後編

 マルガレータが王宮に状態されたのは、それから一か月以上後の昼間のことでした。お気に入りのグリーンのスーツを着た彼女は、迎えの車に乗って王宮を訪れました。「気取らない雰囲気で」という国王の意向で、昼食会という形が取られました。

 王宮の門をくぐったマルガレータを侍従長が出迎えます。ちなみに彼は年齢は国王と同じくらいに見えましたが、恰幅のいい体躯は対照的でした。マルガレータは痩身の国王と貫禄満点で、国王よりも国王らしい侍従長が並ぶ図を想像して、思わず吹き出しそうになりました。

 「マルガレータ様、ようこそお越しくださいました。国王陛下が食堂でお待ちかねでございます。どうぞお会いになってくださいまし」

侍従長がにこやかに言います。

 侍従長に案内された先は比較的小さめな食堂で秋の日の光が、大きな窓から柔らかくさしこんでいます。国王アルベルト三世がその光に照らされながら、起立してマルガレータを出迎えました。

「遠路はるばるようこそお越しくださいました。先日のあなたの適切な救護、改めて御礼申し上げます。今日はごゆるりとお楽しみください」

国王はにこやかにそう言いましたが、少し緊張しているようで、マルガレータにはそれが何となく微笑ましいものに思えました。

 フォアグラのフラン、マルセイユ風ブイヤベース、牛肉のボワレといった料理を食べながら、あるいは食後に王宮の庭を散策しながら、二人は互いの身の上や趣味について話しました。正直、国王の趣味の古書や古銭、切手のマニアックな話は退屈でしたが、好きな文学作品について話すときは、意外なユーモアがありました。国王と話していて、マルガレータの特に印象に残ったことが二つありました。

 一つは国王が侍従たちに例えば、水を注いでもらったときや料理を出してもらったときなど、いちいち「ありがとう」とお礼を言っていたことです。マルガレータも仕事柄、政治家や企業の経営者などと会食することは多くありましたが、彼らの中にはレストランの給仕に対して放漫に振舞うか、空気のように扱う人たちが少なからずいましたので、この国のエスタブリッシュメント中のエスタブリッシュメントとでもいうべき国王が、侍従たちに対してごく自然な敬意をもって接していたことは意外であり、新鮮でした。

 そして二つ目は、王宮の庭を散策しながら、マルガレータが自身の生い立ちについて話したとき、安易に同情の言葉を口にしなかったことでした。彼女が自身の生い立ちについて話すとき、たいていの人は「大変でしたね」とか、「苦労したんですね」とか同情や労いを口にします。マルガレータもそこに悪意のないことは分かっていても自分の人生そのものが同情的に総括されたようで、少なくともいい気分ではありませんでした。しかし、国王はそんなことは一言も口にせず、マルガレータの今後のビジネスの成功を祈ったり、彼女の子ども時代の楽しい思い出の話に笑ってくれたりしました。それは彼女にとってとても心地よいことでした。

 総じて国王との会食は、ちょうどよい湯加減のお風呂に入るような、そんな快い時間となりました。初対面に近い人にそんな感覚を覚えたこと、そして何よりこの国の多くの国民と同じく、「善良ではあるが凡庸」と見ていた国王が人間的に得難い美質を持っていると発見したことは、新鮮な驚きでした。

 だからこそ、別れ際に国王が「またお会いになっていただけますか」と言ったときに、「ええ、いつでも参上いたしますわ、陛下」と答えた彼女の言葉が、社交辞令だけではない、多分に真心の含まれたものとなったのでした。

 とはいっても相手は国王、おいそれと会えるものではありません。互いの近況をメールで報告しあう日々が続きました。メールの内容は他愛ない日常の一コマを綴ったものでしたが、マルガレータにとって家族以外とそんなやり取りをすることが久しくなかったことでした。そのメールの往来が続いて一年近く経ったころ、X国の遥か東の国で新型感染症が発生し、それは間もなく世界的な流行となったのです-。

 ウイルスはX国でも猛威を振るい、多くの感染者と体力のない高齢者と乳幼児を中心に多くの死者が出ました。X国も世界中の多くの国々と同様に感染拡大防止のためにロックダウンなどの非常措置が取られましたが、それは経済の停滞を招きました。

 言語問題を抱えるX国では政党も言語ごとに分かれており。議会で激しく対立していました。ためにしばしば政局が混乱することが多いのですが、この時にも低所得者への経済支援策をめぐって議会が紛糾。調整にあたっていた首相が急死してしまったのです。

 早速後継首班の指名が行われることになりましたが、X国では首班の選定にあたり国王が調整の役割を果たすことが憲法で規定されていました。よりにもよって世界的な感染爆発の最中の首相の急死という危機的状況の中で凡庸な国王をいただくことになろうとは-国民の間では口にはしないものの(いや、はっきり口にするメディアもありました)、失望感が漂います。

 しかし、この後の国王アルベルト三世の行動は国民の期待を、おそらく彼らにとって幸福な方向に裏切り、X国の中で後々まで語り草になることになるのです。

 アルベルトはまず、王宮に各党の代表者を招集しました。慣例では首班は議会第一党の党首が指名されることになっていましたが、この時は与野党の溝がかなり深まっており、第一党の党首を指名しても議会が再び空転する恐れがありました。また、第一党も突然党首をうしなったため、正式な後継党首を選出できていませんでした。

 党首たちとの会議に臨んだアルベルトはまず前首相への哀悼の意を表したあと、居並ぶ党首たちに向けて、先の世界大戦時の例にならい挙国一致内閣を組織することを提案します。そしてその首班候補として国王の従弟にあたるフランツ大公、退役軍人協会会長のベック元陸軍大将、そして議会最長老のレオン議員の三人を提示しました。

 予想外の提案に党首たちは虚をつかれましたが、アルベルトはその日はそのまま党首たちを帰らせました。そしてその後、記者たちに向けて挙国一致内閣の提案をしたと談話を発表しました。国民の多くはこの案を歓迎しましたが、首班指名の過程を勝手に発表した国王に対し各党の党首たちは怒りました。しかし、冷静になって考えてみるとこの難局にあえて火中の栗を拾うよりは政治的リスクの少ない、挙国一致内閣案に乗る方がいいように思えてきました。

 かくしてX国としては異例の短期間の協議でベック元大将が首相に選出されたのです。「古書と古銭にしか興味がない」という噂の国王の鮮やかな政治手腕に国民は驚きましたが、それはほんの始まりに過ぎませんでした。アルベルトは新内閣の下で国民の団結と「敵は“だれか”ではないウイルスだ」と国民が一丸となってウイルスに立ち向かうように演説しました。

 さらに国内の医療機関やワクチン開発にあたっている製薬会社、介護施設、託児施設などへの私財を投じた寄付を行い、自らテレビやネットのCMに出演し、マスク着用や手指消毒などの感染対策の徹底を呼びかけたのです。また、ワクチンが実用化されるといちはやくそれを接種。その模様をメディアに公開することで、その安全性と速やかな接種をアピールしました。

 かくしてアルベルト三世はパンデミックに立ち向かうX国のシンボルとなり、その評価は先代の女王と同等以上の名君と称されるまでになったのです。

 さて、このパンデミックの間、マルガレータの経営する病院にもたくさんの患者が押し寄せていました。普段は経営に専念している彼女も人手が足りず、一人の医師として患者の対応に当たりました。

 気密性の高い防護服を着て感染しないように神経を使いながら、次々押し寄せる患者の対応に当たる日々や、優先度の低い診療や手術が延期されたことで悪化する病院の収益などに頭を悩ますことはマルガレータの心身を消耗させました。その中で彼女の心を癒し支えていたことの一つが、アルベルトとのメールでした。互いの多忙と感染対策の関係で会うことこそかないませんでしたが、メールの中でアルベルトはマルガレータを気遣い、労り、励ましてくれました。メールに添付されていた王宮の庭園に咲くきれいな草花や、美しい景色の写真が彼女をほっとさせてくれました。それはどうということのない内容であったかもしれませんが、いつの間にかマルガレータは、アルベルトからのメールを心待ちにしている自分に気づきました。

 三年の月日が流れ、ワクチンと治療薬の普及によりパンデミックは終息していきました。パンデミックの間中、それぞれの場所で奮闘した二人にも平穏な日々が戻ってきました。

 柔らかな日の光の差し込むある日の午後、マルガレータは病院の会議室に七人の重役たちを招集しました。そして彼らを前に総院長の座を退くことを告げたのです。驚き、慰留する重役たちを前にマルガレータはこう言いました。

 「この病院はもう十分に大きくなりました。あまり創業者が居座り続けるのもいいことではないと思うし、パンデミックも終わったこのタイミングで皆さんに引き継いでもっと患者さんのためになるような病院にしてもらうほうがいいと思いました」

 マルガレータはその灰色の瞳で重役たちをまっすぐに見据えます。こうなった場合、彼女の意思が地上のいかなる物質よりも固いことを知っている重役たちは、一様に心の中でため息をつきながらも現実を受け容れることにしたのでした。

 重役の一人がマルガレータに尋ねました。

 「それで総院長、お辞めになった後は何をなさるおつもりで?」

 「こんな私とでも残りの人生を一緒に歩きたいと言ってくれる人がいるの。その人と一緒に別の意義ある仕事をするつもりよ」

そう言ってマルガレータは微笑みました。


 それからしばらくして、愛車の白いSUVを走らせるマルガレータの姿がありました。迎えの車はあえて断り、彼女は自分でそこに行くことにしました。そしてそこについて、衛兵に来訪を告げます。車を預け、マルガレータはあの日と同じように門をくぐります。

 その場所―王宮をマルガレータは再び訪れました。あの日と同じグリーンのスーツを着て。彼女をあの日と同じように少し緊張しながら待っているであろうその人は、おとぎ話に出てくる王子様みたいに若くてハンサムではありません。けれどもおとぎ話の王子様以上にやさしくて、静かな強さを持ち合わせた人。そして、その人と歩む残りの人生は、きっとおとぎ話のお姫様のように幸福と平穏だけに満ちた日々ではないだろうけれど、彼と一緒に歩めるなら、幸福で平穏なだけの毎日よりもきっと意味のあるような気がする―。

 そんなことを思いながら、マルガレータはいったん立ち止まり、軽く目を閉じて深呼吸をすると、いつもの彼女らしい静かで穏やかな微笑みを浮かべて、彼女を世界でいちばん待ちわびている人のところへ歩いていったのでした。

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現代的白雪姫 三浦淡路守 @awaji-no-kami

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