書使活動録1

幻視する博物館

 カツカツカツと大理石の階段を上がる音。革靴の踵が、透けるような白亜の段を軽やかに叩く。

 仄白い光石の明りは昼間のように周囲を照らす。かつては、帝国貴族の別荘だったという豪奢な建築物は、今は街の歴史博物館となっている。

 男は。微かに淡い翡翠の双眸を開き、上を見上げた。階下は数百年前の民族文化の展示が主となっている。階段は螺旋を描き吹き抜けて二階へと続く。その踊り場だ。

 見上げている先にあるのは、ステンドグラス。節制の暗示、美女が水瓶を抱く色絵硝子。重なるイメージは、男の上司たる特級書使の女性。

「……禁貸出の資料だと言うのが、どうにも困る。三日、否、一晩で構わないのだがなぁ」

 男は蒼い『書使』の制服の襟元を緩めながら微かに眉を顰めて呟いた。撫で付けた白銀の髪と相まって酷く砕けた印象を与える。そうして、軽く嘆息すると再び歩みを始める。

 カッ……。

 踵の立てた音が大理石の建物の中に響く。男が足を止めたのは、階段の欄干に据えられた展示物の前。神妙に鎮座した硝子ケースの一つ。

「あなたには本当に苦労させられる。確かに女性に恋するというのはそういうものなのだろうけど。……苦手なんだけどなぁ、こういうのは」

 人生の苦労は少ないほうが嬉しいんだけどなぁと、冗談ともつかない小言を紡ぎながら取り出した片眼鏡を通して見るのは硝子ケースの向こう岸。在るのは、首飾り。中心に月光晶をその周りに真珠を房状にあしらった代物。

 解説のプレートには、帝国時代末期の著名な女性装飾職人の私物と記されている。

「せめて硝子から出させて欲しいんだけどなぁ」

 そして再び懐中から取り出したのは、一冊の古書。小型な革張りのその表紙は、何故か刃物で乱雑に切り裂かれていた。その日記を手にする事が、男の『書使』としての当面の使命。そして、そこに書かれたこの首飾りに興味を持ったのは、ただ純粋に男の興味。

 男はそれを暫し捲ると焼け焦げページの合間に挟まれた写し絵があった。男はそれを取り出し、硝子ケースの前に翳す。

 描かれているのは、淡い笑みを浮かべた一人の娼婦。大きく開いたドレスの胸元を飾るのは月光晶と真珠の首飾り。

「おそらく同じものだろうなぁ。問題は、何故これを帝国貴族と関わりのあった娼婦が持っていたのか、か……」

 かさりかさり、流れた時に色褪せた華やかな女の写し絵は男の五指で弄ばれ、もと在った様に古書の合間に収められた。

 古書にこびりついているのは、黒々と変色した時の重みを実感させる血痕。惨劇の痕跡。

「装飾職人は当時、反乱軍の一員だった。そして、この首飾りは、反乱軍、後の解放軍の象徴にさえなったと言うのに。なぜそれが、貴族の関係者の手もあったのか」

 男は呟く。呟きながら思考を纏めていく。

「しかも、装飾職人と娼婦が同時期にこの首飾りを身につけていたという記録も存在する。

 一つしか存在しないはずの首飾りが。奇妙な話だよなぁ」

 男はそこで言葉を止め、腕を組む。沈考する。ただ組んだ腕の上でリズムを取るように指が踊る。

「首飾りがもう一つあった? まさか……」

 自分の考えに皮肉な笑みを浮かべる。

 月光晶は、酷く加工が難しい代物だ。どれ程熟練した腕を持った職人であっても、同じ形に加工するなど出来る事ではない。故に、月光晶は己が形を内包する結晶と呼ばれるのだから。

 と、不意に視線を感じたような気がして振り返った。見えたのは、節制の美女。その暗示の通り、あるいは、イメージの通り好奇心で動くな、使命を果たせ、とでも言うのだろうか?

「仕事はしますよ。ですが、好奇心を押さえる事も出来ま……」

 いい訳じみた呟きは途中で男の喉に飲み込まれた。

 男の目が見開かれる。大理石の壁に写り込んだ背後の風景。そこには、階段を上る女の姿があった。振り返る。幻ではなく、確かにそこに女がいた。閉館までまだもう暫く間がある。観覧者がいたところで何の不思議にもならない。しかし、そこにいたのは、写し絵の娼婦。

「は?」

 女は行き過ぎた。男は唖然としたまま見送る。目の錯覚、幻と言ってしまえればよかったのかもしれない。けれど、女の胸元を飾る白い真珠と月光晶の首飾りは……。

「なんで、そんな」

 狼狽を隠せないまま、硝子ケースを凝視する。中には、確かに、首飾りが存在していた。節制の美女が背後で笑う。

「ちょっと」

 行き過ぎ通り過ぎる女へと手を伸ばす。呼び止めようと、声をかける。それを遮ったのは、階下で弾けた煌き。『力』が志向性を持つときに放つ光だ。

 娼婦の胸に紅い華が咲く。ゆっくりと娼婦が倒れる。男は欄干に縋りつき階下に視線をやる。いた。いまだ輝きの残る杖を携えた首飾りの作り主、装飾職人の女。赤い唇が歪んでいる。男は眩暈に襲われる。足元から崩れていきそうなそんな動揺。何故なら、装飾職人の胸を飾るのも、あの首飾り。

「あ、ああああああぁああっ」

 思わず絶叫する。階下へ向けて、目の前の光景に向けて、揺らいでいる現実に向けて。

 装飾職人と視線が合う。引き込まれる。その昏い瞳に……。

 あるいは、肩を叩かれなければ、そのまま階下へと落ち込んでいっていたかもしれない。

 現実に立ち戻り、振り返れば、そこに髭を蓄えた初老の男性がいた。何度か首飾りを貸し出してもらえるように頼み込んだ相手、この博物館の館長だ。

 館長は軽く、けれど沈痛に首を振る。

「ですから、お貸しできないのです。クロムさん」

 静かに告げられた。

 未だ曖昧とした認識のまま、階下を見る、そして二階へと続く階段を見上げる。いない。娼婦も装飾職人も。血しぶきも煌きも、何も、ない……。

「いえ、大丈夫。少し眩暈がしただけですので」

 差し伸べられた館長の手を断り、クロムは欄干を支えに立ち上がる。そして、階段を降りる。降りた先には、装飾職人はいないだろう。二階に娼婦の姿がないのと同じように。

 だけど、彼女達はいつか再び目の前に現れるのかもしれない。あの首飾りを追う限り。

「自制しろ、と言う訳ですか?」

 振り返った先には、ステンドグラスの美女がいた。微笑を浮かべている。やはり上司に似ていると思う。

 クロムもそれを見て笑みを浮かべ。

 閉館間際の博物館を後にした。

 時は宵。亡霊の宴の時と言われる黄昏の刻。

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ファンタジーワークス断片集 此木晶(しょう) @syou2022

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