第6話


 猛暑は二歳児の僕の身体には、大きな負担になる。真夏日の熱中症のリスクは高く、クルマの中に閉じ込められた子供が、脱水症状で死亡する事件もある。大人たちは、十分な注意を要するところだ。そう考えると、二歳児の僕はいかにも非力な存在のように思えてくる。僕が健康被害に遭わずに、健やかに成長できるかどうかはパパやママの配慮次第だ。

 大人から見たら二歳児の男の子などは、際立った個性がなくどれも同じ存在に見える。僕らは至って単純構造で出来ていて毎日をのんびりと過ごすだけの大人のミニチュア版ではなく、高度な思考能力を持ちプライドもある人間だ。

 皮膚がデリケートで汗っかきの僕らにとっては、汗疹も大敵といえる。僕はエアコンをうまく操作できない。扇風機のボタンを押すと、いつもパパに「勝手につけるな」と叱られる。イエ蚊、ヤブ蚊も嫌な奴である。

 平安時代に清少納言は「枕草子」の中で「ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊の細声にわびしげに名のりて、顔のほどに飛びありく。羽風さへ、その身のほどにあるこそ、いとにくけれ」と、蚊への恨みを述べている。僕の思いを代弁している。

 彼ら大人たちを観察していると、背丈の小さい僕は下から見上げるため二つの鼻の穴の膨らみが大きく見える。僕をヒョイと持ち上げるパワーは二歳児と比較してもケタ外れだ。服を着たゴリラのように見える。大人の男の身体的特徴である禿げ頭やヒゲ、陰毛は僕の目には滑稽に見える。大人の女の胸のふくらみは懐かしい気持ちになるが、ジロジロ見ていると誤解されて睨みつけられる。

 さらに、空腹や体調不良などの時にも大人たちに「早く気づいてくれ」と叫びたくなる。大人は鈍感、大人は風変わり、大人は残酷……、こんな印象ばかりを蓄積していると、次代を担う僕らの健全な成長を阻害する。彼らの言動をもっと愛や正義に向けて欲しいものである。

 大人たちの観察を怠ると、彼らはどんな暴走を始めるだろう? 僕ら二歳児のような子供たちが、大人の悪事に対するブレーキになるのなら、何か手を打つ必要がある。最近は注意深く観察していなかったので、十分に拝見し鋭く洞察しようと考えてみた。

 しかしながら、パパはこの点では、夏の暑さが続く中で休日の行動パターンは、二歳児の僕と驚くほど近似している。昼寝の時間や、おやつに水浴びなど……、まるで同じ調子で疑う様子もない。これだと鑑識眼に磨きをかけられそうもない。

 夢野が来ると時間潰しにはなると思った。

 表でホースの水の「ザーッ」と、散水する音が聞こえた。洗車している様子だ。台所の水栓を開き、つないだホースを使っている。

「奥さん、水の栓をもう少し開いてもらえませんか」と大きな声で催促している。こんな無遠慮な男は、夢野に間違いない。

 しばらくして、予想通り夢野が入ってきた。

「ところで奥さん、頓馬君はどこです?」と言いながら、ポンとカバンをカーペットの上に放り出す。

「主人は今、昼寝をしています。起こして来ましょうか」

「なるほど、夜寝ているのに昼も寝足りないのですか? 頓馬君のようないつ来ても寝ている呑気暮らしが羨ましい。こう見えて、多忙なものですからね」と夢野は相変わらず口が悪い。

「ゆっくりと腰かけているのも、落ち着かない性分でね」

「夢野さん、今日はどうされました?」

 夢野は質問を意に介さない様子で「クルマのボンネットが熱くなったので、目玉焼きを作ろうと考えて、油を引いて、上に玉子を落として見ました」

「まさか、そんな……」

「ところが、予想に反して天日ではうまく焼けませんでしたね。勿体ないけど、全部捨ててしまいましたよ」

「それはそうでしょう」とママは、いつもと同様に呆れ顔だ。

「地球温暖化が原因で気候変動が読みにくい。暑い日とそうでない日の差が大きいので、どうにも体調が良くない。近年、太陽神アポロンは情緒不安定ですな」

「どんな意味でしょう?」

「いえ、特に意味などありませんがね。僕は熱風にさらされると、パズズの悪だくみではないかと思います」とますます、調子づいて意味不明の言葉で話す。

「へー、どうなのでしょう?」

「奥さんなら、パズズはご存じでしょう?」

「いえ、知りませんね」

「それなら、僕がお教えしましょう」と、返事も待たずに話し出した。

「メソポタミア神話でパズズは熱風で人を苦しめる魔神とされています。それが原因でしょう」

「そんな話があるのでしょうか」

「ありますよ。地球温暖化は人類にとっては明るい未来の予兆ではなく、凶事の前兆です。早く対処しておかないと後が怖い」

「私たちの力ではどうしようもないでしょう?」

「パズズはライオンの顔、サソリの尾を持つ恐ろしい魔神です。相当の覚悟を持って臨まないと人類に勝ち目はないですよ」

「それはメソポタミアの話なのですよね」

「いえ、地球温暖化は我々人類の問題です。パズズの姦計に負けてはいられない。呑気に昼寝している場合ではない」と奇妙な論理を展開する。

 そこへパパが寝ぼけ眼のままで、自室から出てきた。

「人がせっかく良い気分で寝ていたのに、大きな声を出すから……驚いた。安眠妨害は慰謝料の請求が可能なケースがある。夢野の財布の中身に期待しても大した補償にはならないがね」と、不機嫌そうだ。

「それは申し訳ない。だが、まあ、そう神妙になる必要はない。機嫌を直して、そこにでも腰かければ良いよ」と、主客転倒した言葉を平気で吐く。

 パパは床の上に無造作に転がるカバンを見つけると「夢野のカバンか? 上等のもののようだ」

 夢野は得意げに「どうだ? 本革のカバンだよ」と、とドヤ顔をしてパパとママの前に差し出す。

「頓馬君、奥さん、このカバンの希少価値について説明しようか」と手で表面を撫でている。「どう希少価値がある?」

「実はこのカバン、カバ皮つまり、ヒポレザーだ」

「まさか? 君の得意とするダジャレか」

「そう言えば丈夫そうね」

「カバは馬鹿に出来ないね。近年は『ワシントン条約』で輸出国政府の許可なしには流通しなくなっている。僕はそれを手に入れた」

「カバが可哀そうね」

「同じ理屈だと、牛だって、鰐だって可哀そうだ」

「カバだから水に強く、皮も分厚いので耐久性にも優れている」夢野はまるで香具師の口上のように名調子で話す。

「それから、これが僕の昼食だ。奥さん、涎が出るご馳走ですよ」と一礼して席を立つ。夢野は当たり前のように台所に行くと、用意したクーラーボックスを開けて、食材の調理を始めた。出来上がったのは稲庭うどんだ。

「それでは、僕はここでこれを食べます」と、ママに告げると一人で食べ始めた。

僕には夢野の言動に、悪気があるのかないのかが分からない。単に無頓着で気にしない質のようにも思える。

 パパは「こんなに暑い日にうどんを平らげるのは体力を消耗するぞ」と忠告した。

「気にしなくて良い。好物はどんな状況でも体に良い」と美味しそうにぱくついている。

「奥さん、知っていますかね。稲庭うどんの由緒正しい歴史的経緯を……」

「まあ、香川の讃岐うどん、名古屋のきしめんと並ぶ、日本の三大うどんの話なら知っています」

「稲庭は秋田県南部の地名だな」

「このうどんはねえ。江戸時代初期につくられたもので、佐藤吉左エ門が改良を重ねて完成させた。ところが、稲庭うどんの製法を佐竹藩から門外不出とするように命令され、一子相伝のかたちで子孫にだけ伝えられてきた」

「君の講釈が長いとうどんが延びるし冷めるだろ」

「奥さん、この海老のプリッとした食感、白ネギの甘味も良い。もっとも、稲庭うどんはこの麺ののど越しの滑らかさが絶妙だ。こんな風に、箸で引っ掛けて上げて見ると麺の長さが分かる。これは僕の目測だと三十六センチだ。ああ、旨い、旨い。だしの味も最高だ」と言いながら、うどんの麺を見せびらかすように持ち上げ、つるつると音を立てながら食べている。

「奥さん、どうでしょう? この長さ、この味、この食感……。あっ、味と食感までは分かりませんよね」

「ええ、まあ、あのう、長い麺ですね」

 パパやママは別としても、二歳児の僕の前で「美味しい、美味しい」と見せびらかしながら食事をする夢野の無神経を疑いたい。

 そこへ噂の好男子、翠明君が現れた。

「翠明君、学問の方はどんな調子だ? えーと、それと断酒宣言までしたそうじゃないか」とパパが聞くと、夢野も「玉田さんの例のご令嬢が君をお待ちかねのようだから、斎戒沐浴、禁酒禁煙を続けたまえ」と揶揄する。

「修行僧ではないので、そこまでの厳しさはないのですが……。酒好きにとっては断酒そのものが苦行です」と、観念したようだ。

「問題が問題だから、大きい顔の女に大きい顔をされたからと言って、全部を言われた通りにしなくても良い」と夢野はいつものように話す。

 パパは真面目に「最近は何か面白い研究でもしているのかね」

「腸内ガスの商用利用の可能性と現実問題のテーマで論文を書いているところです」

「それは面白そうだな。で、どんな内容だ? まあな、優れた内容なら玉田家に報告すれば良い。彼らから尊敬されるのは間違いない」パパは夢野の話を無視して「腸内ガスは、物理学より医学生理学の分野のように思えるが……」と翠明に尋ねる。

「お二方は、おならにメタンガスが含まれているのはご存じですか」

「ああ、あの臭いガスだろ」

「それは、インドール、スカトールの成分が原因です。おならには燃料に使えるメタンガスが相当量含まれています。ちなみに、一人の人間が一日に出す放屁量は一リットルから二リットルです。これを天然ガスのように供給する施策を研究しています」

「それをどうやって集めるつもりだ。小学校で集めるベルマークのように、瓶に詰めたおならを一人一人集めるわけにも行かないだろ」

「そこが難しいところです」と翠明先生は思案深げな表情をする。

「それなら、酪農、畜産で飼育されている牛のゲップも使えそうじゃないか」

「一頭の牛が一日にするゲップのメタンガス含有量は三百~五百リットルです。ですが……、牛からメタンガスを集めるのは、農家に依頼しても実現は難しいでしょう」

「君は、牛から取るより人間の方が容易に集められるとでも……」

「メタンガス回収キットを作成し、大人の尻から取り出したものを集めれば良い。簡単だな」と、嘘とも本当とも判断が出来ない話を強弁する。

「とすれば、平安時代後期の鳥羽僧正が描かせたと言われる絵巻物『放屁合戦』の真似をするのは、せっかくの天然自然のメタンガスを無駄に費消している」

「まあ、それは、そうとも言える」

 翠明君は「何も、まあ、先輩方のご心配は無用ですよ。実験も含めて研究は着々と進んでいます」と、したり顔だ。

 そこまで、三人の話を意味不明のまま聞いていたママが「玉田家の皆さんは、翠明さんにご執心ですね」と尋ねる。

 翠明君は「うーん、どうでしょう。成り行き任せでもないのですが、うまく行くように自分でも念じています」と恐縮して見せる。

 夢野は「奥さん、後学の為、何か頓馬さんとの馴れ初めなどを聞かせていただけませんか」とにやにやしながら聞く。

 パパはママの頭部の異変に気付き「お前、ここ」と、ママに向かって頭部を指し示した。「あら、気づいたの? 通販サイトで、ウイッグを購入したのよ」

「なるほど、気づかなかったな」

 様子を見て、他の二人の男は怪訝な表情をした。

「いや先日、女のハゲはみっともないと話していた。ところで、翠明君の恋人は禿げていないか? ツルツルの禿げ頭の女には、今までお目にかかった例がないが……」

「それじゃあ、まるでお寺の尼僧じゃないですか。禿げていませんよ」

 いきなりのように、放屁譚を語り終えたかと思うと三人の男は禿げ談義を始めた。

 夢野は「禿頭の僧侶は髪の毛が抜けて剥げたわけではないのに禿げ頭と呼ぶのはおかしい。あれは本来、頭の毛を剃ってツルツルにしているから、英語のスキンヘッドの訳語を当てて『肌頭』と呼ぶべきだ」と指摘する。

 パパはそれに反応し「禿の語源は『剥ぐ』の名詞形だ」と肯定的に答える。

「僕は以前から、禿げるのは顔が面積を拡大しているのか、頭部のすべてが頭と化しつつあるプロセスなのか疑問に思っていた」とますます、話が横道にそれる。

 翠明は学者らしく「生物学的には禿げるのは、顔が面積を拡大しているわけではなく、全てが頭部と化しつつある状態です」と説明する。

 夢野は不満げに「どうしてそうなる?」と聞く。

「動物の頭部を想像してみれば分かりますよ。頭と顔の境界の見分けのつかないものが多いでしょう」

「それなら、ハゲタカやオランウータンの頭部にカツラでもつけてやれば良いよ」

 ママは赤面し、言葉に憤慨したように「頭にだって、顔にするお化粧のようにおめかしが必要でしょう。それは、男性でも女性でも同じです。禿げているかどうかで、人を判断するのは反対だけど、ウィッグの使用は不善でも不正でもないと思うわ」と正論でやり返す。

「僕も意見には賛成です」

「それなら、ハゲタカの頭部にもウィッグをつけてくださいと、動物愛護センターに投書しておくよ」

「禿や尼僧の話で思い出したが、イタリア映画に『尼僧の恋』のタイトルの悲恋物語がある。知っているか」

 パパは自分の馴れ初めなど話したくないのか、話題を他の方に持っていこうとする。

「それなら、私も見たわ」とママがすぐに答える。

「一緒に見ただろ? お前に尋ねたのではない」

「どんな物語です?」

「悲恋物語だよ。シチリアの美しい修道女の話でな。法律家の青年と恋に落ちるが、青年が別の女と結婚したため、修道女は信仰の道に我が身を捧げるストーリーだよ」

 夢野は「それのどこが悲しい? どこが侘しい? 『結婚は人生の墓場である』の名言を考えると良い。無理に不釣り合いな結婚を望むよりも、まともに人生に向き合えと教えている」と、当然のように自説を述べる。

「失礼ながらその言葉は、シャルル・ボードレールを誤訳したものです。ボードレールは結婚するのなら覚悟を決めて、墓場のある教会できちんと結婚式も挙げるべきだと言っています。それが、日本に誤って広まったのが真相ですよ」

「流石に碩学の話は、夢野の放言とは中身が随分違う」

「ふん、解釈の違いに過ぎないよ」と夢野の鼻息が荒くなる。

「昔の大和撫子は慎ましく、ご亭主に口答えをせず、貞淑な良妻賢母だった。僕は女権の拡大に反対するものではないし、彼女らを守らなければならないとさえ思っている。だが、大きな顔をして偉そうなだけで中身も何もない女は嫌いだな。頓馬夫妻のように、たまに喧嘩するのが悪いわけではないが、あくまでも最後には自分が折れる器量が欲しいところだな。その点、玉田家の令嬢はお転婆娘だそうじゃないか」

「お嬢様の風聞は信ぴょう性があるのでしょうか」とママが尋ねたが、答えを待たずにパパが口を開いた。

「俺たち夫婦を例えにだすのはどうかな。元来、大和撫子とは清楚で美しい女性だ。生意気で派手で態度の大きい女や、尻軽の類を示す言葉ではない。ただし、決めつけではなく見極めが肝心だよ」

「フランスでは男を翻弄し破滅させる魔性の悪女をファムファタルと言っています。歴史上でも、彼女らに人生を無茶苦茶にされた偉人が多くいます」

「それは恐ろしい。おそらく、顔が大きい女たちだ」

「ところがですね、実際のファムファタルたちは驚くほど魅力的で、手練手管を使って男を虜にするのです」と、翠明君は玉田家の令嬢には触れずに一般論を展開する。

「君は、貞淑な女よりも魔性の女の方が魅力的だとでも思っているのか」

「そういう意味ではないのですが、一昔前とは世の中の価値観も変化しています。一律一様な基準では分からないでしょう」

「本質的なものは、何も変わらないよ。そうは思わないか翠明君」

 翠明君はすぐには答えず、一つ軽い咳払いをすると声を落として自分の意見を述べた。「最近は合コン、出会い系サイト、結婚紹介所などで、異性との多様な出会いの機会があります。それでいて、現代の若者は恋愛や結婚に期待していないのです。少子高齢社会では、日本の未来は絶望的ですよ。テレビを見ていれば分かりますが、有能無能、有名無名を問わず、皆、自分の人生を短期的観測でしか見ない人ばかりだ。 人生の長い尺度で考えず、日々の生活しか考えないのは人間的な生き方ではなく、動物の暮らしと大差ありません。そんな調子だから、五十になり六十になっても結婚も、子供を育てもしない」

 翠明君は大学の先生だけあって、大所高所から明言する。

 夢野は「ご高説を拝聴していた。動物の暮らしには結婚の概念はないが、巣作り子作りはするぞ」と言い放つ。

 パパは「翠明君は単に人と動物を比較して例えにしてみただけだ」と、二人の表情を見比べる。「へえ、へっ」と夢野は白けた声を出す。

「まあ、そんなところです」

「僕は結婚と聞くと、ローマ神話の女神であるジュノーを思い出さずにはいられない」

「また、神話の話か」とパパが冷めた言い方をすると「すべては神の思し召しだ。神話を参考にして何が悪い? ジュノーは女性のための結婚、出産を司る神だ。ギリシャ神話だと、同じ神様がヘラの名前で呼ばれている」と、訳知り顔だ。

 翠明は笑いながら「またまた、難しい名前が出てきましたね」と、冷やかす。

「ジュノーは偉い女神だよ。僕はジュノーが器用にも、男女の仲人役と妊婦の産婦人科医の役割を両方こなしている点に感心したね。おまけに品のある美人だ」

「見てきたように話すね」

「よく、そんなに色々と思いつきますわね」

「産婦人科医の役割だけは、代わってやりたい」

「また、変な……」

「だってそうだろ? はい、可愛い赤ちゃんが誕生しました。今度は女の子です。次は男の子です。『はいのはいのはい』と明るい調子で、家族に喜ばれるし、人類にも貢献している」「本当に夢野さんったら、面白い話ばかり……」とママは大きな声で笑う。

 また、誰か来たので玄関口に向かった。ママと入れ替わりに入って来たのは頑迷固陋君だった。

 頑迷君がここに来ると、僕が思う世界の奇人変人のうち、大半は出そろったように思う。これで、退屈は免れる。彼らの言動に目を光らせ、耳を澄まし、十二分に観察したい。僕が運悪く他の家に生まれたなら、これほどまでに風変わりなメンバーに遭わずに死んでいた。幸い僕は、小説家気取りの記者・頓馬太平の家に生まれてきた。この幸運を生かし、彼らの生態を観察・分析しておきたい。

 文化人類学者のレヴィ・ストロースはブラジルの少数民族を観察・分析し「悲しき熱帯」の書名で知られる名著大作をものしている。夢野、翠明、頑迷の歴戦の勇者が集まれば、一騒動起こったとしても不思議ではない。レヴィ・ストロースの顰に倣い、僕は身を引き締めて、ソファーや襖やドアの向こうから彼らの様子を覗き見した。

「お久しぶりです」と挨拶する頑迷君の顔をみると晴れやかだが、三枚目の俳優か物が売れないセールスマンの雰囲気が漂う。筋肉質だが足も短く、見栄えがしないのである。「暑い日が続く中で、よく来てくれたねえ。まあ、そう遠慮せずにこっちに来てここに腰かければ良いよ」と夢野は、まるで自分の家のように招き入れる。

「頓馬さんには、しばらくお目にかかる機会がありませんでしたね」

「春の詩の発表会以来だな。有名詩人の詩を朗読する趣向だ。しかし、肝心の同人の詩や小説の朗読がなかったのが残念だな。どうだ? 僕の創作した小説『パラレルワールドの暇人たち』をあの名調子で朗読してもらうのは? 僕は君たちの発表に全力で拍手喝さいしたよ」

「ええ、そうですね頓馬さんには勇気づけてもらいました」

「それで、次回の発表会はいつになりそうかな」とパパが聞く。

「夏の暑いうちは休みにして、少し涼しくなってからやりたいと思います。頓馬さんの小説も候補の一つですが、他にも何か面白いものがあればご提案いただけませんか」

「頑迷君、頓馬さんの小説よりも、まずは僕が創作したものをやってみないか」

「随分、自信がありそうだな。自画自賛は当てにならないが、一体何を企んでいる?」

「映画のシナリオだよ」と、翠明が押しつけがましく売り込もうとすると、三人は同じタイミングで表情を伺った。

「映画のシナリオとは大きく出たね。それで、現代劇か、それとも時代劇なのか」と頑迷君が話を進めると、翠明先生はふんぞり返り「従来の現代劇は退屈だから、新機軸でロマンティックコメディを創作した」

「ロマンティックコメディとは何だ?」

「単なるコメディではなく、恋愛をテーマにしている。アメリカ映画でいうと『ローマの休日』』『魔法にかけられて』『Mr&MISスミス』などだ。モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』もだ」と聞いて、パパも夢野も驚いた表情のまま黙っている。

 二人を横目に見て「どんなところに特徴がある物語だ?」と頑迷君は質問した。

「あまりだらだらと長い物語ではなく、シンプルな二時間ドラマにまとめておいたよ。勿論、このシナリオを映画化してもらうのが最終目標だが、とりあえずは十六ミリで撮影して上映するのはどうだろ? 飛び切りの美人と間の抜けた男の間のラブストーリーなので、美人をスカウトできるか否かが決め手になる」

「そんな演技がうまい美人が、頑迷君たちに協力し、自主製作のドラマに出てくれたら奇跡だな」とパパは独り言のようにつぶやいた。

「それは大丈夫でしょう。主役の美人は、最中餡子さんが適任でしょう」

「頓馬君が相手役の男に嫉妬しなければ良いが……」と夢野が心配する。

「なんなら、相手役を頓馬さんにお願いしましょうか」

「そりゃあ、頓馬夫人が黙っていない」

「ラブシーンは良いがヌードシーンはあるのか」

「僕のシナリオにはヌードシーンもベッドシーンも僅かながらありますが、あくまでもコメディ主体ですから絡みの場面はあっさりとしたものですよ」と翠明君は当然のように話す。

「まあ、餡子さんが絡みを演じてくれるとは思えないが、物語の展開はどうなる?」と頑迷君は、物語の筋書きを詳しく聞きたいようだ。

「生物科学研究所員の男が実験中のトラブルで、フェロモン物質を大量に浴びて究極のモテ体質になる。そして大勢の女、つまり老若男女、美人不美人、痩せ、デブを問わずあらゆる女に愛されてつきまとわれる。ところが、主人公の男は最中餡子が演じる同僚の研究員にぞっこんなため、餡子に嫌われるのを怖れ、モテ体質を呪わしく思い逃げ回る話だ」

「まだ、最中さんがドラマに出ると決まったわけじゃない」

「俺が相手役じゃないのなら、ラブシーンは極力削ってくれ」とパパは不安を隠せない。

「随分、餡子嬢にご執心なようじゃないか」と夢野が茶化す。

「いや、むしろ父性愛だ」

 話が思わぬ方向に展開しそうになり、頑迷君は「えーっ、どこがですか? それより翠明君、結末はどうなる?」と気を揉む。

「その先は、研究員のモテ体質を悪用しようと目論む組織に狙われる。そこに、用心棒の少女が登場し研究員の男を悪党から守る。最中餡子さんと少女は三角関係になり、展開がおかしくなる」

「まだ、最中さんは出ると決まっていない。それに少女が用心棒になる必要性がどこにある? 不自然じゃないのか」

「物語のあらすじを分かるように説明するのは難しい。まあ、今のような趣向はどうだ? お気に召しませんかね」

 頑迷君は少し物足りそうに「うーん、ロマンティックコメディより、まるで少年漫画だ。それと、そんなドラマを上映するのにどんな意味がある? 僕はコメディよりも、もっと古風な人情味のある内容を期待していた」と、真面目な表情だ。

 今まで黙って聞いていた夢野は、ここで口を開くと「人情にコメディを融合させると、落語の人情噺のようなものになるな。江戸時代の落語家・朝寝房夢羅久のものを参考にすれば良い。君の物語にも単なる滑稽譚みたいな軽いだけのものではなく、もっと人間的な深みが大事だ」

 翠明君は少しむっとして「私の創作には深みがないとでも? 自分では中身の濃いテーマに臨んだつもりです。現代演劇だから、コメディだからといって中身も深みもないと指摘するのは偏見のように思えます」と弁解する。

「つまり、主人公の男が意中の恋人を思いやり、モテモテ体質に悩むところが人情的です」「こりゃ、珍説奇説だ。ご高説をお聞きしましょうか」

「物理学博士としては、人情についても科学的に解釈したいです。義理も人情も不合理なものではなく、正しく解明しておく必要性があります」

「ご説、ごもっとも」

「合理精神をコメディで扱うのはどうだ。無理と矛盾が生じる」

「そうだろうか」とパパが疑問を呈したが夢野は気にも留めない様子だ。

「コメディで科学や合理精神がダメな理由は、喜劇とは不条理芝居だからだ。たとえば、男が女に、女が男にいかにして惚れるかという要因でさえ、心理学的に解明が難しいのに、そこにお笑いの要素を組み込むのは無理だ」

 翠明君は納得しかねるように首を傾げた。

 パパは気まずいムードを変化させようとするかのように「どうかな? 頑迷君、最近は同人からの何か、傑作の投稿はないかな」と尋ねると「あまり見事なものはありません。ですが、近日中に詩集の出版を考えています。ちょうど、今原稿を持ってきています。ご講評をお願いできますか」とブリーフケースから、原稿を取り出した。

パパは「どれどれ、拝見しようか」と、それらしい表情で手に取った。前書きや目次のあとの頁に

 「再生の時間」

 あらゆる現実がクリエイターの作る幻想に過ぎず

 僕らの本質ではなかったとしたら

 天空に飛翔する翼にも力がないだろう

 脆くも壊れやすい虚構の安らぎだけが

 移ろう世界の中で

 ただひとつ、無垢な心だけに価値がある

 いにしえの英傑の武勲でさえも

 今は物語の中の出来事に過ぎない

 堂塔伽藍や彫像の中にではなく

 静寂の中から、湧き出る無限の希望に棲む

 神社仏閣の中にではなく

 生と死の相克の内側に棲む

 ビルの谷間に吹く風のように

 アスファルトの路面に光る陽光のように

 愛すべき肉体を傷つけ

 心を蝕みながら逃げ惑う

 道化師の肖像にも似て

 滑稽と諧謔と哀れみの薮の中に

 体液は空隙を見つけてめぐるのだ

 天国の巨人も

 冥府に通じる石室も

 神話と伝承の物語も

 すべては我が目を欺くイリュージョン

 欲への執着も

 高邁な理想も

 高潔な魂でさえも

 うつろな眼の奥にある

 陽炎のようなもの

 だが、ある日を境にして

 暗雲が立ち去ると

 希望の兆しが見え始める

 再生のための命の水を得るのだ

 そして、いつか芳しく匂い立つときがくるだろう

 世界は、また新たな時間を紡ぎ出すことだろう

 と三十五行に書いてある。パパは難しそうな顔をして、しばらく「うーん」と言いながら眺めているので、夢野が覗き込み「何だ。現代詩じゃないか。頓馬君、これが二十一世紀、令和だよ。気難しい顔をしていないで、頑迷固陋君の傑作を朗読するのだな。しかし、頑迷君高邁な……のあとに、高潔な……と続くのはくどくないか? 頭韻を踏んでいるつもりなのかね」「どんな風に書くと、現代詩らしくなりますでしょうか」

「僕ならよりリアルに、『古聖古哲のように気高い理想、名僧の禿頭のように輝ける魂』とするところだ。抽象的な言葉の羅列よりも大事なのは描写力だな」

「なるほど、そういう工夫ですか」と頑迷君は疑問を残しながらも、納得したふりをしている様子だ。

 パパは「夢野の意見は、話半分に聞いておくのが肝心だ」と忠告し、この原稿を翠明に渡す。翠明は目を走らせて「ああ、まあ、なるほどね」と、頑迷君に返した。

「まあ、先輩方に理解できないのは分かります。ダダだ、シュールだと様々な試みの後に、現代詩がある事情を考えると、詩の解釈も変化していますからね。素人にはピカソの描く大作と幼児の描く絵の区別もつかないものがいますから……。詩人が描く世界でも同様の理屈が言えます。僕の友人の乱十郎が詩集を刊行したので、読後に意味の分からない詩について尋ねました。ですが、当人が『自分の書いた詩の意味が分からない。インスピレーションだ』と明言するのです。それが現代詩人の特徴でしょうか」

「詩人ではなく、単なる変人なのではないか」と、パパが痛罵すると、夢野は「多分、馬鹿だ」と乱十郎君を打ちのめした。

「乱十郎は仲間内ではあまり評価されていませんが、私の詩についても厳しい意見を聞かせていただければと思います」

「苦心のあとが見えるので感心した」

「人生を神話的に解釈されているところが奥深い。流石に頑迷君だ」と純朴な頑迷固陋君を持ち上げて面白がっている。

「僕に言わせれば、文学は七味唐辛子だ。七味とは芥子、山椒、陳皮、麻の実、紫蘇、青海苔、黒胡麻、生姜などを調合して製造される。だから、様々な味わいを楽しめる。単調と退屈は文学の敵だと思うね。単なるインスピレーションだけで創作できるものではない」

「今、八味を数えませんでしたか」

「細かい話は良い。要するに多彩な味わいこそが文学の真骨頂だよ」夢野は意地になる。

 パパは反論した。

「何も七味でないといけない理由はない。唐辛子の一味だけで十分な状況もある。それに、料理人が言う、甘・酸・渋・辛・苦の五つの味をすべて兼ね備えた料理はかえってまずい。五つ合わせて、五味の味だ」と、かなり本気である。

「それなら、君の単調だが味わい深い詩を聞かせてほしい」

「ああ良いよ。頑迷君、翠明君、これは座興だと思って聞いてほしい」

「分かりました」

「耳を澄ませて聞きます」パパは力を込めて自慢の詩を読み上げる。

「宇宙創成、素晴らしい世界。天地万歳、この世のすべてなり」

「簡単明瞭にして、すべての意味が備わっていますね」と頑迷君が褒める。

それを夢野は「なるほど、これは……、名著大作の類だ」と茶化す。

「しかし、短すぎないですかね」

「いや、ちょうど良い。君たちも短編を集めて、一冊の本にしてみてはどうだ?」

 二歳児の僕は、大人たちの白熱の議論が無意味な戯論に聞こえる。奇人・変人たちの会話は時には楽しいが、何なのか理解に苦しむケースも多い。僕も彼らの長話を聞きながら理解する努力に疲れてきた。

 饒舌な大人たちが集まっても、長い時間が経過すると鳴りやむ。日が西に傾き、薄暗くなると彼らの話し声も徐々に小さくなり、それぞれの自宅へと帰って行った。

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