第8話


 僕は、自分を落書きの天才ではないかと思う。クレヨンで上手に線を引けるようになったころから、家の壁や床にいくつもの落書きをしてきた。美しいラインと彩色で見事な名作を描いてきたつもりだ。

 それなのに、パパもママも怖い顔をして僕を叱りつけると、せっかくの名画をクレンジングオイルなどで綺麗に拭き取り、台無しにした。パパは、うまく消せない落書きを見ながら「大家さんに申し訳ない」としょんぼりしていた。そこを試行錯誤して漂白剤で落とした時は「やっと、汚れを落とせた」と、嬉しそうにしていた。

 僕の名画は汚れ扱いだ。神出鬼没のアーティスト、バンクシーの落書きは、母国イギリスをはじめ世界中で高く評価されている。バンクシーのものなら落書きでも大歓迎なのに、僕の落書きが家族にも評価されないのは謎である、しかも、子供は手かせ足かせをはめられるのを好まない。西遊記の孫悟空のように縦横無尽に大活躍したいのは、誰でも同じだ。

 ママに言わせると「あなたが好き勝手をしたい気持ちは分かるけど、やって良いかどうかを見極める経験で社会性が身につく。厳しい現実を話すけど、辛抱してね」との話だ。

 家の近くに、私立の行雲館高等学校がある。この名称が行雲流水から来ているので、優秀な自由人かというと、首を傾げる。実際には、学習能力に不如意のある劣等生ばかりが集まる高校だ。

「幾ら近所でも、ここにだけは通いたくない」と工務店の息子・弥次郎が言っていたほどだ。行雲館の生徒たちは、驚くほど行儀が悪い。自転車に乗りながらコーラやジュースを飲む。バス停の椅子に座り弁当を食べる。公園の芝生の上で昼寝をする。プラスチックゴミも公園のゴミ箱に平気で捨てる。

 ゴミ箱には大きな文字で「ご家庭のゴミは捨てないでください」と書いている。

パパは案外、無頓着で、高校側への苦情も言わないで平気な様子である。あるいは、そうした行状を知った上で泳がせていたのか? 人の心の中は覗けそうで、覗けない。

 そうこうするうちに、最近彼らの行動は悪質化し大胆なものになってきた。教育効果は単に学習面の向上だけではなく、人格の良化を伴うものでなければならない。それにも関わらず、大きな声で歌を歌いながら歩く者、自転車で蛇行運転する者、さらにはヌンチャクを振り回し格闘する者まで登場し始めた。

 驚愕したのはパパだけではない。僕も彼らの傍若無人ぶりに肝を冷やした。パパも堪忍袋の緒が切れたのか、自宅前で行雲館の生徒がたむろしているときに「ここは、普段は閑静な住宅街だ。君らが来るところではないだろ」と、数回追い返した。だが、彼らも負けてはいない。高校生といっても未成年者である。猿山の野生の猿ほどにも分別心がない。

 追い返されても、追い返されても、また別の連中がやってくる。ほとぼりが冷めたころに、前に来た奴らが来る。

 フロイト心理学では、乳幼児期の無意識的罪悪感や不安が未解決のまま成長すると、自分を罪人と思い込む自己処罰感情が出来る。そういう経緯が、人を非行に走らせる原因になるとしていた。

 パパには、そんな複雑な人間心理への理解や、それを基にした優れた解決策が思い浮かばないようだ。パパは自室に籠ると辞書を片手に、行雲館高等学校校長宛の長文の手紙を綴った。手紙には校長に対して「どうか彼らを適正に処罰してくださいますよう」と懇願していた。校長からすぐに「対策を講じるので、しばらく待っていただきたい」と、丁寧な返事の手紙が届いた。

 手紙が届いて二日後には、数人の職人が来て行雲館高等学校から住宅街に通じる抜け道に柵を設置してくれた。

 パパは大喜びで「我慢せずに抗議してみるものだな」と声に出した。パパは生まれつきのお人よしのように見える。この程度で血気盛んな彼らがおとなしくなるとは思えない。

 悪ふざけは元来、愉快痛快だ。僕のような幼児でも大人の前でおどけて見せるのは楽しい。行雲館の生徒たちが生真面目な住宅街の連中の前で、傍若無人ないたずらをするのも理解できる。悪ふざけに、不平不満を持つのは周囲の人間たちだけだ。悪ふざけが出来るには、それをする側が人数で勝る必要がある。また、ストレスの発散につながる条件が整わないといけない。

 この間、パパが動物園から帰ってから、僕に感心して話してくれた。聞いてみると猿山でニホンザルの様子を見ていて気が付いたそうだ、ニホンザルたちは群れのボスのような強いやつとは目を合わせようとしないし、近づきもしない。薄ぼんやりとただ座っている猿に、強そうな猿が近づくと、さりげなく目立たないように立ち去る。

つまり、彼らは自分と相手との力関係を意識してバランスをとろうとするのである。悪ふざけが好きな猿でも、相手がボス猿となると話は別だ。下手な出方をすると、弱い猿はボコボコにされる。悪ふざけは相手がどうする手段もない時に最も愉快なのである。

 人は退屈を憎み、快感原則の延長線上で日々、楽しむ。手段として、映画・演劇鑑賞、スポーツ、旅行などの趣味の愉楽が用意されているが、悪ふざけは規律よりも奔放さを好み、周囲への気配りよりも自己の優越性を誇示したいものの仕業である。もっとも、悪ふざけをする奴らは本来から優秀な者などではなく、劣等感の裏返しである。

 残念にも、パパは行雲館の生徒たちに面白いようにからかわれ、これに対抗して愚行しか出来なかった。

 まず、抜け道に設置された柵だが、簡単に出来たものなのでこれを越えて侵入するのは容易だ。僕でもよじ登れば今すぐに乗り越えられる。設置してもしなくても大差がない。行雲館の校長はパパや周辺住民の抗議にちゃんと対処しているところを見せるためにやむを得ず設置していた。これを設置すれば解決すると考えた大人の思惑には大きな欠点がある。

 要するに境界線を明確にすれば、むやみやたらに他所に侵入しないと思っている。この柵なら、小さな子供でもよじ登れるし高校生なら飛び越えられる。

 柵が出来た翌日から、以前と同様に彼らは住宅街に出没して来る。ただし家の正面は避けている。追いかけられ説教されるのは面倒だと思っている。自室にいるパパからは見えないところで悪戯をして、すばしっこく逃げる戦法だ。もし、窓越しに彼らを見つけても、捕らえるのは不可能である。叱りつけるだけしか出来ない。

 足音を聞きつけて間に合ったとしても殴りつけるわけにもいかない。高校生と言っても未成年者だ。怪我でもさせれば、児童虐待防止法違反によって処罰され、記者の職を失いかねない。

 パパに注意された高校生のリーダー格は恨みに思っているのか、外でわあわあと騒ぎ立てるのを指揮するようになった。パパは困惑と焦燥のあまり、金属バットを手にして外に出たかと思うとそれを振り回し「まだ、懲りないのか」と叫ぶ。ただし、高校に近く行動が目立つのでおやじ狩りの蛮行に及ぶものは皆無だ。僕も、この時はそう思っていた。

 そんな時に事件が起きた。大抵の椿事は欲得か逆上か怨嗟感情から生じる。その点では、ロバート・K・レスラーも、エイドリアン・レインも犯罪心理学の創始者であるチェザーレ・ロンブローゾも異論がないはずだ。

 しかし、欲得は実業家にとってなくてはならず、逆上は評論家の心構えとしては必須である。スポーツ選手は、ライバル心を燃やし怨嗟感情にも似た心境でリベンジをはたそうとする。僕が人間心理の複雑微妙について考えてみたところ、大人たちは自分の心理状態ですらも扱い損ねている。

「平常心是道」は、中国の宋代に南泉普願禅師が残した教えだ。言葉の意味は不動の心持を述べたものではなく、ありのままの素直な気持ちを肯定している。要するに、過剰な反応は判断を狂わせる。善悪を決めるのは、欲得であれ、逆上であれ、怨嗟感情であれ、程度や頻度の問題と言える。

 今回の事件は逆上がキーワードとなる。人が逆上すると、アドレナリンやノルアドレナリンを代謝する。アドレナリンが身体に作用するのに対して、ノルアドレナリンは神経や脳に作用する。これらのホルモン物質は、幸福に暮らすためには無用なのかと考えると無論、違う。精神的、肉体的に健康に生活していくには必要な成分であるから難しい。

 困難を克服して精神的、肉体的に健全性を保つ努力こそが必要とされる。つまりは、心理的・生理的反応はバランスが大事だ。

 禅僧・快川紹喜は織田信長軍に焼き討ちに遭い、恵林寺で焼死したときに「心頭滅却すれば火もまた涼し」の辞世を残している。快川和尚のように達観していないと、こんな心境にはなれない。人の善悪や非行に至る原因の考察はこの程度にして、今回の事件について思うところがある。

 行雲館に陣地をとる愚連隊は、各種の空気銃やボウガン、アーチェリー、こん棒などを入手したため、日々勢いを増している様子だ。昼休みや放課後になると、爆竹を鳴らし、空気銃で西部劇のように決闘したり、こん棒でチャンバラの真似事をしたりし始めた。もっと悪いのは、VSR―10プロスナイパーという射程距離の長いエアーライフルで、住宅街に向かってBB弾を発射してくる。

 BB弾は、プラスチックで作られた直径六ミリの弾丸だが身体に命中するとかなり痛い。エアーライフルでも、行雲館の運動場から発射されたものが、自室にいるパパには当たらない。彼らは銃弾を一発放つごとにうおーっと大音声で威嚇する。パパは恐ろしさのあまり、せっかくの休日を台無しにされている。

 昼寝も、読書も、執筆活動も、つまみ食いも、いつものペースを崩されている様子が目に見えて分かる。かれらの計略にはまり、まごついている。

 戦争の歴史を振り返れば、シーザー、ナポレオン、豊臣秀吉に共通する部分がある。それは彼らが皆、禿または薄毛だった事実だ。肖像画家はうまく誤魔化しているものの、僕には見破れる。ナポレオンの肖像画の中には、漫画トリオのころの横山ノックの写真に似たものがある。

 豊臣秀吉は主君・織田信長から、猿と呼ばれていた説が有名だが、文献では「禿鼠」と呼ばれていた記述がある。秀吉のライバル明智光秀は、同じ主君から頭部がぴかぴか光るので「金柑頭」と名付けられている。ここから帰結すると、味方に禿頭の参謀でもいれば、高校生の愚連隊に負けるわけがないのである。

 僕はいつものように昼寝をして、巨人になった夢を見ていた。

 パパに「おやつを買ってこい」と命令すると、パパは「分かりました」と畏まり、大量の菓子類を持ってきた。

 夢野が訪ねてきたので「玩具をくれ」と、ねだると「知育玩具ばかりでは退屈でしょうから、精巧に作られたロボットを献上します」と、へりくだる。

 夢野が戻ってきて僕に手渡したのがブリキで出来たつまらない人形だった。僕は夢野を片手でひょいとつまみ上げ、ぶらぶらと揺さぶり「ここから落とすとお前はどうなると思う? AI搭載の最新のロボットを寄越せ。早くしないと酷い目に遭わせるぞ」と凄んだ。

 夢野は後ろも振り返らずに一目散で逃げて行った。僕は巨体のまま、夢野の帰りを待っていたが、轟音がしたので、せっかくのプレゼントをもらい損ねたままで目が覚めた。

 今まで恐れのあまり小さくなっていたパパが、いきなり飛び出してきて、表に出たかと思うとスリッパをつっかけて、行雲館に向かって駆け出した。

 僕は雲を衝く大男から二歳児に戻ったばかりなので、戸惑いの方が大きく、事の次第を見守るしかなかった。巨人のまま大暴れ出来れば、高校生の乱暴者など何の脅威でもなかったが、残念だ。

 パパはいよいよ敵と戦う覚悟を決めた。そう察した僕は、後を追って裏口に出た。パパは大きな声で誰かを怒鳴りつけている。見ると野球部のユニフォームを着た生徒が一人、ボールを手に取り慌てて逃げていく。

 パパは「人の家の敷地に入り込むな。馬鹿者」と叫びながら追いかける。だが、柵を越えて無断侵入すると罪になると考えたのか、途中で動かなくなった。

 すると、敵地から教師が現れた。

「彼は本校の野球部員です」

「高校生が他人の敷地に無断で侵入するのを許すつもりですか」

「いえ、打球の方向を見てここまで追いかけて来たのです」

「それなら、予め断ってから取りに来るべきでしょう」

「今後はよく注意するように指導します」

「それなら良いのですが……。十分なご指導をお願いします」

 雌雄を決する乱闘を予想していたが交渉は呆気なく終結した。パパの取り組みは、いつも最初の意気込みは良いが尻すぼみで終わる。今回の一件も同様だ。

 あたかも僕が巨人から急に二歳児の現実世界に戻ってきたのとどこか似ている。

 この一件は、まだ事件としては小さい。実はこの後で大事件が発生するのである。

 パパはリビングルームに来て、来客用のソファーの上で横になり、何か考え事をしている。行雲館の生徒への対抗策を思い巡らせているようにも見える。行雲館では朝礼中で、運動場では全校生に向けて注意している。声を聴くところ、昨日パパと交渉していた教師だ。

「生徒の皆さん……、いや、諸君。諸君は、高校生は未成年だから責任も何もない立場だと思ってはいないか? 奈良時代以降、わが国では長く男子は十二歳から十六歳で元服し大人の扱いを受けてきた。君たちと同年代の若者が大人として責任を持たされていた。大人の自覚を持つ心がけは、他人に迷惑な行為を慎む姿勢でもある。例えば、勉強中に大きな声で歌を歌われると集中できない。スポーツの最中に空気銃で狙い打たれたら好成績を残せない。これは、わが校の校内のみならず、近隣住民への配慮についても同様だ。間違っても、妨害、攻撃等の行為をするのが断じて許されないのは自覚し、生徒の皆さん……、いや諸君も日常から心がけて欲しい」

 パパは耳を傾けて、熱心に話の全体を傾聴していたが、ここまで来ていかにも嬉しそうに笑った。つくづくお人よしである。教師が全校生に向かってこれだけ立派な訓示を伝えたから、攻撃の火の手は止むと考えていた。

 二十一世紀の現代社会において、そこまで善良で素直で明朗な人物は存在しない。僕は、他の何事よりも悲しい。誰にとっても、憎まれっ子に世に憚られては迷惑だ。

パパは、生来そこまで知恵の回る男ではなかった。

 朝礼が終わると、教師の声が聞こえなくなった。それと同時にざわざわと教室に戻って行った。だが、昼休みの喧騒は昨日までと何ら変化がなく、時間が経過し授業のすべてが終了したと同時に、蝉噪蛙鳴のありさまだ。言葉自体は特に何の意味もなく、吠えんがために吠えている。

「うおーっ」と、叫び声があちらこちらから騒がしく聞こえてくると、彼らは校門から我勝ちに飛び出して来た。これが大事件の発端となった。

 これまでの経緯から、パパが愚連隊の標的になったのは間違いない。交渉能力の欠如が招いた災いだが、今になって後悔しても意味がない。彼らは柵の向こう側から家の様子を窺っている。

 隊列を組んで「どうだ。唐変木の偏屈」「頓馬」「間抜け」「馬鹿野郎」頓馬は苗字だから仕方ないとしても、罵詈雑言は鳴り止みそうもない。だが、ある人の意見では、これらの行動の大半は行雲館高等学校のクラブ活動だ。野球部は以前、別のグランドで練習していたが、そこは不動産会社を通じて売却されたため、今では運動場が使用されている。

 さらに、新設のクラブ活動として、中国拳法部、アーチェリー部、射撃部が出来たため大賑わいになっている。彼らがよく歌う歌も、大会出場に備えて校歌を斉唱している。大きな声で悪罵しているのも、エラーなどの失策を批判し合っている。

 真偽のほどは別として、彼らの乱暴は長く続き、とうとうボールが家の窓ガラスを粉砕し「ガチャン」と、大きな音を立てた。

 こうなると、シャイなパパでも徹底抗戦に出る気構えが見られた。パパは鼻息を荒くすると立ち上がり、猛然と駆け出した。僕も遅れてついて行ったところ、運動場には野球部の部員が十五名ずらりと並び、パパに強い口調で咎められている。

「お前たちは人の家に無断で入る泥棒の類か? それとも人を馬鹿にして喜んでいるつもりか」とパパの尋問が始まった。

「いいえ、僕たちは行雲館高等学校の野球部員です」

「それなら、何故、人の家のガラス窓を割って平気でいられる? 根性が腐っているのか」

「すみません。ボールが飛び込んだものですから」

「何故、ボールを飛び込ませた?」

「野球の練習中にうまく捕球できなかったのです」

「ちゃんとボールを見て取るようにしろ」

「ホームランなので取れませんでした」

「うそをつけ、それを取るのが外野手の役割だ」

「それは無理だと思います」

「まったく怪しからん奴だな」

「今後は注意しますから、許してくれませんか」

「ろくでもない連中に住宅街をうろうろされるのは迷惑だ。しかも、うちの敷地に何回、侵入したと思う。ガラス窓まで割って許せと主張するのは非常識だろ」

「僕は行雲館の野球部キャプテンですが高校生です。自己判断ではなく、監督や校長先生に相談しないと何とも言えません」

「本当にそうなのか」

「ええ、まあそうです」

 パパは校舎の方を見ながら「おい、校長がいるのは職員室か」と問う。

「多分、そうだと思います」

「職員室に行って校長を連れてこい」

「校長がいなければどうします?」

「誰か責任ある立場の者を連れてこい」

 野球部キャプテンは、各部員の様子を見て動きもせずにうろたえている。

パパはこれでも猛抗議をしているつもりだ。逆上する気構えが説得力を増すと思い込んでいる。野球部員の中には、成り行きを面白く思っているのか、にやにや笑っている者までいる。僕は紳士的な態度ではなく、逆上によって解決手段とするパパの無分別を応援して良いものかどうか判断しかねた。そこで、しばらく静観した。

「誰でもいいから早く呼んで来いと頼んだのが、お前には分からないのか? 校長でも監督でも教頭でもいい」

「もし、誰もいなければ用務員や保健師でも構いませんか」

「馬鹿をいうな。今回の件で判断できるものを呼べ」

 やっと、野球部キャプテンは「分かりました」と、校舎に向かった。だが、キャプテンはパパの思惑が理解できているのかいないのか、首を傾げているのである。

 用務員でも連れてこないかと心配していると、例の野球部顧問の教師が来た。

 パパはすぐに交渉に臨んだ。

「実はたびたび、乱入するものがいて困っています。毎回、説教をしているのですが、最近では私の姿を見るたびに逃げる。そうこうするうちに、家の窓ガラスを破損されました」と畏まった口調で話した。

 さらに「本当に、行雲館の生徒でしょうか? 間違いありませんか」と皮肉っぽく尋ねた。

 野球部顧問の教師は、落ち着いた様子で、運動場に居並ぶ部員たちを一通り見回した上で、パパの顔を見直すと、口を開いた。

「そうです。全員がわが校の生徒です。今後はご迷惑が及ばないように対策を講じ、生徒には住宅街への侵入を禁じるように徹底指導いたします」と答えると、すぐに野球部員の方に向き直り「君たちは何故、無断で人の敷地内に入る? それに、集団で住宅街に出向くのは近隣の迷惑になるだろ」

 さすがに、野球部員たちは一塊になり、顧問の教師の前では大人しくしている。

「あまりにも、酷い乱暴狼藉なので困惑しています。学校の近くに住んでいる以上は、ボールが飛んでくる事態もあるでしょうし、騒音が発生のも仕方がないでしょう。ですが、毎回同じ苦情を言わなければならない状況をお察しいただきたい。もし、住宅街でけが人がでたらどうされますか」

「お怒りはよく分かります。何分、大勢の生徒のすることですから……。それと、当面の対策ですが……。もし、ボールがそちらへ飛んだ場合、裏口から侵入せずに表から回ってお断りしたうえで取るようにさせます。何分、生徒にとってスポーツや部活動は必要ですので、ご容赦、願いたいと思います。これからは、十分に注意して行動させますので」

「私の言った半分しか答えになっていない」

 そこに校舎の方から、恰幅の良い年輩の男性が近づいてきた。スーツ姿なので用務員には見えない。

 野球部の顧問は「あっ、校長先生」と、軽く一礼した。

「先日はお手紙を拝読しました。お目にかかるのは初めてだと思いますが……。私が行雲館高等学校の校長を務めています」

「これはどうも、頓馬太平です」

「実は、お手紙を拝見して以来、対策を考えていました。職員会議の議題にもなっておりまして、次回結論が出る予定です」

「窓ガラスの件はどうなります?」

「お宅様の窓ガラスを破損した件ですが、それについても弁償させていただきます。私が調べたところ、損害賠償保険の適用対象にもなっています」

「なるほど、それが分かって安心しました。スポーツはいくらでもやっていただいて差支えはないです。ただし、周辺住民への迷惑行為には十分な注意を払って欲しいものです」

「それは心得ています」

「では、野球部員の皆さんを足止めしていましたが、ここでお引渡しします。校長先生までここに、お呼び立てして恐縮ですが、後はよろしくお願いします」と、パパらしく最初の憤慨や勢いはどこへいったのか、すべて納得したような挨拶をする。

 数日後、校長からパパに連絡が入り、運動場と住宅街の間に防護ネットを張り巡らせる取り決めで一件落着した。僕は実務が、ここまで手間がかかるとは知らなかった。一つの事項を決定するまでに、調査→会議あるいは稟議書の提出→決定→契約→決済の流れが必要で時間が随分かかる。

 二歳児の僕らなら、当日に決めた約束を即座に実行できる。そこがかなり違う。

 大事件の解決した翌日、僕はママに連れられてスーパーマーケットに買い物に出かけた。

 角を曲がるところで、玉田社長と佐々木小三郎君が立ち話をしている。玉田は「あの頓馬太平は、とんでもない奴だ」と、大きな声で批判している。二人は僕らが近づいているのにまったく気づいていない。

 ママと僕は機転を利かせて、横丁の手前に身を潜めて、一部始終を立ち聞きした。

「そこで、君にしか出来ない件だが、頼みたいことがある」

「私に出来るなら、何だってお任せください」

「どうしたものかな」と少し考えている様子だ。

「よろしければ、玉田さんの時間に余裕があるときに、私の方でご都合に合わせて出直しますが……」

「まあ、大した事ではないが、あの頓馬をどう懲らしめたものかと思ってね」

「頓馬が何かしましたか」

「いや、どうもしないがね。例の一件以来、胸糞が悪くてね」

「まったく、頓馬は傲岸不遜な男です。自分の社会的地位や立場をわきまえずに、不平不満を言い立てる。頓馬太平のような男を夜郎自大と言います」

「金の力など信用に値しない。実業家など拝金主義者に過ぎないとか、何とか、生意気を言いふらしているから、実業家の持つ権力で思い知らせてやろうと考えてね。大分、弱らしてやったつもりだが、頑固な男だ。弱音を吐くどころか逆襲してきた。驚いたよ。本当に…‥」

「経済とか経営の観念に乏しく、文芸趣味を至上の価値だと思っている男です。世の中の仕組みよりも、自分の美学を大事にしようとする。浮世離れした奴ですから、強情を張るのでしょう」

「あはははは、本当に理解しがたい大馬鹿者だ。色々、手を変え品を変えて攻撃を仕掛けている。この間は学校の生徒を買収してやらせてみた」

「それは愉快だ。かなり効果があったでしょう」

「手ごたえはあった。近いうちに降参する」

「それは良かった。いくら傲慢な男でも多勢に無勢ですからね。弱音も吐くでしょう」

「孤軍奮闘では、持ちこたえられない。それで大分、弱っているから、君に様子見に行ってもらおうと思った」

「はい、分かりました。すぐにでも取り掛かりましょう。様子は後でご報告します。面白いですよ。あの頑固者が意気阻喪しているのを見られるなんて。まあ、楽しみにしていてください」

「了解。それじゃ、帰りにうちに寄ればいい」

「では、ここで失礼いたします」

 またも、何か魂胆を巡らそうとしている。実業家の権勢は侮れない。パパが神経をすり減らし痩せ細るのも、意気消沈しうつ病になるのも、自分には責任はないと言わんばかりある。現代社会では主義の如何を問わず、世界を動かすのは金の力である。これまで手狭な借家暮らしで、実業家に人脈を構築しなかったのは不覚だ。

 これだと、ママが最も尊重する家族の健康が脅かされる。パパは佐々木君に対して、どんな応接をするか分からない。二歳児の僕でも心配で仕方がない。僕は一刻も早く家に帰ろうと思いママの腕を引っ張った。

 ママは「今ここで耳にした話は、二人だけの秘密よ」と、約束を求める。ママは味方の参謀になろうとしないのである。そのため、予定通り先に買い物を済ませてから帰宅した。

 ママと買い物を済ませた僕が、家に帰ると、やはり佐々木君は既に家に来ていた。佐々木君ほど調子のいい男はいない。さっきの玉田との話はおくびにも出さず、関係のない世間話をしている。

「少しやつれたように見えるが、何か心配事でもあるのではないのか」

「いや、いたって元気だし、以前と体重も変わらないよ」

「しかし、気のせいか顔色が悪く見える。最近、食欲はどうだ? 夜はゆっくり眠れるのか」

「まあな」

「何か気になる事態があれば、僕に出来るなら何でもするつもりだ。気兼ねなく申し付けて欲しい」

「何かって、どんな?」

「特になければ良いが……。毎日、笑って暮らせれば良いが、心配事は身体に毒だからな。君は陰気すぎると思う」

「笑い過ぎは危険だ。昔、大笑いしたために死んだ男がいた」

「そんな馬鹿な……。陽気に暮らすのは生活の基本だ。笑う門には福来るだろ」

「ギリシャ時代、ストア派の哲学者だったクリュシッポスは知っているか」

「知らないが、何の関係がある?」

「哲学者が、笑いすぎて死んだ」

「奇妙な話だな」

「葡萄酒を飲ませたロバが、銀の器からイチジクを食うのを見て、笑いがどうしても止まらなくなり死んだ」

「それは、よくある創作ではないか? 作り話っぽいだろ」

「いや、それだけではない。毒キノコのワライタケを食うと、笑い出すと止まらなくなる。すべてが、可笑しくてたまらなくなり、裸で踊りだしたり飛んだり跳ねたりするが、呼吸を忘れて笑い続けるため、かなり苦しい」

「それは、自然の感情による笑いとは言えない。逆にアメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズは五百人に一人しか完治しないと言われる難病『硬直性脊髄炎』に罹ったときに何をしたと思う」

「馬鹿笑いでもして、病気を治したのか」

「まあ、そんなところだな」

「それこそ、人を馬鹿にしていないか」

「カズンズは十分間腹を抱えて笑うと、二時間は痛みを感じずに済む事実に気づいた。そこで、毎日何本ものコメディ映画を見続けた。無論、医師の協力や薬の服用と合わせてだが……。それで、奇跡的に病気が治った」

「僕にも、馬鹿笑いしろと勧めるのか」

「何も、常ににやにや、げらげらと、笑いながら暮らせば良いのではない。明るい気分で過ごすのが、精神衛生上も健全だ」

 佐々木君がパパの様子から実情に探りを入れているときに、表のドアを開ける音が聞こえてきた。

「ボールが入ったので、取らしてもらえませんか」

 ママが「はい、どうぞ」と答えている。行雲館の生徒は裏へと回った。防護ネットの件は、資材の搬入がされているものの、まだ工事が始まっていない。佐々木君は怪訝そうな表情で「今のは、えーと、ありゃ何だ?」と聞く。

「裏の野球部員が家の庭にボールを放り込んだ」

「裏の野球部員? どういう意味だ?」

「行雲館高校の野球部員が毎日、練習している」

「なるほど、それは騒がしい」

「騒々しくて、読書や思索の邪魔になる。僕が権力者なら廃校に追いやるところだ」

「子供を相手にして、そこまで怒る必要はないだろ」

「そんな程度の話ではない」

「そこまで酷いのなら、引っ越せばいいよ」

「誰が引っ越すか。向こうが悪い」

「僕に怒るのは筋違いだ。相手は高校生だ。放っておけばいいよ」

「君は平気かも知れないが、僕にとってはただ事ではない。昨日、校長に直談判してやった」

「それはいい。向こうは恐縮していただろ」

「ああ、解決策も出してくれたよ。一件落着のはずがまだ続いている」

 この時だ。またドアを開けて「すみません。ボールを取りに来ました」と、声が聞こえる。

「また、来たじゃないか? どうなっている?」

「ああ、それは必ず表から来て、承諾する約束だからな」

「約束があるから、あれだけここに訪ねてくる。それで分かった」

「何が、どう分かった?」

「ボールを取りに来る原因だよ」

「今日だけで二十回も来ている」

「面倒じゃないか。ここに来ないようにすればいい」

「仕方がないじゃないか。もうしばらくの辛抱だよ」

「ボールと同様に丸い物はどこへでも転がっていけるが、角張ったものはそうは行かない。転がるたびに角が当たって痛みにつながる。金持ちに楯突くのも同様の結果になる。人を立てる習慣、気を遣う習慣を学ばなければ同じ繰り返しになる。一難去ってまた一難だ」

「あのう、ボールが飛んだので取りに来ました。裏口に回ってもいいですか」

「ほら、また来た。だから言っただろ」と佐々木君は楽しそうにしている。

「失礼な。他人事だからと言って嘲笑うのか」とパパは顔を紅潮させている。

 佐々木君は当初の目的をはたしたので「それじゃ、これで失礼するよ」と、帰って行く。

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