安寧の祈り(2)



 白銀の光が春明の銀色の髪をなびかせ、空へと滑り、五芒の星が朱色の空に輝き描かれる。

 迎え撃つように、帝の手の内で勾玉が鈍く光を放った。崩れた清涼殿せいりょうでんが組み変わって龍となり、地面が蠢き吹き上がって、無数の巨大な泥の鬼と成り変わる。


 龍の尾が揺すり振られ、鬼たちが腕を振りかぶったのを、十二の星から迸ったいかずちがことごとく穿ち、砕き、焼き尽くした。紅蓮に走った業火の手は、そのまま地を駆け、空へと昇り、帝の手の内へと牙剥く獣となって燃え上がる。


 が、その隣で優雅に唇が笑みを結んだ瞬間。獣の首筋から背骨にかけて、鏡の破片が串刺しに貫いた。

 陽炎のようにゆらめいて、猛火が消える。と同時に、鏡の破片が氷となって鋭くふたりへ降り注いだ。


 それを、中空に結び編まれた糸の盾が受け止め防ぐ。合わせるように春明が口元に添えた指先へ息を吹きかければ、とたん、風の刃が唸り生まれ、大樹帝と白露しらつゆの間を切り裂いて吹き荒れた。


 うちきの裾と狐の尾をはためかせながら、吹き飛ばされた身体を持ち直そうと、白露がまだ無事な殿舎でんしゃの屋根へと降り立つ。そこへ、瞬時に薄紅の衣をはためかせ、玄月が追いすがった。閃いた紫の閃光を、現れ出た白銀の鏡が弾きいなした衝撃で、屋根が崩れ、殿舎がひび割れ倒壊していく。


 その轟音を背後に、春明は眼前の、厳かで、しかし沈痛に翳るかんばせを静かに見据えた。彼らの足元は、内裏の中心たる正殿の屋根。その下で、彼はどの御代の帝より真摯にまつりごとを行っていた、聖帝であったはずだった。


「――大樹帝。あなたほどのお方が、なぜこのような愚挙に力をお貸しになったのか、伺いたい」

 赤黒い澱んだ風に、なお清らかに長い銀糸が泳ぐ。問いただす金色の双眸に、いまだ消えぬ敬意の念を見て取って、帝は薄く笑みをたたえた。


「この世を守るのに、嫌気がさしたのだ。大樹の帝といわれようと――この手を慕って握る赤子の、やすらけき明日ひとつ守れない」


 とたん、正殿を突き崩して巨大な枝が猛り伸びてきた。それを避けたところに、宝戟ほうげきの嵐。無数に空に描かれた瑠璃色の渦から、それは注ぎ落ちてきている。

 勾玉が、大樹帝に力を与えているのだ。


「このままこの世を滅ぼしては、それこそ親王の御身は守れますまい! お眠りになったまま、目覚めないのをご存じか?」

「ああ。知っている。私がそうした。――苦しみを得ぬまま、終われるように」

 優しくいつくしむ音色に、春明の狐の耳が疑念のままにぴくりと震えた。

「なぜ! 幼き我が子の行く末を、摘み取るようなことをなさるのです!」


 赤子の相手をしていれば、多くは自然に願うものなのではないだろうか。――幸せに、大きくなれ、と。まして父親ならば、より強く、抱くものなのではないだろうか。


「行く末が、辛きものだと分かっていて、与える方が惨くはないだろうか?」

 瓦礫となったが正殿が、瑠璃色の輝きとともに組み変わる。龍の姿となって、伸び来る大樹の根や枝とともに、うねりながら牙を剥く。

 どちらも覚えのある姿。覚えのある形だ。


(安寧を、望み、守っていた)

 内裏のうちでの安寧を。御垣の彼方での安寧を。


 なびく銀色の髪から滑るように走った光が、龍を貫き氷漬け、別の一筋が枝や根を切り払う。

「帝……あなたが求める安寧は――明日のない滅びなのですか?」


 宝戟の嵐を炎が焼き焦がす。その白銀が溶け爆ぜた灰が舞い落ちる向こうで、大樹帝は悲しげに微笑んだ。


「苦しむと分かる明日ならば、ない方がいいだろう? いま、なにも知らぬに、安らかに終わらせてやりたい。この先、この御垣の世を生きていかねばならぬ我が子の寝顔を見ると……な。穏やかなその顔が、魂が、苦しみに歪み澱むのを、見たくはないのだ」

 普段はいつくしみをたたえる優しい視線が、憂いた溜息とともに重く落とされた。


「親王はまだ生まれたばかりだが、姫宮ひめみやは五つ。周囲の変化も薄々分かり始めている。私がなぜ、母や自分をないがしろにするのか……。それを悲しんでいるのは見て取れるのに、尋ねてきてもくれなんだ。私に問うてもせんないことと、理解しかけてしまっているのだ……。まだ五つの娘が、どんな沈んだ目で私を見たか、そなたは分かるまいな?」


 春明は、すぐには言葉を返せず、黙ってそれを受け止めた。


 おそらく――彼が愛した桐壺皇后の元に生まれた娘と息子は、この先成長しても、憂き目を見る方が多いだろう。定周さだちかたちは零落した一族。父である大樹帝も、権威はあれど権力はない。政権を担う貴族の意向を無視して、他に子をもうけないということは叶わない。


 いずれ藤壺中宮の元には、子が生まれるだろう。しかと星を読み解いたわけではないが、慶長よしながは天運に愛された男だ。おそらく、男宮が生まれることは間違いない。

 そうなれば、桐壺皇后の元の宮たちは、邪魔になる。だから、権力どころか、権威からも栄華からも遠ざけて、ひっそり寂しく、生かされるのだ。殺されはしない。だが、生きることに、なんの喜びも、楽しみも見いだせないような――気力を削り、魂を殺すような生かされ方をされるのだ。


 それは、早く明日を摘み取ってほしいと、日々願うような辛さかもしれない。


「――私の娘や息子ばかりではない。まつりごとをしていて、身に染みて分かった。この世は、明日を望むようには出来ていない。どれほど心を砕いても、私ひとりでは、なにもできぬ。病に苦しみ、化生にとり殺される者は絶えることはなく、貧者ひんじゃは減らずに立ち行かぬ暮らしに苦悩する。明日の幸せが見えない世を続かせて、いったいなんになるというのだろう? ならば、化生にくれてやった方が、我々は、明日に苦しむ日々を送らずに、安寧であれるのではないか?」

 優しい目元が、虚ろに微笑んだ。


「昔語りの神々は、情の《澱み》を糧に這い出る化生を厭うて黄泉に封じ、天に昇ったという。我らを守り手として、捨て置いて。だが、この世には苦しむ民の生む《澱み》と化生が蔓延り、もはや御垣か黄泉かの区別もつかぬ。いったい、なにから、なにを――この地で守れというのだ?」


「――それでもあなたは、今日まで明日を守ってまつりごとをおこなっていたはずだ。聖帝ひじりのみかど

 あえて、その尊称を呼ぶ。人ならざる金色の双眸が、まっすぐに臣下として、人の世統べる帝を仰ぐ。

 しかし――帝はゆるやかにかぶりをふった。


「守れぬ方法で守ろうとあがくのは……もう疲れた」

 瑠璃の勾玉の上で光がさざ波のように揺らめいた。

「確実な方法で苦しみから守りたいのなら、安らかに終わらせるのが一番――失敗のない安寧だ」

 この行く末に広がる、あらゆる不幸を遠ざけられる、もっとも間違いのない方法。


「春明、私たちはやすらけく眠る。この世は化生そなたらに譲ろう」

 清らかな青い光が、大樹帝の手の内から迸りかけた――その時。


「勝手に譲らないでよ」

 紫の光の糸が、天地を縫い留める雨のように降り注いだ。






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