第4話 梅雨

 雨が降る鎌倉駅前の喫茶店に、私は冷めた珈琲と共にいる。


 待ち人は、来ない。


 一時間ほど前に「ごめん」の一言、連絡があっただけだ。


 悲しくなんか、ない。悲しむ資格なんて、私にはないのだから。恋人でも何者でもないのだから。


「すみません」


 私は店員さんを呼び止め、追加の珈琲とホットケーキを頼んだ。ここは、食べるに限る。


 雨の中、一人で鎌倉を散策する程、元気はなかった。かといって、すぐに家に帰ろうと思う程、心が元に戻っていなかった。


 喫茶店には中庭があり、日本庭園というよりは、鬱蒼と茂る木々の庭であった。


 正方形に近いその中庭を、客席がぐるりと取り囲んでいる。それにも関わらず、他の客の視線が気にならないくらい、丁度いい塩梅に木々が配置されている。


 その中庭に、雨がしとしとと降り注ぐ。


 次の珈琲がくるまで、スマートフォンは触らないことにした。何かと手持ち無沙汰になると、スマートフォンを触る癖がついてしまっている。


 雨はまるで、ミストのようだ。濡れた木々の葉に、露が流れていく。


「もう梅雨入りかねえ」


 そんな声が近くの席から聞こえてきた。


 梅雨。

 梅の雨と書いて、梅雨。どうして、梅なのだろう。それに「ばいう」ならまだしも「つゆ」とは流石に読めない。


 キラキラネームとよく言うけれど、梅雨だってキラキラネームじゃないかと、私は心の中で思った。


 大きく膨らんだホットケーキは、甘すぎず、ふわふわしすぎていないところが、良かった。


「すみれちゃんって、ふわふわしてるよね」


 そう言ったのは、中学の同級生だったか、高校の同級生だったか。褒め言葉ではないのは、同級生の雰囲気でなんとなくわかった。


「ふわふわ」している人間って、どういうことだろう。私はホットケーキにフォークを突き刺す。



 何も考えていない、という事だろうか。



 そうならば、強ち間違いではないだろう。

深く物事を考えることを、放棄している自分がいる事を、私は知っている。


 人間関係も仕事も、どこか「私には関係のないことだから」と俯瞰している自分がいる。


 その事に気がついていてもなお、自分自身を変えようとしない私が、嫌いだった。


 最後のひと口に、残りのメープルシロップをどかりとかける。黒い液体が、ホットケーキのスポンジに染み込んでいく。ふわふわだったホットケーキが、重たく沈んでいく。


 ひと口で食べたそれは、お気に入りのリップを汚して、唇から甘い液を垂らした。



 甘い食べ物は、蠱惑的だ。

 私を捉えて、離れなくする。

 こんな思いをしても、私は許してしまうのだから。





 真っ赤な傘が、揺れている。


 淡いパープルのワンピースは、裾が雨をふくんで重たそうだ。


 小港荘へ向かう坂道で、私はふと足を止めた。


 道の端に、梅が落ちていた。

 落ちた葉に紛れて、雨に濡れている。


 視界の隅で、緑の玉が映る。



 ころころ、ころ。



 まだ青い梅が、坂道を転がっていく。この辺りに梅の木があるのだろうか、と視線をあげて気がついた。


 青色の傘の女性に。

 雨粒が、頬を優しく叩く。


 掲示板を見つめていた顔が、こちらへゆっくり向く。


 露が、落ちる。


 視線が合った。

 雨音が遠のいていく中、私は直感的に理解した。



 ああ彼女が、坂の上の住人なのだと。

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