未来の夢


 まるで獣の腹のうちだった。夏越なごしを迎えきらぬ残暑の生ぬるい風が、じとりと頬を嬲り、肌にまとわりつく。赤黒い空は、重く、暗く、夕陽の輝きとはほど遠い濁った光を、じんわりと放っていた。


 揺れに倒壊したあばら家や、屋根の崩れた邸の数々が虚ろに続く洛中らくちゅうは、ただ吹き上がる《澱み》の音だけが悲痛にこだましていた。疾風はやてのごとく馬が駆けゆくひび割れた大路おおじには、倒れ伏す人々の姿がある。そこへ、柔らかに黒い烏の羽根が、舞い積もっていっていた。

 黒の瑞兆。だが、こんな凄惨な光景に注がれる祝福があるだろうか。


 大内裏だいだいりを行き過ぎ、建礼門けんれいもんを飛び越え、承明門しょうめいもんを後にして、清涼殿せいりょうでんを目指す。内裏のうちも、人の気配はあるのに息吹いぶく生気はなく、死者の寝床のようだ。その不気味な静寂が、赤黒く染まる空気に染み渡っていた。


 清涼殿の東庭へ蹄を打ち鳴らし、躍り出ると同時に、青毛の馬が光と消える。降り立ったふたりの陰陽師がともに見上げた先――壮麗な殿舎でんしゃのうちから、ゆるりと影がひさしの方へと歩み寄ってきた。


 衣擦れの音を奏でるのは、縹色はなだいろに白を重ねた花薄はなすすきの装束。白銀の長い髪がなめらかに背へと滑り、濁った赤の中、清廉に輝いている。本来人の耳があるべき場所にそれはなく、頭部に一対、髪色と同じ毛並みの狐の耳があった。その背にふわふわと見えるのは、九本の白い狐の尾だ。

 金色の双眸が、白刃のような鋭く麗しいかんばせのうちで細められ、紅い唇が引き上がった。


「待っておったぞ、吾子あこ

「やはり貴様が元凶か」

「久方ぶりにまみえる母に、ひどい言い草だのぅ。育て方とやらを間違えたか。人と交われば交わるほど、その違いを感じ、孤独を深め、己と似て非なる人間どもの矮小さを蔑み、憎むようになると思うていたのだが……。よけいな友など作ってしもうたのが、悔やまれる」


 化生の言葉が辿るのは、もしかしたら春明が行きついたかもしれない未来。

 確かに、師という寄る辺はあっても、途中まで春明は、己をどこか、人の世にいてはならないモノだと思っていた。


 決して、交われない、寄り添えない。そう、いつも心の片端で、思い詰めて生きていた。

(それなのに――……)

 ――君の孤独の、よき友に。

(私がナニか知ってなお、そう、事もなげに手を差し伸べる奴がいたから――)

 いて、くれたから――。


 その手が、春明を今日、母の隣ではなく、彼の隣に立たせている。


 相対して己を睨む息子へなにを感じているかは知らないが、白狐はふたりを見渡すと、鈴の音のような笑い声をこぼした。


「だが、そのような死に損ない、連れてきてなんになる。おぬしも物好きじゃのぅ。大人しく横になり、死を待つ方が楽であったろうに」

「残念だけど、俺、友に出来る助力もせず、のん気に寝てるなんて考えられない男でね」

「助力? 助力か。その弱りきった身体で笑わせる」

 さも楽しげに艶やかに、妖狐の口端は笑みに崩れた。


「それに吾子の力になりたいというのなら、無駄に抗いなどせず、早うその病に喰われるがよかろうよ。さすれば吾子が――新たな帝となる」

 うっとりと蕩けた、妖艶な金の瞳。それを驚きなく、春明は苦々しげに視線で突き刺した。

 満ち足りて笑み歪む口元へ、しなやかな指先が添えられる。


「さすが吾子。感づいておったか」

「再び私の身をのっとり、傀儡かいらいにでもするつもりか?」

 吐き捨てる春明に、白銀のかぶりは優雅に横に振られた。


「そのようなことはせぬよ。母とは、子を慈しみ、その大成と栄華を願うものなのであろう? わらわは、母という営みを堪能してみたかったのでな。せっかくならば、その栄華はこの世のいただきに立つものがよい。ゆえに、化生の王となる子を、造ってみたのよ。それが吾子じゃ」


 春明に注がれる金色の眼差し。蕩けそうな愛おしさを装ってみても、その底にあるのは、嗜虐の快楽だ。美しいからと蝶の翅をもぐように。可愛らしいからと、赤子の爪をはぐように。

 なにかへ好ましく抱いた思いを、悪逆で注ぐ。まさしく化生のさがを煮凝らせたような情動だった。


「そなたの友の得た病は、いずれそなたに力を与えよう。病は、かかった者の身体を削るゆえな。人の身はか弱いが、その器はまったき陰陽を合わせ持っている。吐いた血が、腐り落ちた臓腑が、人の身から陰陽の力を奪い、勾玉へと集め、吾子により強固な化生としての肉体を――器を与える。病を得た人間の嘆きは《澱み》を生み、吾子により強大な力を授ける。他の勾玉もみなそうじゃ。人を喰らい、陰陽の力をため、恐れ、嘆きの情の《澱み》を集める。すべて、すべて、吾子がより強き化生となるための糧よ」


 言祝ぐようにはしゃぐ化生の声に、春明はぎりりと奥歯を噛みしめた。

 己が身に勾玉が宿ったと知った時点で、ある程度、予測はしていた。この身に何か、変異を起こそうとしているのだろうと。それが、彼の身をなにより強い化生とし為すことであったわけだ。春明を、この世を統べる帝の地位につけるために。


「笑わせる」

 春明は吐き捨てた。


 そんなことのために、この眼前の狐の化生は、数多の命を軽々と奪わせてきたのだ。そんなことのために春明は、友の首に失意とともにあいまみえたのだ。

 そんなことのために――玄月は、病に倒れようとしているのだ。


「たとえ貴様の目論見が叶い、私が化生と成り変わったとて、帝の地位にはつけまいよ。大樹帝の血脈は神代の名残。神々の威光がこの地を離れ、遠くかぼそい星明かりとなったとて、植え置いた御垣の根は揺るがない。大樹帝はこの国土の要石だ。貴様がかように国を騒がせ、乱し、追い落としたところで、その空位に化生の子など据え置いても、帝位は三日と保つまい」


 帝の座とは、誰もが座れるものではない。王の権威と責務を託された血というものがある。それこそ、天の神々が定め置いたかのように、歴代の大樹帝には、世のまったきを保つような不思議な力が宿っていた。神代の話を信じようと、信じなかろうと、それは歴然とした事実だ。だからこそ、藤氏とうしも寄り添いこそすれ、帝位を望みはせず、権力だけをむようにして、力を伸ばしているのである。

 だが、この世のことわりを説く春明を、嘲るように化生は笑う。


「いやいや、そうはならぬよ。吾子もなれる。妾がそう造った」

 怪訝そうに寄る春明の眉を、化生は心地よげに見つめた。

「そなたの半身は、大樹帝の血を引く」


 思いもかけぬ言葉に、春明の表情が凍りついたのをみとめて、整った唇は艶やかな笑い声を奏でた。


「正確には、死した帝の血じゃがな。ほれ、少し昔に、都を旧都へ戻そうと企てたおりの帝がおったであろう? あれを束の間、勾玉の力で反魂させてな。わらわのつまとしてやったのよ。そこの男は、あの夜に見抜きおったようじゃが……」


 ちらりと妖狐の視線が、玄月にかかった。春明が振り向き見たその横顔は、真摯さに覆われ、常の笑みはない。

 それで――春明はそれが、過ちのない事実なのだと思い知った。


 彼の身のうちに、八つ勾玉があった理由もそれでわかる。七つは集めたもの。残るひとつは――元から春明のうちに潜んでいたのだ。化生と死人の血を混ぜ合わせ、生きた人に似た器を造り上げる、繋ぎとして。


「なるほど……さすがのお前も、言葉を選びたがるわけだ」

 自然、口端にのったのは、乾いた苦笑。己が身は、半分化生、半分人間。そう思っていたが――

「死人と化生の子か」

 己の手のひらへ、春明は視線を落とす。生まれてすぐ、兄弟を裂いた手。血に濡れた手。そうしなければ、偽物の人の形すら保てなかった、異形の生まれ――。


「半分人ですら、なかったか……」

 なにを持って、自分の半分は人間だと、油断しきっていたのだろう。化生の子として、ただ人なら有り得ないはずの血に濡れた生誕と、異様な成長をしておきながら。


(陰鬱な生き物だと、思っていたくせに――)

 己がことながら、情けなくて笑えてくる。そう自分を卑下しながらなお、半分人であることを疑えずにいたのだ。

 化生のはらで混ぜ合わされた身体。ともがらを裂いて得た命。生まれると同時に、血に汚れた手――。そこへ落ちた視線が、自然と翳る。


 だが、それを遮るように、ふっと隣から腕が伸びた。


「君がそうやって思いつめそうだから、うまい言い方を考えてたの。でも、もういいや。伝えたいことだけ言わせてもらうよ。いいかい? どんな出自だろうと、君の魂は、まごうことなく、俺と一緒」


 手を取られ、引き上げられたのにつられて、顔上げる。同じ視線の高さで重なり合うのは、夜空の射干玉。それが、煌びやかに飛び込んできた。


「そんな暗い顔で見てやるなよ。この手、俺は好きだよ」

 ふわりと清涼な風が一陣、吹き抜けていった気がした。

 息苦しさを切り裂いて、華やかに笑う。その笑みに見覚えがあって、春明は記憶を辿った。


(ああ、そうか、あれは――……)

 いくども繰り返した夢を、思い出す。暗く澱んだ血濡れの夢。呪われた生まれの夢――。けれど、彼と出会ってから、夢の目覚めはいつも、その微笑みで終わりを告げた。あの夢の中でも、彼は自分と同じだと春明の手を取っていた。


(――未来を、夢見た……)

 淡く、喜色の滲む苦笑がこぼれた。


「まったくお前は……こんな時でも、変わらないな」

 だから俯いてもまた、春明も前を向ける。


 それに満足したのか、玄月も得意げにその唇に引いた笑みを深くした。

「君が生まれて、育ち、勾玉を持つ化生たちが現れて、星が翳った。そこまではきっと、思惑通り。でも君は、俺と出会ってた」

 陰陽示す太極の図のように繋がれた手。それに、ふわりと力が籠められる。

「だから、君は帝にならない。君は帝の添え星ではなく、俺の双璧である陰陽師。そうだろう?」


 そこには口先だけの鼓舞ではない、揺るぎない確信が込められていた。

 その真っ直ぐさが頼もしくあるはずなのに、一抹、ふっとなにか、寂しさに似た不安が春明の胸を鋭く突く。

 しかし、それの正体を春明が掴み切る前に、たおやかな声が思考を遮った。


「されど、吾子の身には勾玉がある。おぬしひとりがそばにいるだけで、なにができようぞ」

 悠々と勝ち誇った声は、陰陽師たちを見下ろして、金色の双眸をいっそう細めた。


「吾子は帝となる。人の手からこの世を奪って。《澱み》蠢く、化生の世として統べようぞ。それは、妾だけが望むのではないのだからのぅ。いかに妾の力があるとはいえ、この世は仮にも、大樹の帝が化生より守る場所。化生を排する力は持たずとも、かの血筋がくらいにあることで、この都が、この国が、妾たちの手から守られていることは忌々しくも、確かなことよ。どれほど枝葉を刻み、むしろうと、根は揺るがぬ。この世に住まうは人間どもということわりを覆して、化生の世に変える芸当などできまいよ。――妾ひとりで、あったのならな?」


 赤く爛れた空に、涼やかになびく銀糸が首を傾ぐ。


 確かに今、この世は、まるで黄泉路よみじの底から噴き出したかのような《澱み》に飲まれ、人の世としてあるべき陰陽の均衡を完全に失いかけている。それは、瞬きの間にあまたの人を屠れる化生であろうと、しえない業のはずだった。


 人の命に終わりがあるのは、この世の掟のうち。それを無理やり摘み取る所業であったとしても、世に起こるはずのない、無理を為しているわけではない。

 だが、この世から人間を退しりぞけ、《澱み》で満たして化生の世にするというのは、天を地に、地を天にするようなもの。この世を象ることわりそのものを破り捨てることだ。

 それをし為せると、美しい化生は笑う。


「吾子。そなたがそやつを友と呼び、出逢いを尊ぶならば、妾も同じよ。目的を同じゅうする友を得た」

 怪訝げなふたりの視線を心地よく受けて、その顔は右手へそっと向けられた。その先は、大樹帝の祈りの間だ。朝夕に、天帝へと拝礼を行い、世の安寧を願う場所――。


「……安寧を……?」

 気づくより先に、春明の唇からそうこぼれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る