第7話


 僕は最近になって音楽活動を始めた。

 二歳児のくせに生意気だと言われるのは気が引ける。それに、あの天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは五歳でピアノ曲、八歳で交響曲、十一歳でオペラ、十二歳で協奏曲を作曲したと言われている。モーツァルトのみがこの世の天才ではあるまい。

 僕がやり始めた音楽活動は、リトミックと呼ばれている。これは単なる音楽への取り組みではなく、知的発達にもつながる。

 頓馬秀作がモーツァルトのような作曲家として世界に名を轟かせるのが可能なら、リトミックのおかげと言える。今のところ、教室で学ぶ内容は楽器演奏や声楽、作詞作曲や高度な音楽理論ではなく、先生のピアノ演奏に合わせてマラカスを振ったり、ボール遊びでリズム感を養ったりする。

 僕がモーツァルトのような天才になれるまでの時間は実感としては分からないが、はたして計算上、三年前後でピアノ曲が作曲できているか? 努力は、惜しまないつもりだ。

 ママは僕の知的成長や音感の発達、運動能力の向上よりも、健康管理に口うるさい。外から帰宅すると、手を洗え、うがいをしろ、食べ物の好き嫌いを言うな、牛乳を飲め、ヤクルトを飲め、と諭す。子供は放っておいてもいつのまにか成長し、大人になっていると思っていそうなパパとは対照的な存在だ。

 二歳児の僕は、インフルエンザにかかると身体に負担がかかる。さらに、コロナウイルスも人類の強敵である。病床で高熱で苦しむ危険な展開は避けたい。日本では、すでに高齢化社会が到来しているが、老化のプロセスは解明されているので、人類の寿命はさらに長寿になると予想されている。しかも、いずれ不老不死による究極のアンチエイジングの実現を期待する向きもある。つまりは、二歳児の僕の余命は現時点での推計は不可能だ。

 リトミック以外にも、僕が取り組んでいる物事は数多い。ジグソーパズル、迷路クイズ、間違い探し、レゴブロック、クレヨン画、水彩画、折り紙などなど。最近ではクロスワードクイズや百マス計算もしている。見識を磨くには、読書による知識習得は欠かせない日課となっている。

 二歳児、そう、生まれてから二年に過ぎない僕には、大人を中心とした人間観察に加えて、この世界がどのようなものか……、洞察を深めるための研究も必須項目である。子供は大人のペットでも玩具でもなければ、いじめやからかいの対象などでもなく、人格を有するそれなりに優れた存在だ。むしろ、大人よりもポテンシャルが高い。

 持てる潜在能力をいかにして開花させるかが、僕の研究、他の活動の主要な命題と言えよう。世界の未来は、死にゆく大人たちではなく僕ら子供たちにかかっている。勿論、知的営為だけで世界が成り立つものではない。健康かつ、強い肉体づくりも必要だ。

 ママの方針では、知育、徳育、体育のうち、知育重視だが今のうちに運動もさせておきたいようだ。徳育についての明確な方針としては、僕を信頼する事、毎日のニュースをもとにして、社会情勢などの意見を求める事……、まあそんなところだ。

 運動の中心はスイミングクラブに入会したので、泳ぎをマスターし基礎体力をつける。これは、僕にとってはかなりきつい。ベビースイミングコースでのトレーニングは、水中散歩やバタ足練習、浮き輪を着けて泳ぐのが上達したので、いよいよ潜り練習がスタートする。ママが横にいてくれるものの、初めてなので不安がよぎる。

 ママは本来なら、好きな推理小説やテレビドラマを見る時間を充てて、貝原益軒、フレーベル、モンテッソーリ、ドーマン、ニキーチン等々の本を読み、教育方針に役立ててくれる。樹里杏のママとも情報交換している。

 それでいて、ママは子供に対して多大な期待を寄せすぎると、ダメなのは薄々、気づいている。いつも、ママ友に「一人で考え、一人で何でもできる子供に成長させたい」と公言しているのからもそれは分かる。これって、僕にとっても有り難い。それに、僕一人の問題ではなく、知力と見識と体力に優れた人間がこの世に増えるのは望ましい。

 まだ、二歳児の僕には、睡眠時間もたっぷりと必要だ、大人の生活リズムに合わせて夜更かしすると睡眠不足のため、昼寝の時間が必要になる。僕としては、一日に十一時間から十四時間は眠りたい。だから、地獄の特訓は文字通り過酷だとも思う。ママの期待に答えたいと思う反面、弥次郎の生き方に憧れる。要するに管理主義ではなく、たまには伸び伸びとさせてほしい。

 弥次郎のママは、基本は放任主義だが、腹立ちまぎれに殴る。僕は今まで両親から殴られた経験も、怒鳴られたこともない。それは、僕が弥次郎に比べて飛び切り良い子だからか? いや、そんな風には思えない。

 ある日の事だ。僕はあろうことか タンスの抽斗を階段のように配置すると足をかけ天辺まで上り、天板の上に身を横たえて昼寝をしていた。そこをパパに見つかった。パパは僕を抱いて床に下ろすと「いたずらな奴だな。あんなヤンチャをするな。怪我でもしたら大変だからな」と諭した。

 パパから話を聞いたママは「無事でよかったわ。大事な、大事な、一人息子だからね」と、僕をぎゅっと抱きしめた。それから何日も経過し、僕は懲りずにタンスを上り、しばらく昼寝して下りるときに底板を踏み抜いた。「バリッ、バリッ」と、大きな音を聞きつけたママが慌ててくると、いつもと違い「何をするの」と鋭く厳しい口調で責めた。直後に、僕の足を見て、今度も「怪我しなくて良かった」と慰めた。

 それから、長い時間をかけて説教された。曾祖父の時代から伝わる桐の和ダンスの底板が、僕の足によって破壊されたから無理もない。だが、パパもママも高級タンスよりも僕を心配してくれていた。だから、弥次郎のママよりも、僕のママの方が……、はるかに優れているように思える。

 何事も行き過ぎはリスクを伴う。どうか、大人たちにはバランス感覚だけは失わないでほしいと念じておきたい。

 パパが例によって例のごとく、ママの留守中に台所で練乳を舐めたり、味付け海苔や竹輪をおやつのように食べたりしているのに出くわす。そんなときのパパは「ママには絶対に話すなよ」と口封じをする。「男と男の友情の証だ」と、僕にも練乳を舐めさせたり、味付け海苔を口に入れてくれたりする。パパによると、裏切りはユダであろうと、ブルータスであろうと、光秀であろうと後世の名折れだ。

――天下のあらゆる民は、我と同じく天地の子なれば、みな我が兄弟なれば、もっと愛すべきこと言うにおよばず。――江戸の本草学者で儒学者の貝原益軒が残した言葉だ。

 弥次郎に言わせると、これに反して「男が本心で愛せるのは、可愛らしい女の子だけだ。例えば樹里杏のような子だけだよ」と自説を述べる。

 僕は弥次郎説ではなく、貝原益軒説を支持している。

 そんな折も折、町内の水道管の老朽化に伴う工事が決まり、七日間の断水が決定した。

 飲み水や料理に使う水はミネラルウォーターのペットボトル、トイレ用の水は浴槽とバケツにためておいた。この七日間は水を節約して使うために、レストランで食事をしたり、スーパーマーケットのトイレで用を足したりする状況が多くなる。

 初日から、中華料理店で家族三人の食事をしていると、同じ店に樹里杏や譲治の家族が来ていた。二家族とも席が遠く、店が混雑していたので軽く挨拶を交わすだけだ。気のせいなのか樹里杏の表情は明るく、僕を見る目も優しく麗しく好意的だ。

 一方で、弥次郎の家族と遭遇したのはコンビニエンスストアだ。工務店経営者なのに贅沢をしない。弥次郎は「うちの家族の唯一の愛読書は預金通帳だよ。通帳だけは飽きずに眺め続けている。皆、揃って吝嗇家だ」と告白していた。

 パパの帰りが遅いときは、家でママとカップラーメンやおにぎりを食べた。飲料水が少ないとママは手の込んだ料理を作る気がしないようだ。水道水が使えないと、当然だが自宅の風呂で入浴も出来ない。夏の暑い日が続く中で、シャワーも浴びないのは不健全だ。

 パパの帰りが遅い日は、ママと銭湯に出かけた。僕の背中を流すのはママの役目だ。つまり、女湯に入る。ここでも、樹里杏の家族にばったり会った。断水の七日間のうち二回も会ったのである。最初は断水二日目だ。

 銭湯に初めて行った僕は、奇観に驚くと同時に笑いだしそうになった。入口に番台があり、そこを通りロッカールームで貴重品を預ける。ここまでの行動には違和感がない。だが、脱衣場に行くと、老いも若きも、そこにいる全員が服を脱ぎ全裸になる。後姿を見ると、テレビで見るお相撲さんよりもお尻が丸出しになっている。

 人間は洋服・和服を身に着けるから文化的であるとともに、美しくあり続ける。裸体の女たちは二歳児の僕には滑稽に見える。アダムとイブが知恵の木の実を食べた非行をキリスト教では原罪と呼ぶ。旧約聖書の記述では、この禁断の果実をアダムとイブが食べたので、裸体でいるのを恥に思い、局部をイチジクの葉で隠すようになった。

 神は彼らの行動を罰するために、エデンの楽園から追放した。僕には人間が裸のままに暮らすのを望んだ、神の深い洞察がまだ理解出来ないのである。

 考えながら、僕がキョロキョロしていると、ママは「あなたも早く脱ぎなさい」と、手伝ってくれた。洗い場で体を洗い、かけ湯をしたあとで湯船につかる。銭湯は、ボイラーで大量のお湯を沸かす。家風呂に比べて大きな浴槽があり、圧倒的な湯量の中に身体を浸すので血流が良くなる。

 僕はママに抱かれて浴槽の中にいるときに、樹里杏を見かけた。勿論、いつものようにおめかししているわけではなく、自然のままの姿である。僕は女湯にいる状態を無性に恥ずかしく思い、樹里杏に見つからないのを心の中で念じた。

 女湯のおばさんたちは、僕の男性の象徴を見落としている様子で「あら、まあ、可愛らしいお嬢ちゃんね」「お嬢ちゃん、お年はおいくつかしら」と聞いてくる。

 僕は大和男児つまり、立派な益荒男の一人だ。今日はたまたまママと一緒に銭湯に来て、女湯に入る羽目になっただけだ。幸いにも、ママは樹里杏にもおばさんにも気づかなかったので、僕は恥をかかずに済んだ。風呂上りに、扇風機の風に当たりながら飲むフルーツ牛乳は格別のものに思えた。

 銭湯の帰りにママとコンビニエンスストアに入り、また弥次郎と家族に出くわした。僕は週刊誌が並んだ棚の前で「さっき樹里杏に偶然会ったよ」と口を滑らせた。

弥次郎はすかさず「どこで?」と尋ねた。僕が口ごもっていると「何で黙っている? どこで? どこで会った?」と僕を拳骨で小突いた。

 仕方なく「そこの銭湯で……」と答えると、奴は目を異様に輝かせて「で……、どんな様子だった? ミロのビーナスみたいだったか? 胸はどうだ? 腰はくびれていたか」と根掘り葉掘り聞く。

 まさか、湯煙で視界が利かない中で二歳児の僕が、他人の満腔を隈なく観察するなど不可能である。

 僕が「樹里杏はまだ幼い子供だ。僕らと同じだよ。どこも膨らみも、くびれも凹みもしていない」と、説明すると「そんなわけがない。何か一つ重大な事実を見落としている」と強い口調で攻めてきた。

 人はもっと、見た目の魅力、装いの魅力、裸体の魅力などではなく、本質的な魅力に目を向けなければならないのではないか? 弥次郎の罵詈雑言や鉄拳による攻撃に耐えながら、僕は人間性からにじみ出てくる魅力について考えて見たくなった。

 それから、銭湯で二回目に樹里杏に会ったのは、断水五日目だった。

 僕とママが脱衣場で服を脱ごうとしている時に、樹里杏とおばさんが後から入ってきた。おばさんは「あら秀作君、お母さんと一緒でいいわね」と痛いところを突いてくる。

 ママは「今日は主人の帰りが遅くなるので、私が連れてきたのよ」と、おばさんと樹里杏の様子を見た。

 僕は――そうそうそうだ。何も好きで女風呂に入る魂胆などはない」――声に出して伝えたかった。幼児語が、大人たちに正確に伝わるのは稀である。

 そう思っていると「それはそうと、断水も今日が五日目なので、二日後から通常の生活に戻れるわね」とママが話題を変えてくれた。

「用意していたミネラルウォーターが余りそう。でも、備えあれば憂いなしとも思うし……。出費はしたものの、足りなくなるよりはましね」

 二人は挨拶程度の軽い話をし始めたので、僕はほっとした。

 樹里杏親子とは、洗い場は隣、浴槽にも並んで入った。だが、弥次郎の抗議を受け入れて、好奇心でジロジロ見る気はしなかった。帰るタイミングが同じなので、ファミレスに立ち寄り夕食を一緒にした。当然ながら、ファミレスにいる男女は、洋服を身にまとっている。今は夏だから半そでシャツでラフな格好の客が多い。銭湯で大勢の裸体を見た僕は、人間の持つ変身願望に少なからず驚いていた。

 特に女たちはダイエットで痩せようとし、エステで美肌になろうとする。メイクや服飾ファッションも変身の為の手段だ。それに、現代の日本ではアニメキャラに憧れてコスプレする若者も大勢存在している。自然のままの裸体と相反する装い……、この二つの魅力の間で心が揺れ動くのが大人たちだ。

 それは、まるで人が本能と理性の間で、迷いながら暮らしている社会環境とも似ている気がした。今も昔も、悟性のみが本能の奔放さや、理性の狭量さに打ち負かされないのか? とすると、悟性を象徴する装いは裸体でもなければ派手な装いでもない。お釈迦様が決めたボロを身に着ける糞掃衣がそれにあたる。

 僕がレストランの中でそんな考え事をしていると、樹里杏が「秀作様も冷めないうちにお召し上がりになられてはどうかしら」と、問いかけてくれた。僕も樹里杏もテーブルの上には、お子様用の小さいサイズのハンバーグ、ミートスパゲティ、フライドポテト、おにぎりなどの人気メニューをプレートに載せたものが置かれている。樹里杏は「ハンバーグやポテトは、温かいうちに食べた方が美味しいわよ」と上品な口調で話す。

 二人を横目に見ながら、ママとおばさんは温泉の効能の話を始めた。また、銭湯の話になり女風呂にいた僕を笑うのではないかと気が気でなかった。

「温泉には美肌効果があるのよ。国内には三大美人の湯とよばれる群馬県の『川中温泉』和歌山県の『龍神温泉』島根県の『湯の川温泉』が有名よ」

「そこに行くと、すべすべの美肌になれるかしら」

「泉質にもよるけど、保湿、血行促進、新陳代謝などで綺麗になれるの」

 樹里杏の家族は川中温泉によく行くので、二人の肌の表面のつるつるした感じや弾力感も、効能によるものかと思われた。とはいえ、女同士の会話は僕の興味のないものが大半だ。話に耳を傾けるより、さっさと美味しい料理を口に運んだ方が得策だ。僕も樹里杏も大人同士の会話には介入せず、黙々とフォークを動かした。

 ところが……である。大人の女二人はどちらからともなく「日本全国には秘境と呼ばれているところがあって、そこでは男女混浴が当たり前。しかも、入浴時のタオル使用はNGだって」

「ジャニーズ系のイケメンが来る温泉はないのかしら」と予想外の話をし始めた。

樹里杏は赤面して目を白黒させている。

「そう言えば、さっきは秀作君と混浴だったわね。可愛い男の子が私のすぐそばにいたわ。あはははは……」

「この子は色白だし、よく女の子と間違われるから平気なのよ」

 僕にとっては心外な話だ。それに、男の沽券に関わる問題だ……、黙ってはいられないと思い、前のめりになったところ「秀作様」と樹里杏が言って目力で僕を制止した。

 レディーの前では、ジェントルマンでなければならない。二歳児の僕には、大人が馬鹿でかい怪物に見える。体力勝負では到底かなわない。知力で勝負すると言っても、幼児の呂律の回らない言葉ではからかいの対象になるだけである。おまけに、大人たちの財力で養われている身分だから抗議には耳を貸してもらえない。

 樹里杏も、僕に伝えたかったはずだ。子供は皆、どれほどポテンシャルが高い神童、麒麟児、天才の類だとしても、大人にはいいようにあしらわれる。

 家に戻るとすでにパパが帰っていて、即席ラーメンを食べていた。金欠症の癖にテーブルの上には、リキュールのロング缶が三本並べてある。僕にはラーメンにお酒の組み合わせがどうにも理解できない。こういう時こそ、備蓄している竹輪や味付け海苔の出番ではないのか……と思い、首を傾げた。

 酒の肴には色々ある。魚が肴である必要がないのは僕も知っているが、汁物のラーメンがリキュールの肴になるものなのか? 

「遅かったなあ。どこに行っていた?」パパはスマホの着信に気が付いていなかったので、不機嫌な口調でママを責めた。

「樹里杏ちゃんの家族とばったり会ったので、ファミレスに行って食事していたのよ。あなたが電話に出なかったので、Cメールを送付しておいたけど見なかったの」

パパは劣勢に立たされるのを回避するように「ああ」と発声した切り、黙って箸の上下運動に専念している。ママもそれ以上追撃せず、音無の構えだ。

「おい、秀作の頭を撫でてやれ」とパパは突然、強い口調でママに催促した。

「撫でて、どうするつもりなの」

「つべこべ言わずにちょっと撫でてやれ」

「こんな感じかしら」とママは平手で僕の頭を軽く撫でてくれた。少しくすぐったい感じがした。

「なんだ。喜ばないじゃないか」

「ええ、まあ、そっ……、そうね」

「もう一回、撫でてみろ」

「何回やっても同じですよ」とママはまた、頭を撫でてくれた。

 特別、何とも感じないので動かずにいた。しかし、大人の気まぐれは、思索と熟考を習慣化している僕の理解の範囲を超えている。これが分かれば、喜びようも悲しみようもあるが、ただ撫でろと強制するからママも困惑するし、撫でられる僕も困る。 パパは二度まで無反応なので、苛立ちはじめ「おい、もっと激しく撫でてやれ」と指図した。

 ママは面倒くさそうに「喜ばせてどうするつもりなのよ」と尋ねながら、また頭を撫でてくれた。相手の目論見が分かれば簡単だ、キャッキャと喜んで見せればパパを満足させる。パパは全人類の単細胞代表選手だから嫌になる。喜ばせる魂胆なら、手立てはいくつもある。僕にしても、何度も翻弄されずに済んだ。

 ただ撫でろと指示するのは、愛撫するのを目的とする場合以外には、声に出すべきではない。撫でるのは向こうの勝手、喜ぶのはこちらの勝手といえよう。喜ぶ前提で、ただ撫でてみろと命令して、喜ばないのはおかしいと考えるのは、当方の自由意思を侵害しているし失礼すぎる。幼児と言っても、個々に備わる立派な人格を軽視して良いものではない。

 二歳児を馬鹿にしている。パパがいつも嫌っている玉田家の岩石さんなら平気でやりそうだが、純朴さが取り柄のパパにしては卑怯なやり方だ。しかし、パパはここまで狭量な男ではない。だからパパの命令は、獰悪さや邪知が生み出したものではない。つまり酔漢に特徴的な浅慮から湧き出たものであろうと推察する。

 空腹時に食事をする。喉が渇けば水を飲む。便意を催せば用を足す。バチで叩けば音が鳴る。だから、撫でれば喜ぶと短絡的に決めつけていた。世の中の物の道理はそこまで至極、簡単には出来ていない。その伝で行くと、海に飛び込めば必ず溺死する。物事を多く記憶すれば必ず学者になる。鯖を食べれば全員が食あたりになる。必然的にそうなると、数多くの不具合につながる。

 胸の内でパパの難点をこれだけ並べて批判した後で、タイミングを見て「キャッキャ」と喜び、ピョンと跳ねてやった。

 するとパパはママに向かって「今『キャッキャ』と、喜んだぞ。『キャッキャ』と喜ぶ声は間投詞か、それとも副詞か、どちらだか分かるか」と尋ねた。

 ママは唐突な質問に戸惑い、沈黙している。実は僕もこれは、二人でファミレスに行って遅く帰ってきた事への意趣返しではないかと考えた。元来、僕のパパは近所や職場でも有名な変人である。偏屈さにかけては、誰にも負けない男だ。

 ところが、パパのプライドの高さも大変なもので「俺は偏屈ではない。世の中すべてが偏屈だから、周囲からそう見られるだけだ」と意地を張る。

 近所の連中がパパを「頓馬、頓馬」と呼ぶと、パパは公正な判断で「間抜け、間抜け」と言い返している。本当のところ、パパはいつまでもこの公正な判断を続ける構えだ。困ったものである。こういう男だからママに難問・奇問を言い放っても平気でいられるが、聞かれる方は迷惑でしかない。僕には答えが見当たらない。するとパパは大きな声で

「おい、どうだ」と返答を促した。

 ママは驚いた様子で「あっ、はい」とだけ答えた。

「『あっ、はい』は間投詞か副詞か、どっちだと思う?」

「どちらでも、良いでしょ? どっちでも困らないと思うわ」

「これは我々、日本人が使う言葉で、文章家を悩ませる大問題だ。どうでも良くはない。文豪・夏目漱石も小説の中で問題提起している」

「子供の叫び声が、日本語文法でどの品詞に当てはまるかが、そんなに大事なの」

「だからこそ、大問題だ。簡単な話じゃない」

「へーっ、そうなの」とママは、こんな実りのない話には関わりたくない様子が見て取れる。「それで、あなたはどっちだと思うの」

「日本語文法の重要問題だからな。簡単には分からないよ」とラーメンをつるつると食べ、リキュールの缶を手に取り、喉の奥に液体を流し込んでいる。

「今日は大分、飲むのね。もう顔が赤くなっていますよ」

「ああ、いい気分になってきた。ところで、お前は世界一長い名前を知っているか? 根本寝坊之助食左衛門よりも長い名前だ」

「知らないわ。お酒はほどほどにしてください」

「いや、コンビニでもう二本ロング缶を買ってくるつもりだ。それより、世界一長い名前を教えてやろう」

「ええ、教えてもらったら、お酒はおしまいにしてよ」

「寿限無寿限無、五劫のすりきれ、海砂利水魚の水行末、雲来末、風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が名前だ」

「落語ネタじゃないの」

「落語だが、これほど長い名前はない。名前を呼ぶのに半日はかかる」

「出鱈目でしょう。さっきも、一分しかかからなかった」

「古典落語だぞ、出鱈目なものか」

 今夜に限って随分、酒を飲んでいる。普段ならビールはショート缶一本、日本酒なら一合と決めているのを、かなり飲んでいる。リキュールでもアルコール度数は九度、一本で五百ミリリットルも入っている。それを二本飲み干して、三本目にかかっている。一本でも赤くなるのに三本目だから、顔がほてって苦しそうに見える。それでも、飲み続けている。

 ママはそれが心配な様子で「大酒は身体に毒なのよ。急性アルコール中毒にでも罹ったら大変。誰が面倒をみるのかしらね」と苦々しい顔をしている。

「苦しい状況にこそ、修行が必要だ。大伴旅人は酒を賞賛する歌を十三首も詠んでいる」

「大伴って何の名前なの? 人の名前なの」天下の大伴旅人も、ママにとっては大した価値を持たない。

「大伴旅人は飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した歌人だ。その偉人が竹林の七賢人が最も求めたものが酒だと言っている。それだけではなく、酒を飲まない男は猿に等しいとも言っている。酒は良いものに間違いない」

「そんな馬鹿な話を信じないでね。歌人だろうが、詩人だろうが、悪酔いしてまで酒を飲めと言い張るのは常軌を逸しているわ」

「まあ良い、酒と道楽は俺が有名になってからでも間に合う。今夜はこの一本でやめとこう」と最後の一本を飲んだ。聞くところでは、テーブルの上の三本の前に一本飲んでいて、それを台所のゴミ箱に入れていた。

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