あなたのくれた明日(1)


 ◇


『師匠! 松玄師匠!』

 どたどたと床を駆け抜け、目当ての人物の座り込むぼうの前へと滑り入ると、玄月はなおも声を張り上げた。

『なんで襁褓むつき洗い忘れてたの!』

『あ! しまった!』

 薬草を広げ、せっせと煎じて丸まっていた広い背中が、完全なる失念に大声とともに伸びる。と、玄月の腕の中で泣いていた赤子が、驚いてさらに声を張り上げた。


 松玄が今朝がた預かった知り合いの子だ。松玄はその瞳が化生を寄せるゆえ、人里を離れ、山のやしろで暮らしているが、人付き合いが嫌いなわけではない。むしろ誰かれと関わり合うのが好きな性分で、住処すみかに反して交友関係は広かった。陰陽師の関係であったり、薬草関係で世話になる者たちであったり、ただ単に友人であったり――こんな山の奥にもかかわらず、松玄の元に人の訪れが絶えることは、なかなかなかった。


 この赤子は、松玄の友人の陰陽師夫妻の子で、実はすでに何度か、彼ら師弟の世話になっている。父母がともに仕事に赴く際の預け先のひとつとなっているからだ。今回も、父も母も遠方へ化生調伏の用向きがあるからと、三日間の約束で、昨日、彼らの手に渡された。


 最近、ちまたで力の強い化生が現れ出るため、陰陽師界隈はなにかと忙しいのだ。松玄もこの三日はたまたま空いていたが、次の日からは遠出の予定となっていた。


 しかし、この赤子、いっこうに松玄になつかない。松玄の方はいっそかわいそうなほど愛想を振りまいて、お気に召していただこうと努力しているのだが、抱くと必ず泣く。巨躯が怖いのか、剃り上げた頭が怖いのか、なぜだか理由は分からないが、とりあえず、泣く。よって、たいてい玄月がその世話を仰せつかっていた。


『すまん、玄月! 式神とか、なんか火とか風の術とか、その辺で適当に上手く素早く洗って乾かしてくれ!』

『もうとっくにした!』

『だったら別によいではないか!』

『一言申し立てないと気が済まなかったの!』


 そこにぴょんと白い猫のような獣の式神が、乾いた襁褓を加えて飛び込んできた。それを受け取り、これ見よがしに隣でおむつ替えをしながら、玄月は言う。

『本当に、俺、こんなしょうもないことに日々、式神や術を使うようになるなんて、師匠に無理やり修行させられだした時は思いもしてなかったよね』


 おむつ替えが始まったからか、式神が興味を引いたからか、赤子はさっと泣き止んだ。いまは式神のもふりとした尾を掴もうと、短い腕を伸ばすのに一生懸命だ。


『我ら陰陽師だけに許された、生活の知恵ではないか。使えるのだから、使って悪いというものではあるまい』

『それはそうなんだけどさぁ』

 あっけらかんとした松玄に、玄月は小さく唇を尖らせる。襁褓を洗って乾かすためだけに術を行使する陰陽師――というのは、なんだか間が抜けている気がする。十四の少年の心持ちは複雑だ。


『しかししゅう。おぬし、世話がうまくなったな』

『誰かに全然なつかないせいでね』

『うむぅ……わしも抱っこしたいのだが……』

『いやだよねぇ、俺がいいんだもんねぇ』


 こまごまとした後始末はちょろちょろと動き回る小さな式神に任せ、玄月は赤子を抱き上げた。小さなまろい手のひらが、無遠慮に髪を引っ張ったのに悲鳴をあげながら、苦笑気味にその手を解いて、己が指先を握らせてやる。

 火がついたように泣き叫ぶ赤子を、疎ましげに睨むだけだった幼子が、ずいぶん様変わりした世話焼き具合だ。松玄の射干玉の瞳は、それをいとおしげに見やって細められた。


『可愛がり方も板についてきた』

『そうかな。よく分かんないけど、赤ん坊の相手してると、みんな自然にこんな風になるもんじゃないの? ――幸せに、大きくなれよ、ってさ』

『自然に……か。そうかもしれんが、そうでもないかもしれんなぁ』

 赤子の手のひらに握らせた指を揺り動かしながらあやす玄月を眺め、松玄は柔らかに笑い声をあげた。


 そこへとてとてと、小さな式神が赤子用につぶした粥を持ってきた。赤子の腰を支えて足の間に座らせ、玄月は匙をその小さな口元へ運ぶ。


『というか、俺ももう大人なんだからさ、赤子のひとりぐらい可愛がれるよ。あと数年もしたら子どもがいたっておかしくない年だし。それなのにいまだに幼名なのがおかしいんだよ。いい加減、俺の名前考えてくれない?』

『だから《玄月》はどうかと、この前言ったではないか』

『「げ」が二回もあって硬い響きが好みじゃない。あと師匠の字が入ってるのが、愛着重くてやだ』

『このけなしよう! 傷ついてしまうぞ!』

『なんか爽やかでかっこいい雰囲気のさ、例えば、晴れやかに明らけく――《晴明》とか、そんな感じがいい』

『自分で決められては名付け親としてのわしの立場がないではないか』

『あとは……陰陽の道を満たした者――で、《道満》とか』

『「げ」はいやで「ど」はいいのか?』

 弟子の感性がよくわからん、と松玄は首をひねる。


『まあ、よい。またいくつかお主の気に入りそうな名を考えてやるわ。それまでもうしばらく、秀で待っとれ』

 そう笑って頭をなでてきた手を、子ども扱いするなと玄月は払いやった。

 うららかな午後の日差しが、梢の間から、午睡ごすいを誘うように穏やかに差し込んでいた。


 安穏とした日常がいつのまにか当たり前過ぎて――そこに不穏の影が入り混じるだなんて、少なくとも玄月は、この時は思い寄りもしていなかった――。



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