな目が見開かれる。


 その一瞬が、まるでスローモーションのようだった。雨粒一つ一つが見えるように。


 ドンっと地響きのような音がして、滝のような雨が降ってくる。


「すごい雨」


 彼女は、青い傘を閉まってポラリスに入ってきた。白いTシャツが半分濡れて、透けてしまっている。


「タオルをお持ちしますね」と言って、真梨子さんは事務所へと走っていってしまった。


 地面を容赦なく叩く、雨の音が響く。低く雷の音も聞こえた。


「坂の途中の住人」


 私は、はっとして彼女を見る。頰が熱くなるのを感じた。


「やっぱり。そうかなって思ったんだ」


 彼女の声は、優しいアルト。化粧っ気のない顔でも、地味にならない良さがあった。歳はいくつくらいだろうか。同い年にも年下にもみえた。


「落としたものが、アレだし。なんだか恥ずかしいけどさ。やっぱり、ちゃんとお礼したかったんだよね」


 彼女が一歩、私に近づく。


「ありがとう」


 いつぶりだろう。機械的な「ありがとう」以外のありがとうを聞いたのは。


 真っ直ぐな彼女の目線に耐えきれなくなって、目を逸らす。今きっと、顔が赤い。


「……すみません」


 何に対しての「すみません」なのだろうと、自分でも恥ずかしくなってくる。


「謝ることないって。ホントに感謝してるんだから。もしよかったら、今度奢らせてよ」


 そう言って、彼女はカバンをあさる。手帳を取り出して、何かを書きつける。


「これ、あたしのLINE気が向いたら連絡してよ。もし、嫌なら構わない。あたしは別に恨んだりしないから、安心して」


 渡されたメモを受け取ると、彼女は嬉しそうに笑った。


「それ、レース?」


 彼女は私の手元を指差す。


「えっ。あ、はい。レースです……」


 昔からそうだ。彼女のような、強くて輝いていて、自分の主張をきちんとする人を前にすると、気後れしてしまう。


 苦手なわけではない。彼女が太陽なら、私はジリジリと焼かれている虫のように感じてしまう。


「天使の羽みたい」


 その言葉に、現実に戻された。彼女と目が合う。


「天使の羽って、ホントにレースで出来てるのかもね」


 私は手元に視線を落とす。花柄のレースが、天使の落とした一枚の羽に見えた。


 先ほどまでの、彼女に対する緊張がゆるゆると溶けていく。


「あの」と言いかけたところで、真梨子さんがタオルを持って戻ってきた。


「お客様。もしよろしければ、こちらのTシャツを使って下さい。もう店頭に出せないものですので……」


「いいんですか? ありがとうございます」


 タオルを首にかけ、彼女はその場で濡れたTシャツを脱いで着替えた。


 その全く恥じない、堂々とした動作に、私は勿論、真梨子さんも呆気にとられていた。


「雨宿りさせてもらって、服までもらっちゃ悪いんで、これ買わせて下さい」


 彼女は私の手から、花柄のレースをするりと抜き取る。


「幸せになれそうだし」


 そう言って、彼女はにかっと笑った。


 雨が弱まってから、彼女はポラリスを去って行った。私はもう見えなくなってしまった、彼女の後ろ姿を眺めていた。切り取ったように、鮮明に彼女の色が視界に残っている。


 ドアチャイムが、そんな私の心を理解してか、余韻のようにいつまでも鳴り響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る