安寧の祈り(1)

 春明の声に、答えはすぐに与えられた。

 祈りのから人影が、静かに姿を現す。


白露しらつゆ。そなたが私を友などと思っていたとは、予期もしていなかったな」


 穏やかな低い声。彫の深い顔は、薄暗い朱色しゅいろの空のせいで影が落ち、憂鬱に沈んで見える。見目はいまだ三十に届かぬほどながら、身に帯びた哀切のせいか、ずっとよわいを重ねた翳りがあった。

 すっと高い背をより高く見せるのは、その冠を飾るえいのせいだ。垂らすことしか許されぬそれを、唯一、まっすぐ上に伸ばしていただける存在。身に纏うほうの色は、落ち着いた気品ある赤茶の黄櫨染こうろぜん。やはりこの世でたったひとりにしか許されぬ、禁色きんじきだ。


「おや、つれのぉございますな。では、言葉の綾とでも申しておきましょう、帝」

 寄り添うように側へと歩みよった白露が、からかって笑えば、大樹帝は厳めしくその眉をしかめた。


「そなたの言葉通り、この勾玉へ祈りは捧げきった。これでそなたの息子は――いにしえの神がごとき力を持ち得、この御垣の御代を終わらせられるのだな」

「ええ、ええ。大樹の帝なるあなたの願いを――《澱み》を得ましたのならば。吾子の身を象った死人の帝の血とあいまって、間違いなく、世を覆す、天帝に相応しきモノとなり得ましょう」


 大樹帝の広げた手のひらに、九つ目の勾玉が小さく光る。相変わらずぞっとするほど清廉で、穢れを知らぬ澄んだ深い青だった。


「そなたが私に会った日に示したのは、八つ。ひとつはすでに、私の身近に潜めていると聞いてはいたが……こうしてすべてを前にしても、いまだ信じられぬな。私の目にはいまなお春明は、紛うことなく、人であるようにしか見えぬのだから」


 賢帝のまなざしは、いとおしむように臣下に注がれた。だがそこには、柔らかに憐憫がさし込まれている。

 死人と化生で象った器を、《澱み》と他者の血で満たし、勾玉で繋いで命に変えた生きモノ。その身の上を悼む、優しく、けれど突き刺すような哀れみに満ちていた。


 帝の手の内で、瑠璃の勾玉が、ちらりと光を放った。


 とたん、ぞわりと身の毛がよだつ感覚に、春明は己が身を押さえた。腹のうちからせり上がるような悪寒。肌が焼かれたようにひりつき、骨が軋む。結い結んでいた髪が銀色に染まり変わると同時に、生き物のように蠢いて背へと流れかかり、腰下に獣の尾が毛を逆立てて揺れた。

 造り変えられる――思考より先に襲ってきた恐れに、金色交じりの瞳が、ひさしの大樹帝を睨み上げた、瞬間。


 春明が動くより先に、淡い紫の籠目の紋が中空に切られた。閃光が、畏れも躊躇いもなく大樹帝の手元を射抜いて迸る。

 刹那の攻勢。しかしそれを、突如現れ出た白銀の鏡面が、弾き返して防ぎ止めた。


「さすが、先帝へ弓矢射かけるあるじを持つ者は、やることが違うのぉ。帝への畏敬を持たぬと見える」

「いや? 宮仕えにあらぬ身なれど、聖帝せいていたる我らが今上きんじょうには、さきほどまでは敬服の念を抱いていたよ。でも――己が守るべき御代を見限るというのなら、いかな思いがあろうと賛同いたしかねる」


 くすくすと白露は嘲りをこぼし、その隣の大樹帝は泰然と佇んだまま。されど玄月は、毅然と微笑んだ。


「それも我が友を利用し、その身どころか、魂まで変えようというのなら――俺は、許せないな」


 不敵な笑みがぱちんと指を打ち鳴らした、とたん。重なり合った籠目の紋が赤い天を覆って広がった。そこから光の渦が流星のごとく降り注ぐ。

 一瞬にして清涼殿が、光の豪雨に完膚なきまでに穿ち抜かれた。


 粉々に砕けた瓦。木っ端となった壮麗な柱や麗しい床材。もうもうと立ちこめる破壊後の砂煙に愕然とする春明の耳朶へ、清々しいひと声が響きわたる。


「先手必勝!」

「お、っまえ! その身体でなにしてる! 馬鹿か! 馬鹿だな! 無茶をするな! 考えろ!」


 八つの尾を逆立てて、銀色の髪を振り乱し、春明は玄月の胸倉に掴みかかった。あまりに豪胆すぎる術の使い方だ。病身への負荷を度外視するにもほどがある。先まで胸裏に渦巻いていた痛みとも苦しみともつかぬ色々なものが、清涼殿とともに吹っ飛んでしまった。


 だが、がくがくと身体を揺すられながらも、いつものようにへらへらの笑みは返ってこない。それどころか、思いのほか真面目な調子で、玄月は春明を見つめ返した。


「考えてられない。あとひとつ、あの勾玉が君のうちに取り込められたら、君はどうなる? 俺は君も、この御垣の世の先も、奪われたくない。だから――」

 土煙の向こうから空を切り裂き、三叉さんさやじりを持つ宝戟ほうげきたちが飛び交ってきた。それを玄月は紫の糸でからめとり、指先のひとくりで、反らし返して投げ放つ。


 だが、笑い声とともに朧な影が煙のうちで反撃をすり抜け、ふわりと中空に躍り出た。

 空に揺れるは九つの狐の尾。その傍らで涼しい顔で、玄月たちを見下ろす大樹帝の手の内からは、まだ瑠璃の光がこぼれていた。

 その輝きを、鋭く玄月は睨みあげる。


「あの勾玉は、君の一部になる前に、叩き壊す」


「大それた目標よのぉ。しかし、それができるかの?」

 決意をせせら笑う、たおやかな声音。

 玄月は口端を引き上げた。その横顔が、凛然と、春明の視界に映える。


「してみせるさ。――ねぇ春明」

「――ああ」

 振り向いた、星抱く射干玉の瞳に春明はうなずいた。


(ああ、そうだ。私は、この瞳に――)

 前を向くと決めたのだ。あの雨上がりの夏の夜も。朝ぼらけに、星が変えがたい彼の行く末を指し示した今日も。そして、いまも――。


 その瞳に煌めく、夜空の星と同じように、彼はいつも明日を見つめ、それを指し示すから――。

 金色の春明の双眸が、宙舞うふたりをねめつけた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る